AKB48の旅

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「マジすか」の功罪

2012年06月06日 | AKB
Season2の総論部分であるメインストーリーは破綻気味に思えたけど、一方で各論以下の細かい設定とかは、AKBのハイコンテクストに巧みに則っていた。それゆえだろう、奇妙な感触が残ることになる。「マジすか」がメタフィクションであるというのは言うまでもないことなのに、現実のAKBとの関係性が曖昧になってしまったように思う。否、「現実のAKB」という言い方の方がむしろナンセンス化してしまってる。

AKBという存在が、もともとリアルとバーチャルの連続体としてあったのだから、これはある意味必然なのかも知れないけれど、それでも生身のリアルというのは確かに存在するわけで、なのにそこすら握手会という「接触」によって担保されてしまってるんだろう。結果、「マジすか」のメインストーリー自体に、奇妙なリアリティが付与されてしまったように思う。このあたりはもっと詳細な分析が可能だろうけど、メタフィクションが必然的に持つ自己言及構造がここで効いてる。

何が言いたいかというと、ネットのあちこちで語られる内容に、この「マジすか」の様々な要素が紛れ込んでいるということ。とりわけ明快にフィクション側へ落とし込んでおかなければならないメインストーリーが、あたかも「現実のAKB」(この表現が意味を保持できなくなっているというのは置いといて)の物語として受容されているように見えること。

ここはなかなか恐ろしいところで、「マジすか」のストーリーは明らかに秋元康の仕掛けと捉えるべきだろう。そもそもAKBにはヤンキー文化の要素はほとんどない。周囲を威嚇するような行動はもちろん、暴力性は一切ないし、反権力的でも反社会的でもない。それどころか逆に、周囲を魅了する存在であり、大人数の女性集団としては信じられないレベルで、いじめ的な要素がない(まったくないとは主張しないよ)。AKB商法を「反社会的」とみなす方がいるかも知れないけれど、それこそヤンキー文化とは何の関係もないだろう。

AKBの存在様式をフラットに見れば、透明性と公正性のもと、コントロールされた自然淘汰を前提とした、一所懸命、切磋琢磨、死に物狂いあたりが妥当じゃないかと思う。そんな中で運がつかみ取られ、奇跡の物語が紡ぎ出される。けれども、秋元康の手腕は、そんなAKBの存在様式を、少なくともSeason1ではうまいことヤンキー文化の文脈に落とし込んでみせた。ここに秋元康の恐ろしさを感じないでどうする。

フィクションであることに自覚的であれば、タネはいくらでも気づけるはず。既に指摘したけど、Season1では、一見もっともヤンキー文化に親和的に見えるたかみなの存在が消されてる。Season2では、さらに、ちんともさんを敵役に振ってる。その他、AKBの中心メンバーのほとんどの「設定」が大きく書き換えられてる。なのに違和感を感じにくいのは、それこそ個別の文脈が守られてるから。つまりは換骨奪胎ということ。

AKBの組織論は、少なくともヤンキー文化の文脈にはない。私の考えは既に書いたし、別にそれが正しいとか主張する気もないけど、「マジすか」のメタフィクションにだまされるな、くらいは主張してみたい、そんな思いで、こんな「マジ」もの書いてしまったよ。