人が「死ぬとき」はこんな感じ…患者の「死に際」に行われる医師の「パフォーマンス」
現代ビジネス より 230123 久坂部 羊
だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。
私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。
望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。
*本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。
⚫︎看取りの作法
今では禁止されていますが、私が医学部を卒業したころは、大学病院の研修医がアルバイトで市中病院の当直を行っていました。
その病院で夜に患者さんが亡くなると、アルバイトの研修医が看取ることになります。研修医はヒヨコ医者で、闊な看取りをすると家族を傷つけたり、混乱させたりするので、先輩から看取りの作法を教えられました。
今では禁止されていますが、私が医学部を卒業したころは、大学病院の研修医がアルバイトで市中病院の当直を行っていました。
その病院で夜に患者さんが亡くなると、アルバイトの研修医が看取ることになります。研修医はヒヨコ医者で、闊な看取りをすると家族を傷つけたり、混乱させたりするので、先輩から看取りの作法を教えられました。
夜中に起こされても眠そうな顔をするな、白衣はきちんとボタンを留めろ、だらしない恰好はするな等、基本的なこともありますが、看取りのコツは「慌てず、騒がず、落ち着かず」だと、伝授されました。
「慌てず」というのは、新米だと見破られないためで,「騒がず」というのは,騒ぐと医療ミスを疑われかねないからですが,あまりに落ち着いていると,患者さんを見捨てているように受け取られるので,適度な緊迫感が必要なため,「落ち着かず」ということになります。
もう一つのポイントは、あまり早くに臨終を告げないこと。
当直の夜、看護師から危篤の連絡を受けて病室に行くと、患者さんはたいてい下顎呼吸になっています。間隔がだんだん間遠になって、最後の息を吐き終わったとき、腕時計で時刻を確認して、「残念ですが、何時何分。ご臨終です。力及びませんで」と、殊勝な顔で一礼します。
「慌てず」というのは、新米だと見破られないためで,「騒がず」というのは,騒ぐと医療ミスを疑われかねないからですが,あまりに落ち着いていると,患者さんを見捨てているように受け取られるので,適度な緊迫感が必要なため,「落ち着かず」ということになります。
もう一つのポイントは、あまり早くに臨終を告げないこと。
当直の夜、看護師から危篤の連絡を受けて病室に行くと、患者さんはたいてい下顎呼吸になっています。間隔がだんだん間遠になって、最後の息を吐き終わったとき、腕時計で時刻を確認して、「残念ですが、何時何分。ご臨終です。力及びませんで」と、殊勝な顔で一礼します。
すると、家族がわっと泣き崩れたりするのですが、この判断が早すぎると、思いがけない最後の一呼吸が起こるのです。すると、家族は「あーっ、まだ生きてる!」と混乱します。
心電図も同じで、徐々に波が乱れ、スパイクの間隔が延びて、やがてフラットになる。そこで早まって臨終を告げると、ピコンと最後の波が現れたりして、家族がまた、「あーっ、まだ……」と叫ぶことになります。
そのあとで、もう一度、時刻を確認し直して、「えー、何時何分……」と告げるほど間の悪いことはありません。ですから、最後の呼吸が終わったと思っても、しばらく待って、ほんとうにもう下顎呼吸が二度と起こらないと確信してから、おもむろに時刻を確認し、臨終を告げるのです。そして、心電図にオマケのスパイクが出てもわからないように、スイッチはすぐに切るべしと教えられました。
すなわち、実際、患者さんは私が告げる時刻より少し前に亡くなっているのです。
⚫︎死に際して行う“儀式”
アルバイトで当直をする病院に着くと、まずその病院の医者から申し送りを受けます。今夜は何号室のだれそれが危ない等、亡くなりそうな患者さんを引き継ぐのです。そのとき、「この人は“儀式”はいらんから」とか、「悪いけど“儀式”もよろしく」などと言われます。
別に宗教的な儀式をするわけではありません。これは看取りのときに行う蘇生処置を指す医者の隠語なのです。
具体的には、心臓が止まったあと、強心剤を静脈注射するとか、心腔内投与といって、カテラン針(長さ六、七センチの深部用注射針)で心臓に直接、強心剤を注入したりします。さらには心臓マッサージの真似事をします。本格的な心臓マッサージは、ベッドのスプリングで力が吸収されないように、背中側にボードを入れ、かつ、胸骨が凹むほど圧迫しなければなりません。高齢者ややせた人だと、肋骨がバキバキ折れます。死にゆく人にそんなことをする必要はないので、軽くやっているフリだけするのです。
そのあとで聴診器を当てて、心拍が再開しなければ、ふたたびマッサージのフリをして、また聴診器で無音を確認します。チラッと家族のようすを横目で見て、まだ不足そうなら、またマッサージのフリを繰り返す。真剣な顔で、死ぬな、生きろと訴えるような目つきで、額に汗など垂らしてやっていると、さすがに家族もあきらめ、大切な身内の死を受け入れる雰囲気になります。
心電図も同じで、徐々に波が乱れ、スパイクの間隔が延びて、やがてフラットになる。そこで早まって臨終を告げると、ピコンと最後の波が現れたりして、家族がまた、「あーっ、まだ……」と叫ぶことになります。
そのあとで、もう一度、時刻を確認し直して、「えー、何時何分……」と告げるほど間の悪いことはありません。ですから、最後の呼吸が終わったと思っても、しばらく待って、ほんとうにもう下顎呼吸が二度と起こらないと確信してから、おもむろに時刻を確認し、臨終を告げるのです。そして、心電図にオマケのスパイクが出てもわからないように、スイッチはすぐに切るべしと教えられました。
すなわち、実際、患者さんは私が告げる時刻より少し前に亡くなっているのです。
⚫︎死に際して行う“儀式”
アルバイトで当直をする病院に着くと、まずその病院の医者から申し送りを受けます。今夜は何号室のだれそれが危ない等、亡くなりそうな患者さんを引き継ぐのです。そのとき、「この人は“儀式”はいらんから」とか、「悪いけど“儀式”もよろしく」などと言われます。
別に宗教的な儀式をするわけではありません。これは看取りのときに行う蘇生処置を指す医者の隠語なのです。
具体的には、心臓が止まったあと、強心剤を静脈注射するとか、心腔内投与といって、カテラン針(長さ六、七センチの深部用注射針)で心臓に直接、強心剤を注入したりします。さらには心臓マッサージの真似事をします。本格的な心臓マッサージは、ベッドのスプリングで力が吸収されないように、背中側にボードを入れ、かつ、胸骨が凹むほど圧迫しなければなりません。高齢者ややせた人だと、肋骨がバキバキ折れます。死にゆく人にそんなことをする必要はないので、軽くやっているフリだけするのです。
そのあとで聴診器を当てて、心拍が再開しなければ、ふたたびマッサージのフリをして、また聴診器で無音を確認します。チラッと家族のようすを横目で見て、まだ不足そうなら、またマッサージのフリを繰り返す。真剣な顔で、死ぬな、生きろと訴えるような目つきで、額に汗など垂らしてやっていると、さすがに家族もあきらめ、大切な身内の死を受け入れる雰囲気になります。
そこでようやく“儀式”を終え,時刻を確認して,「残念ですが……」のセリフとなるのです。
これがなぜ儀式かというと、蘇生する可能性など端からゼロであることをわかって行うからです。つまりはパフォーマンス、無駄な行為ということになります。
なぜそんなことをするのか。それは家族に精いっぱいの治療をしたという納得感を与えるためです。単純に看取って臨終を告げると、あとで「あの病院は何もしてくれなかった」などと言われる危険性があります。それは困るので、無駄かつ当人には残酷とも思える処置をせざるを得ないのです。
「“儀式”はいらない」と申し送られるのは、家族が患者さんの死をすでに受け入れている場合です。そのときは厳かに臨終を告げるだけでいい。看取るほうも楽なら、看取られるほうも余計な処置をされずにすみます。
最近ではインフォームド・コンセントが進んでいるので、病院も患者さん側に事実を伝え、“儀式”をする必要性は減っているかもしれません。こんな無益で残酷なことを減らすためにも、家族の側がしっかりと死を受け入れる心構えが重要です。死を拒んでばかりいると、ロクなことはないということです。
⚫︎死には三つの種類がある
ここまで説明したのは、生き物としての死、すなわち生物学上の死についてですが、死にはほかにも二つの種類があります。
それは手続き上の死と、法律上の死です。
手続き上の死というのは、死亡診断書に書かれる時刻、すなわち医者が死亡確認をしたことで認められる死です。これまで書いたように、医者の告げた死亡時刻と、生き物としての人の実際の死が微妙にズレることは理解してもらえたと思いますが、それが大きくズレることもあります。
在宅医療をやっていると、たまに、「朝、起きたらおじいさん(またはおばあさん等)の息が止まっていました」などという電話がかかってきます。夜中、寝ている間に亡くなって、気づいたのが朝というケースです。
すぐに患者さん宅に駆けつけますが、死亡診断からって二十四時間以内に診察をしていないと、警察に連絡しなければならず、そうなると検死を受けたあと、場合によっては行政解剖が行われます。当然、遺族には大きな負担となり、警察にも面倒をかけることになります。そんな無用なことを避けるために、患者さん宅に駆けつけて、明らかに亡くなっている患者さんの目にペンライトの光を当て、ピクリとも動かない胸に聴診器を当てて、死の三徴候を確認します。そして、時計で時間を確認し、おもむろに、「何時何分、ご臨終を確認しました」と告げるのです。
白々しいことこの上ないですが、こうすれば、診察してから死亡を確認したという体裁になり、警察への連絡をせずにすみます。手続き上、人は医者が死亡を確認するまで生きていると見なされるのです。
事故や災害などで心肺停止状態になった人が、病院に運ばれ、何時間後に死亡が確認されましたなどという報道がありますが、そのタイムラグは、たいてい病院で懸命の蘇生処置を行っている時間です。いろいろやってみたけれどダメでしたというとき、死亡確認が行われ、はじめて手続き上、その人は死んだことになります。しかし、生き物としての実際の死は、心肺停止になったときであると考えるべきです。
三番目の死は法律上の死です。いわゆる「脳死」。日本でも二〇一〇年に臓器移植法が改正され、法律的には脳死が人の死と認められるようになりました。
脳死とは、脳幹を含む全脳死のことです。脳幹は呼吸や心拍など、生命維持をコントロールする部位で、ここが死ぬと、どんな蘇生処置をしても生き返ることはありません。テレビ番組や週刊誌の記事などで、脳死からよみがえったなどと紹介されることもありますが、それはそもそも脳死の判定がまちがっているケースがほとんどです。
脳死とよく混同されるのが、「植物状態」です。以前は、「植物人間」などと称されていましたが、それは人権上の配慮に欠けるということで改められました。
植物状態では、大脳は死んでいるから意識はありませんが、脳幹が生きているので、自発呼吸ができます。だから、水と栄養さえ与えると生きられるということで、植物と同じ状態と考えられるわけです。
これがなぜ儀式かというと、蘇生する可能性など端からゼロであることをわかって行うからです。つまりはパフォーマンス、無駄な行為ということになります。
なぜそんなことをするのか。それは家族に精いっぱいの治療をしたという納得感を与えるためです。単純に看取って臨終を告げると、あとで「あの病院は何もしてくれなかった」などと言われる危険性があります。それは困るので、無駄かつ当人には残酷とも思える処置をせざるを得ないのです。
「“儀式”はいらない」と申し送られるのは、家族が患者さんの死をすでに受け入れている場合です。そのときは厳かに臨終を告げるだけでいい。看取るほうも楽なら、看取られるほうも余計な処置をされずにすみます。
最近ではインフォームド・コンセントが進んでいるので、病院も患者さん側に事実を伝え、“儀式”をする必要性は減っているかもしれません。こんな無益で残酷なことを減らすためにも、家族の側がしっかりと死を受け入れる心構えが重要です。死を拒んでばかりいると、ロクなことはないということです。
⚫︎死には三つの種類がある
ここまで説明したのは、生き物としての死、すなわち生物学上の死についてですが、死にはほかにも二つの種類があります。
それは手続き上の死と、法律上の死です。
手続き上の死というのは、死亡診断書に書かれる時刻、すなわち医者が死亡確認をしたことで認められる死です。これまで書いたように、医者の告げた死亡時刻と、生き物としての人の実際の死が微妙にズレることは理解してもらえたと思いますが、それが大きくズレることもあります。
在宅医療をやっていると、たまに、「朝、起きたらおじいさん(またはおばあさん等)の息が止まっていました」などという電話がかかってきます。夜中、寝ている間に亡くなって、気づいたのが朝というケースです。
すぐに患者さん宅に駆けつけますが、死亡診断からって二十四時間以内に診察をしていないと、警察に連絡しなければならず、そうなると検死を受けたあと、場合によっては行政解剖が行われます。当然、遺族には大きな負担となり、警察にも面倒をかけることになります。そんな無用なことを避けるために、患者さん宅に駆けつけて、明らかに亡くなっている患者さんの目にペンライトの光を当て、ピクリとも動かない胸に聴診器を当てて、死の三徴候を確認します。そして、時計で時間を確認し、おもむろに、「何時何分、ご臨終を確認しました」と告げるのです。
白々しいことこの上ないですが、こうすれば、診察してから死亡を確認したという体裁になり、警察への連絡をせずにすみます。手続き上、人は医者が死亡を確認するまで生きていると見なされるのです。
事故や災害などで心肺停止状態になった人が、病院に運ばれ、何時間後に死亡が確認されましたなどという報道がありますが、そのタイムラグは、たいてい病院で懸命の蘇生処置を行っている時間です。いろいろやってみたけれどダメでしたというとき、死亡確認が行われ、はじめて手続き上、その人は死んだことになります。しかし、生き物としての実際の死は、心肺停止になったときであると考えるべきです。
三番目の死は法律上の死です。いわゆる「脳死」。日本でも二〇一〇年に臓器移植法が改正され、法律的には脳死が人の死と認められるようになりました。
脳死とは、脳幹を含む全脳死のことです。脳幹は呼吸や心拍など、生命維持をコントロールする部位で、ここが死ぬと、どんな蘇生処置をしても生き返ることはありません。テレビ番組や週刊誌の記事などで、脳死からよみがえったなどと紹介されることもありますが、それはそもそも脳死の判定がまちがっているケースがほとんどです。
脳死とよく混同されるのが、「植物状態」です。以前は、「植物人間」などと称されていましたが、それは人権上の配慮に欠けるということで改められました。
植物状態では、大脳は死んでいるから意識はありませんが、脳幹が生きているので、自発呼吸ができます。だから、水と栄養さえ与えると生きられるということで、植物と同じ状態と考えられるわけです。