分からなくても「毎朝15分」難しい本を読むことで起きたこと...人生を変える読書術
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<「分からない古典や哲学書にも挑戦しなければならない...」名文記者として知られる朝日新聞編集委員の近藤康太郎氏が説く、読書術について>
私たちは、本を読むのは知見を得て物事を理解するためだと思っている。しかし、本当にそうだろうか? 本を読むからには、分からなければならないのだろうか?
発売後すぐに重版され、今話題書の『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)は、博覧強記の読書家でもある近藤康太郎氏が文章読本の定番書『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』と対を成す1冊として上梓した。
その近藤氏が述べる、簡単に理解できて情報を得る実用書ばかりでなく、容易に分からない難しい本にも挑むべき理由とは?
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⚫︎様々な読書メソッドに正解はあるのか
『百冊で耕す』は、読み方のノウハウを羅列しただけのビジネス実用書ではない。「実用書で初めて泣いた」という感想が多く寄せられた前著『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』と違わず、ロジカルかつリリカル。
哲学的に考え抜かれた強固な論理を、「エモ」とは違うエモーショナルな文章で書き、ジャンルを超えた古今の文献を縦横無尽に引き合いにしながら、読者を楽しませる。
さらには、「本を読む」という行為をするすべての者を、リスペクトし、アジテートする。「本を読んでいるあなたは魅力的だ。分からない本でも、大丈夫。さあ、もっと本を読もう!」と。
各章は「速読/遅読」「買う/借りる」「孤独の読書/みんなの読書」と二律背反の方法論で構成されている。
〈読書なんて人それぞれ、勝手に楽しめばいい〉と「はじめに」にある通り、どちらかの方法が正しいのではなく、どちらも正しい。少なくとも一理あると納得させられる。
そして、なぜそのような読み方をするのが良いのか、なぜ古来、人はそういう読み方をしてきたのかを深く掘る。
いつしか、二律背反の方法論は「読むことは愛されること/読むことは愛するということ」といった哲学的なテーマにまで昇華されていく。
本を読む。その、もっともすぐれた徳は、孤独でいることに耐性ができることだ。読書は、一人でするものだから。ひとりでいられる能力。人を求めない強さ。世界でもっとも難しい〈強さ〉を手に入れる。
読書とは、人を愛するレッスンだ。
──『百冊で耕す』164ページより(以下、引用はすべて同書)
つまり本書は、読むという行為を多角的に観察し、書物の存在意義、思考するということ、生き方の姿勢さえ問うてしまう、一風変わった思想書でもある。
⚫︎起きてスマホはやめて、15分読書した結果
寝起きにふとんの中でスマホをいじるのは、一日の始め方としては最悪の選択だ。
186ページより
身に覚えがある人が多いのではないだろうか? スマホのアラームで起きる。そのまま画面をスクロールしているうちに徐々に覚醒し、気が付けば布団から出る時間になっていた。そしてしばらくして、自己嫌悪に陥る。
朝見ていたコンテンツがすでに思い出せない。大した情報ではなかったせいかもしれない。不毛な時間を過ごしてしまった、と。
こうしたことが起こるのは当然だ。人の時間というもっとも重要で限りある資源を企業が奪い合っているのが現代だからだ。それならば、あえて朝のスマホをやめてみる。それだけで、あなたの人生が変わるかもしれない。
実際、毎朝15分の読書を長年続けてきたことで、自分の人生は変わった。人生が立ち行かなかったとき、毎朝15分、ヘーゲルの『精神現象学』を読んでいた。分からなくてもいい。〈自分を世界につなぎとめる。書物で世界につながる〉。そうすることで、〈自分で自分を、小さく承認できる〉。自身のエピソードとともに、近藤氏はそう説いている。
(略)同じ中毒になるなら活字中毒になりたいと、わたしは思う。(略)
今日も自分は生きている。世界は壊れていない。そんな驚きと喜びで、一日を始めたい。夜のうちに枕元に本を置いておき、目が覚めたら、寝ぼけまなこでページを繰る。
187ページより
⚫︎SNSやアマゾンにネガティブレビューを投稿する前に
その内容からひとつだけ、難しい本、分からない本への向き合い方について紹介しておきたい。
近藤氏は、「分からない」が世界を切り開くと考えている。逆に「分かる読書」とは、究極的にこういうことかもしれないからだ。
そもそも、世の中に分かりやすい文章、やさしい文章など、ない。分かりやすい文章とは、読者が分かる範囲で読んでいるだけだ。やさしい文章とは、読者が自分のレベルに引き下げて、やさしく読んでいるだけなのだ。
111ページより
自分が理解できないような本にも挑戦してみたい。しかし、分からないことがこわい。分からないことで自信を失ってしまう。場合によっては、アマゾンなどのネットレビューで「結論が分からない」「つまらない」などと一刀両断する。そういう人こそ、臆せず難解な書物に挑戦してほしい。
分からなくても恥じることはないのである。それよりも、分からないという実感を得ることこそが大切なのだ。そのうえで、分からないという実感を味わい尽くし、自分の糧にする方法を多数紹介している。
⚫︎「分からない」ことで開かれる可能性
たとえば、〈数ページに一カ所くらいは、「何について書いているのかだけは、いちおう分かる」〉という文章に出会い、嬉しさを実感しながら線を引く。
たとえば、歯ごたえがありすぎる文豪の文章も、〈豪速球にバットを振って、当たらない。しかし、バットを振ること=物理的に読むこと、それだけはできた〉という体験を味わう。それによって、我慢して本を読むことを覚える。
たとえば、結論が分からないならば、なにが分からないかを自分の言葉にする。疑問を言語化できれば、自分の読書はそれなりの深度を得たと理解する。
それぞれのより深いロジックや、分からない読書を楽しむ具体的なテクニックについては本書に詳述されているので、ぜひ確かめてみてほしい。
しかし、そうは言っても、結論・答えに達しないならば、本を読む意味などあるのだろうか? 何のために本など読むのか? 疑問を言語化できれば、それでいいのだろうか?
そもそも問う能力がないから、読書に「答え」を待つようになる。読書とは、答えや結論を得る方便ではない。読書とは、新しい問い、より深い問いを獲得するための冒険だ。「問い」が、そのまま「答え」になっている。終着駅ではない。始発駅に立つために、本は読む。
そして、問いを発見した人が、世界を変える。答えは、世界を動かさない。
なぜなら、世界にも、人生にも、そもそも「答え」はないから。
111ページより
問えるわたしは、世界を、変えるのである。
特設サイト:近藤康太郎『百冊で耕す』『三行で撃つ』(※試し読みや関連記事を公開中)
📗『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』
近藤康太郎[著] CCCメディアハウス[刊]