死後の世界の存在はどこまで判明している…? ダライ・ラマ14世が「死ぬのが楽しみだ」と語っていた“納得の理由”
文春 onlain より 221118 田坂 広志
死後、我々はどうなるのか。「肉親」と再会できるのか。「前世の記憶」「輪廻転生」は、全くの迷信なのか……。これまで世界では、宗教、科学、医学など、さまざまな観点から“死”に関して語られてきた。
そんな“死”に関する説に、いま最先端量子科学の世界では新たな見解が生まれている。
科学的・合理的な思考によって捉えた“死後の世界”とはいったいどのようなものなのか。ここでは、原子力工学博士であり、経営学者としても活躍する田坂広志氏の著書『死は存在しない』(光文社新書)の一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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人類にとって最大の謎、人生における最大の疑問
「死」とは何か。
それは、人類にとって「最大の謎」であり、人生における「最大の疑問」であろう。
言葉を換えれば、我々人間には、誰にも、その心の奥深くに、次の「問い」がある。
「人は、死んだら、どうなるのか?」
「死んだ後、我々の意識はどうなるのか?」
「死後の世界はあるのか?」
「死後の世界があるならば、それはどのようなものか?」
そして、この問いに対して、古今東西の思想家や宗教家、科学者は、様々な考えを述べている。
まず、「死後の世界」が存在することを明確に語っている宗教家の一人が、チベット仏教の最高僧、ダライ・ラマ法王14世である。
彼は、人間は死んだら他の誰かに生まれ変わるという「輪廻転生」の思想を信じる立場から、あるインタビューで、飄々としたユーモアを交え、しかし、堂々と、こう答えている。
「次は、どのような人間に生まれ変わるのか、そのことを考えると、死ぬのが楽しみだ」
これに対し、この「死とは何か」という問いに対する答えを婉曲に避けた考え、すなわち、「死後については分からない」という考えを述べたのが、儒教の始祖、孔子である。
彼は、次の言葉を遺している。
「いまだ生を知らず、いずくんぞ、死を知らん」
同様に、「死後については分からない」という立場を取りながらも、「死後の世界」があることを予感し、期待し、その思想を語ったのが、スウェーデンの海洋学者、オットー・ペテルソンであろう。
彼は、93歳で亡くなる直前、やはり海洋学者であった息子に、次の言葉を残している。
「死に臨んだとき、私の最期の瞬間を支えてくれるものは、この先に何があるのかという、限りない好奇心だろう」
彼は、科学者でありながら、やはり「死後の世界」が存在することを、どこかで信じていたのであろう。
ちなみに、この問いに対する答えを優雅に避けながら、香りを遺したのが、神学者であり医者であった、アルベルト・シュバイツァーである。
彼は、「あなたにとって、死とは何か」と訊かれ、次の答えを遺している。
「私にとって、死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」
⚫︎「死」を語る三つの視点
このように、古今東西の思想家、宗教家、科学者は、「死」について様々な思想や言葉を遺しているが、人類の歴史を振り返るならば、「死」に関する書物は、無数に世に出ている。それらの書物は、大きく三つに分けることができるだろう。
第一は、「宗教的な視点」から「死後の世界」を語ったものである。
その最も有名なものの一つが、『チベット 死者の書』であるが、この書は、死者が「死後の世界」において、どのような体験を与えられ、それにどう処すればよいかを、仔細に語っている。同様の書に、『エジプト 死者の書』などもある。
また、様々な宗教が、「死後の世界」が存在することを前提として、その思想を語っており、キリスト教は「天国」を論じ、仏教は「極楽浄土」、イスラム教は「ジャンナ」を語ってきた。
第二は、「科学的な視点」から「死後の世界」が無いことを語ったものである。
その多くは、我々の意識は、肉体の一部である脳の活動にすぎず、もし、この肉体が生命活動を終えれば、それに伴って、脳も機能を停止し、意識も消え去っていき、すべてが「無」に帰する、ということを語っている。
第三は、「医学的な視点」から「死後の世界」の可能性を示唆したものである。
その代表的なものが、「臨死体験」について語った書物である。
すなわち、医学的な臨床観察の報告として、死に瀕して生還した患者が、意識の回復後、「死後の世界」の入口で神のような存在と対話したという体験や、すでに亡くなった肉親に再会したという体験、意識が自分の肉体から離れて自分の体を見下ろしていたという「幽体離脱」の体験、意識が肉体を離れて動き回り、普通では見ることのできないものを見てきたという体験など、様々な「不思議な体験」を報告したものである。
しかし、これらの書物は、真摯に「死」を論じているが、残念なことに、いずれも、読んだ人間に、「さらなる疑問」を残すものとなっている。
⚫︎三つの視点、いずれも残す「さらなる疑問」
第一の「宗教的な視点」からの書物は、「死後の世界」が存在することは明確に主張し、それを信じることを多くの人々に求めるが、その「死後の世界」が、科学的に見て、なぜ存在するのか、どのように存在するのかについては、「神秘のベール」に包んでしまい、それ以上、語ろうとはしない。
第二の「科学的な視点」からの書物は、「死後の世界」が存在しないことは明確に主張し、多くの人々に、それを語るが、しかし、人類の歴史始まって以来、無数の人々が体験してきた「不思議な出来事」や「神秘的な現象」については、それらを、単なる「錯覚」や「幻想」、さらには「脳神経の誤作用」であるとして説明を終え、では、なぜ、そうした「不思議な体験」が起こるのかを、さらに深く、科学的に究明し、説明しようとしない。
第三の「医学的視点」からの書物は、「臨死体験」の存在や「死後の世界」の存在については、その可能性を認め、できるだけ科学的客観性を持って、そうした「不思議な体験」が存在することを報告しているが、やはり、なぜ、そうした「不思議な体験」が起こるのかを、科学的に説明できていない。
このように、これまで古今東西で著されてきた「死」に関する書物は、宗教的、科学的、医学的、いずれの書物も、「死」や「死後の世界」を真摯に論じているが、残念なことに、読んだ人間に、「さらなる疑問」を残すものとなっている。