AKB48の旅

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新堂本兄弟3月09日のあつみな

2014年03月11日 | AKB
本稿は、うまく書き出せなくて、何度か書き始めてはやり直すを繰り返した。言葉のとっかかりでこんなに苦労するものなのか、な感じなんだけど、まずは「新堂本兄弟」3月9日放送の、前田敦子さん、高橋みなみさん、ゲスト回が感慨深過ぎた、と書き出すところに収まってみることに。画面を見てた、そのあらゆる瞬間に、気が遠くなるほど、と誇張表現を臆面もなく使い倒したくなる、ハイコンテクストの権化というか、単なる情報を越えた、奔流のような感慨が溢れて来た。

一人一人の人間としてのお二人が、どこにでもいるような普通の人間然としてるだけに、そんなちっぽけな人間としての個々人の向こう側に広がってる、広大な世界、膨大な情報、既にして終わってしまっためくるめく歴史物語が、何と言うか眩しく、神々しく見通せてしまうと言う極限の逆説。こういうのをどう表現したものか。当たり前のように、AKBの物語の根幹のすべてをになう「あつみな」という、その一言で代表させるしかないのかな。ハイコンテクストの極み。

もう一つ、シンプルに思ったのが、お二人が自らの人生を戦った、その勝者にして成功者であるということ。現実としてそうであるということを越えて、実際に人事を尽くして戦った上で、正に天命を得た、という表現が思想としての背景としてまずければ、既にして死中に活を得てしまったでも良い、単純な一言であっさりと「運」とだけ言っておくべきなのかも知れない、それを現実として掴んだ二人であること。番組中に流れた14才当時の姿が、なんというか痛々しくも神々しく感じられた。

なのに、現在のご本人達には、そんな過去の栄光の痕跡にして傷跡は、まったく感じられない。そんなそぶりも感じさせない、ごく普通の人間であることが伝わってくるばかり。もちろんのこと、外見的な圧倒的な美しさとか、周囲を睥睨する、威圧するような存在感とか、透徹した知性とか、そんな「超人」的な要素は欠片もない。ごく普通の人たち。けれどもだからこそ、この二人の偉大さが、とりわけ際立って感じられる。

前田さんが前回出演された時、それはまだ、言わば人間界の範囲に収まってたように思う。人々が担ぎ上げた神輿を支える、その手には、肩には、まだリアルの感触の余韻が残ってて、そこに前田さんという虚構の神の体温の名残が感じられた。だからあの時の「右肩」には、まだ涙が寄り添ってた。けれども既にして「あつみな」の物語は神話となって、現実のお二人とは離れてしまったんだろう。今回の「M」には、等身大の前田さんと高橋さんがいた。