西郷どんもそろそろ終わりで、西南戦争で熊本城が登場する。先般の熊本の旅では、
熊本の地震での復興の象徴である熊本城の天守郭は元の姿にかわっていた。戊申戦争
で、明治天皇を担いで、徳川を賊軍化し、官軍として、会津などの東北勢をやぶって、
明治政府を成し遂げた西郷がどうして、西南戦争を起こしたのか、疑問に思うのは、
私だけでなく、歴史家もそのことを称している。私なりに、その原因を上げたい。
大久保、木戸、板倉などがヨーロッパなどの諸外国を視察して明治6年にかえって
きたが、日本の遅れを感じたて、外国に追いつくには、近代化のための産業革命が
必要と思い、それまでの政府の中心人物の西郷が進めの生ぬるい政策ではダメとの
結論から、征韓論の進め方の相違から、政治の世界から追い出したのは有名である。
西郷は、薩摩に帰り、武士集団の不満をなくすため、私学校を造り、農業などでその
不満をやわらげ、政府の推進する産業の推進を支えるべく、推進していたが、政府の
進める政策のなかでも、徴兵制に一般の人をも入れ、今まで戊申戦争で活躍した武士
を取り上げなかったことなどと、農民からの税金で、外国の人に、いい顔をするため
に裕福な暮らしを見せることなどが不満となったのであろう。そのためいち早く、
江藤新平が佐賀の乱を起こすが、西郷が大将になった警察軍により、鎮圧されている
のである。しかしその後、各地での同様の武士の不満が起こることに合わせて、薩摩
でも、その空気が急激に高まり、これを恐れた、大久保の政府が、西郷を抑える政策
をとったことが戦いの始まりとなったと思う。しかし、西郷は、大久保と単独で、
東京に行き話合わなかったのか疑問である。
これは、薩摩の武士団を鎮めるには、戦いなしにはすまないと感じたからだと思う。
そのため、熊本の鎮台の政府軍2000人に対して、1万人の薩摩軍を引き連れての
西南戦争を起こし、初戦では勝とおもっていたが、政府軍は、その作戦の情報をいち
早く電信でキャッチし、東京から、600人ほどの警察軍を汽車と軍艦を使って、
3日の短時間で、熊本城に送り込み、防御態勢を取っている。このことで、薩摩軍は、
最後には田原坂の戦で敗れ、その後は、佐賀の乱と同じく、鎮圧されてしまい、西郷
は鹿児島の城山で自決するのである。この後は、明治政府は、鉄道、造船、通信、
電力とあらゆる産業を興し、近代化をはかり、日清戦争、日露戦争を経て、やっと
近代化をはたすのである。このことから、私は、タイトルのように感じた。