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デジタル化は何を変えていくのか?


 新聞やテレビで「デジタル化」という言葉を見るようになった。九月に管内閣が発足し、「デジタル庁」の新設を発表した。コロナ渦においてソーシャルディスタンス(社会的距離)が求められ、遠隔操作が普及されつつある。こうした生活形態が、遅れたデジタル化を進める好機となった。
 デジタル化はあらゆる電子化による効率化である。いまに始まったことではなく、病院や金融機関の電子カード、パソコンや携帯電話など、見渡せば私たちの生活はデジタルの波にたゆたっている。
 たとえるなら、連続した時間の流れがアナログであり、数値化した点を繋げて、視覚化するのがデジタルである。こうして書いている文章もワープロの点集合であり、一筆の字形に見せかけている。身体感覚がアナログならば、人工的な虚構がデジタルだ。はたして私たちの生活は、薄らさむい虚構に満ち満ちていくのだろうか。
 デジタル化はすべての人にサービスが平等に提供され、「生活の豊かさ」という名目がある。いずれ、公共交通の自動化、病院の遠隔診療、介護や行政窓口のロボット化など、想像もできない環境が予定されている。裏を返せば、加速する人口減少、少子高齢化、労働力不足など、いびつな社会構造ゆえに、そうせざるを得ない事情というのも見えてくる。はたしてその行く末は、豊かさと結びつくのだろうか。
 デジタル化は通信を含む先端技術(テクノロジー)の一部である。耳慣れない専門用語が多いので、素人には分かりづらい。公共事業であっても道路工事と違って、やっていることが目に見えない。「情報は二十一世紀の石油」とも形容されている。個人情報の漏えいや流用も心配である。知らぬ間に、個人が監視社会の囚われの身となる危惧がある。
 まるで否定ばかり書き並べているが、私のような障がいをもつ者には、デジタル化は社会参画を可能にする有効なツールとなっている。在宅によるリモートワークや電子機器による意思伝達は、埋もれた能力を開発する選択肢となる。高性能の電動車いすは、生活範囲を広げる一助ともなった。
 先日、テレビアナウンサーが「ハンコをきれいに押したときの快感がたまらない」と脱ハンコ化に意見を述べていた。おそらく今までがそうであったように、便利さへの小さな抵抗は時間とともに回収され、生活の一部に取り込まれるだろう。しかし一度進んだら後戻りできないのが、科学の性質である。そのデジタル化はなぜ必要で、それは何のためにあるのか。そのあたりの本質を、注視していくべきだろうと思っている。

                               「Scramble」第169号 2020.12.20

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