仏教のミッションとは何だろうか──ドラッカーの問いから考える
論座 より 230415 薄井秀夫
⚫︎教えを伝えることはミッションなのか
日本では、葬儀における宗教は仏式を選択する人が圧倒的に多い。業界団体等の調査においても、全葬儀の90%弱が仏式で行われている。
一方現代では、仏教は低迷しているようにも見える。
実際過疎地では、檀家が減り、運営自体が立ちゆかないというお寺が増えている。
また都市部では、葬儀が簡素化されるようになり、またお寺とはあまり深く関係を持ちたくないという人が多数を占めるようになった。
まして仏教の教えに興味を持つ人はほとんどいないのが現実である。
圧倒的な存在感を示しつつも、低迷に向かいつつあるという状況が現代の仏教を取り巻いている。仏教はいいけど、お寺はいやだ、というのが現代人の本音であろう。
⚫︎経営学者のピーター・ドラッカー
日本のビジネスパーソンにもファンが多いピーター・ドラッカーという経営学者がいる。
ドラッカーの経営理論でよく語られるトピックに「組織にとって重要な5つの質問」がある。
それは「われわれのミッションは何か」
「われわれの顧客は誰か」
「顧客にとっての価値は何か」
「われわれの成果は何か」
「われわれの計画は何か」の5つである。
これらに対する答えを考え続けることこそが、組織のマネジメントにおいては大切だということだ。
実はこの5つの質問は、もともと企業のマネジメントのためではなく、非営利組織のために語られたものである。
ドラッカーはその著書『非営利組織の経営』の日本語版序文で、次のようにも語っている。「いまも機能している最古の非営利機関は、日本にある。奈良の古寺がそれである。
創立の当初から、それらの寺は、非政府の存在であり、自治の存在だった」と。ドラッカーは日本のお寺を、1000年以上続く非営利組織として高く評価をしていたのである。
このドラッカーの5つの質問の中で最初の問いが、ミッションをテーマにしたものだ。ミッションとは、使命のことであり、「わが社が社会で実現したいこと」を表している。
そこで仏教のミッションは何か、ということである。
現代の僧侶にこの質問をすると、「教えを伝えること」「教えをひろめること」という答えがほとんどだと思う。お釈迦さまの教え、親鸞や道元といった祖師方の教えを伝えることがミッションだと。
もともとミッションという言葉は、キリスト教の布教伝道を意味していたことを考えると、この答えは順当だと言える。
しかし、ドラッカーの問いにおけるミッションは、「社会で実現したいこと」である。
この定義にしたがうと、仏教のミッションは、
「人々の心を安らかにすること」「人々を幸せにすること」「人を苦しみから救うこと」
といったことになるであろう。
そして「教えを伝えること」「教えをひろめること」はミッションではなく、
ミッションを実現するための手段ということになる。
⚫︎一時しのぎの救いと日本仏教の布教戦略
現代の仏教界では、教えを伝えることで人を救うのが仏教である、という考え方が主流である。教えによって、人を幸せにするのだと。
しかし日本の仏教は、歴史的に、こうした布教戦略をとってこなかった。
人々を救うことが第一で、教えを伝えることは、それを実現する手段のひとつという位置づけである。
そして、教えを伝えることよりも、「死者を無事あの世に送る」ことや「祈祷で現世の望みをかなえる」こと等を重視したのである。
これを非科学的だと受けとめる人も多いと思うが、宗教とはそういうものである。
日本で仏教が庶民に広がったのは、教科書的には親鸞や道元ら祖師方が活躍した鎌倉時代だと思っている人が多いだろう。ただ実際には、室町時代後半にそのピークがある。
その証拠に、現代に存在しているお寺の8割以上は、この時代に開創されたものである。庶民のお寺のほとんどが、この時代に生まれたと言っても過言ではない。
そしてこの時代、庶民に仏教が広がった理由は、仏教が庶民の葬送に携わるようになったからである。僧侶らが「死者を無事あの世に送る」ようになり、人々の死への不安を癒し、心に平安をもたらすようになった。
日本人の大半が、仏教に帰依するようになったのは、ここに理由がある。
もちろん教えによって救いをもたらすことは可能だろうが、それは誰もが辿ることのできる道ではない。理解することは簡単ではないし、実践するためにはそれなりの年月が必要である。限られた人にしかたどり着くことのできない境地である。
それに対し、葬送によって心の安寧を得ることは、すべての人に開かれた方法である。
きちんと教えを実践している人からは、「一時しのぎ」の救いに見えなくもない。確かに葬送で安らぎを得ても、それで根本的な問題が解決するわけではないからだ。
⚫︎信仰としての葬式仏教
しかし人は、日々の問題解決を、「一時しのぎ」で生きていくしかないのである。繰り返し「一時しのぎ」を重ね、それで何とか一日一日を過ごしていくということである。
もちろん教えを学んで、悩みや不安の根本的な問題を解決して生きていくほうがいいに決まっている。それができないから、「一時しのぎ」を重ねて生きていくのである。
葬儀が行われ、法事が行われ、お墓参りがなされ、仏壇へのお参りがなされ、死者を無事あの世に送りつづけることで、死んでもあの世で安らかに暮らすことができるという世界観・死生観を育んでいく。合理的な教えではないが、体験の繰り返しが、死への恐怖すら和らげていく。
もはやこれは「一時しのぎ」ではない。エスタブリッシュな仏教の陰に隠れて、見えない宗教としての葬式仏教が、圧倒的な支持を得るようになっていったのである。
葬式仏教は批判的に語られることが多いが、実は心に安らぎを与える信仰として、エスタブリッシュな仏教以上の力を発揮してきたのである。
⚫︎教えも中途半端、葬送も中途半端な現状
仏教の教えは、実に論理的で、現代人の合理主義的な感覚から見ても説得力がある。しかしこうした仏教は、インテリ層、エスタブリッシュ層にしか広がることはなかった。一般庶民に定着することができなかったのである。
論理的な仏教に対して、葬送を中心とした仏教は、体験的・感性的な仏教である。儀礼的で、非合理的で、とらえどころの無い信仰である。ところが日本ではその儀礼を通して、「人は死んでも、あの世で安らかに暮らすことができる」という信仰が広がっていった。
つまり、ドラッカーのミッション、人を安らかにする、人を幸せにするというミッションを達成させたのは、葬送なのである。
そしてこのミッションの達成によって、庶民の大多数の支持を得ることになり、結果的にマーケティング的な成功を収めることになる。
ところが現代では、ミッションは教えを伝えることと考える僧侶がほとんどになってしまった。庶民のものだった仏教がエスタブリッシュ化しているのである。
そのくせ教えを伝えることを実現させるのには限界を感じている。この時代では伝えることは難しいと。
そして葬送は、やらざるを得ないが、本来は僧侶のつとめではないという意識が強い。もちろん葬送に価値を感じている僧侶も多いが、意識のどこかで「理想は教えだが、現実は葬送」と考えがちなのだ。
こうしてミッションを見失った結果、教えを伝えることも中途半端、葬送をつとめることも中途半端になってしまった。現代仏教はこうして迷走を続けているのだ。
⚫︎目の前の現実から目をそらそうとする仏教界
仏教界では近年、葬送が簡素化する中で、葬送にばかり頼っていてはいけない、他の新しい活動を始めなければならない、という雰囲気が盛り上がっている。
例えば、イベントや文化活動、コミュニティ活動、あるいは地域福祉に関わる活動など、様々に取り組むお寺が増えている。
こうした取り組みは評価すべきもので、仏教が社会と関わっていく上で、今後も重要な役割を果たし続けることは間違いない。
しかしその一方で,葬送に関して,人々と正面から向きあうということには消極的である。
葬送をめぐって社会と仏教の間には、大きな意識のズレが存在している。
お布施や戒名に対しては、多くの人が不信感を持っている。誤解を解こうと様々な説明がなされているが、ほとんどの場合、建前論に終始し、説得力に欠けるものばかりである。
葬儀や法事などの儀式の最中、遺族や参列者は座らされているだけで、何をどうしたらいいのかの説明すらないことも深刻だ。人々は、葬儀や法事のことを、「意味がわからないもの」と感じ、それに疑問すら持たないようになった。意味がわからなければ、葬送の大切さもわからなくなっていくのは当然だ。
葬送において、再考しなければならないこと、再構築しなければならないことはたくさんあるのである。葬送のあり方を再構築していかないかぎり、仏教がこのまま衰退し続けるのは間違いない。
私には、仏教界はこの現実から目をそらそうとしているように見える。
変える勇気がないように見える。
仏教のミッションは、教えを伝えることなのか、人々に安らぎを与えることなのか。この問いを再考していくことが、日本仏教の再生の鍵を握っているように思う。(了)