石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市左京区大原戸寺町 江文神社御旅所阿弥陀石仏

2009-06-18 23:16:29 | 京都府

京都府 京都市左京区大原戸寺町 江文神社御旅所阿弥陀石仏

大原の最南端、東西に山がせまる狭隘部、南に向かって流れる高野川が東に蛇行する場所に架かる花尻橋はちょうど八瀬との境にあたる。01花尻橋の北東側に江文神社御旅所がある。その敷地の北端に小さい祠がある。西側はすぐ国道367号に接する。この祠内には数基の石仏が集積されているが、一際目を引くのは中央にある石仏である。03表面を平らに整形した二重円光背を負う丸彫りに近い定印の阿弥陀如来の坐像で、洗練された精緻な出来映えは木彫像を思わせる。自然石の広い面を彫り沈めて像容を形成しつつ全体を調整する作り方は京都付近に類例が多い。石材は白っぽい褐色で、表面に苔類も見られず風化摩滅も少ない。緻密な質感はちょっと見たところ砂岩製に思えるが、よく見ると"す"が入っている。川勝博士は花崗岩とするが、安山岩か一種の溶結凝灰岩の類かもしれない。この種の石材がこの辺りで産出するのかどうかは詳しくないが、あまり見かけない質感の石材である。風化の少なさは長く堂内か覆屋の下にあったか地中に埋もれていた可能性を示している。高さ約105cmとあまり大きくはない。下端はやや不整形で正面から側面にかけて大きめの素弁の蓮華座を刻みだしている。蓮華座部分が若干小さめなので、何となく窮屈そうにも見える。背面は中央に稜状の高まりを残し、外縁にいくにしたがって厚みを減じていくように調整し、しかも表面を叩いて仕上げているようである。円光背は周縁に一定の厚みをもたせて切り落とし、円板状につくっている。02像容は、体躯のバランスに破綻なく、ふくよかなあごの線、両肩から胸にかけての肉取り、波打つ衣文のリアルな凹凸など、どれをとってもまさに木彫風で、石造品としては稀に見る表現である。額の白毫部分は丸い穴となっているが、ここには玉石が嵌め込まれていたと推定される。素面の二重円光背、定印を結び結跏趺坐する阿弥陀如来の衲衣の着こなし方、端正な面相など、デザイン的には三千院の売炭翁石仏と共通するが、螺髪をひと粒づつ刻みだす手法を採用しないなど相違点もある。さらに売炭翁石仏に比べ彫りが深く、頭部は耳の後までしっかり彫り込まれ、定印を結ぶ手先の表現もいきとどいており、一層丁寧な出来映えを示している。銘は認められず、造立時期については謎とするしかないが、叡山系石仏に属するものと考えられており、精緻な表現は鎌倉時代中期を降るものとは思えない。ややこじんまりとまとまり過ぎている感もあるが、非常に丁寧な作りと石材の質感や色調が、見る者に清楚な印象、涼しげな印象を与える傑作である。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」

   中淳志 「写真紀行 日本の石仏200選」

写真右上:彫りの深さに注意してください。耳の後ろから後頭部の途中まで彫りだしています。たいていの石仏は耳までです。文中法量値は「京都の石造美術」に拠ります。神々しいお姿にコンベクス略側はご遠慮しました。豪快さや力強さはないけれど、清楚という言葉がぴったりです。美しい石仏というのはまさにこのような石仏をいうんですね。いつまでも見とれる小生でした。合掌。ちなみに人の顔を認識する機能がある小形デジカメで撮影しましたが、カメラはお顔をしっかり認識してました。


京都府 京都市左京区大原来迎院町 大原阿弥陀石仏

2009-06-02 00:05:23 | 京都府

京都府 京都市左京区大原来迎院町 大原阿弥陀石仏

大原三千院境内の東側の奥まった場所にある金色不動堂と観音堂の間を北に抜け、律川の渓流にかかる橋を渡るとすぐ正面の吹き放した覆屋の中に、見上げるばかりの大きい石仏がある。01緻密な花崗岩製で総高225cm、像高は約170cmとされる。川勝政太郎博士は、大きさと美しさの点で京都で一番の石仏とされている。別名、売炭翁の石仏とも称されている。02下端に半円形の大きい素弁の蓮弁を一列に並べた蓮華座を刻みだし、平らに整形した二重円光面に結跏趺坐する定印の阿弥陀如来を厚肉彫りする。光背面は、向かって右の頭光が少し欠けたようになっている。これは後から欠損したというより、元の石材の形による制限によるもののように見える。また、右膝の後方では元の石材部分が少し余って身光部分が背後から浮き彫りしたようになっている。背後はかなりの厚みを残してほぼ自然面のままとしている。背面中央に横向きの長方形に彫り沈めを設けている点は注目すべきである。目測値でおおよそ幅40cm前後×高さ25cm前後、深さは5cm程ある。従前この彫り沈めに言及した記述は管見に及んでいないので詳しいことはわからない。この部分に刻銘があっても不思議ではないと思ったのだが、肉眼による観察では特に銘文らしいものは確認できない。あるいは願文や経典を納め蓋石を嵌め込んでいた可能性もある。像容は体躯のバランスが良く、ことに首から両肩、肘にかけての曲線、衣文の流れるような波状の凹凸は木彫風で花崗岩製の石仏としては極めて秀逸な表現である。また、03螺髪を一つ一つ彫り出している点も手が込んでいる。面相は眉目秀麗。やや面長気味の丸顔で、お顔の中心より目鼻がやや下側にあり、やさしげな厚めのまぶた、涼しげな切れ長の大きい半眼から受けるお顔全体の印象は女性的でもある。白毫の突起も表現され、両頬からあごの先端にかけての凹凸も的確。鼻梁は高く、唇は少し厚ぼったい。光線の加減でよく見えない場合もあるが、花崗岩の石仏としては出色の面相表現である。04あえて難をいうならば、体躯に比べて定印を結んだ手先が小さ過ぎ、指先の表現に少し硬い感じがある。覆屋のおかげもあって表面の風化も少なく保存状態良好。京都では釘抜き地蔵・石像寺の阿弥陀三尊石仏に代表されるように、流麗な衣文表現、二重光背に刻んだ小月輪内の種子が像容を囲むように並べる手法を採用する石仏がしばしばみられる。これらは鎌倉初期とされる比叡山香炉岡弥勒石仏に端を発する意匠表現とされ、近江も含め比叡山の影響が強い地域に分布することから、川勝博士はこれらを共通する系統の石仏としてとらえられた。そしてこれらは叡山系石仏と呼ばれている。この大原阿弥陀石仏では光背は素面で、月輪種子を並べる手法は採用していないが、土地柄も考慮して叡山系石仏に数えられている。叡山系石仏の形態的な考察は、今後もっと詳しく進められる必要があると思われるが、いずれにせよこの大原阿弥陀石仏は天台系の浄土信仰に基づき造立されたものと考えてよい。造立時期については不詳とするしかないが、優れた意匠表現をみれば、やはり従前から考えられているように鎌倉時代中期を降るものとは思えない。花崗岩製ながら優れた面相、螺髪をひとつひとつ刻み、流れるような木彫風の衣文処理の手法が共通する元仁2年(1225年)銘の石像寺阿弥陀三尊石仏が参考になるだろう。石像寺石仏の精緻な表現に比べると若干粗いところがみられ、やや時期が降る13世紀中葉頃のものと考えたいところである。

参考:川勝政太郎「京都の石造美術」

     〃   新装版「日本石造美術辞典」

   片岡長治「京都の石仏」『日本の石仏』4近畿編

   中淳志 「写真紀行 日本の石仏200選」

   竹村俊則・加登藤信「京の石造美術めぐり」

とにかくでんと構えた大きい石仏で、存在感があり石造美術にあまり関心を持たないと思われる観光客も立ち止まります。大きさもあっておおづくりな第一印象ですが、お顔をよくみると実にハンサムな仏様です。写真右下:お顔のアップ。眉目秀麗です。(写真がヘタクソなのでそのあたりをうまくお伝えできないので残念です。)写真左下:背面にある長方形の怪しいくぼみ。いかにも銘文がありそうなんですけど…。なお、おそれおおくてコンベクス計測はできませんでしたので悪しからず。


京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院北墓地宝篋印塔

2009-05-31 00:46:59 | 京都府

京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院北墓地宝篋印塔

勝林院本堂西側を通って境内を北に抜け、林の中の道をしばらく行くと共同墓地に突き当たる。01墓地に至る途中の林の中には段々状になった平坦面が見られる。これらの平坦面は、あるいは大原寺関連の子院の跡地なのかもしれない。墓地は東から西に向かって下がる傾斜面を利用しており、入口には多数の一石五輪塔や小形の石仏が集積されている。その一画に、苔むして一際古色蒼然とした宝篋印塔が立っている。花崗岩製で基礎から相輪まで揃っているが全体に表面の風化が進んでいる印象を受ける。台座や基壇は見あたらず、基礎は直接地面に置かれているようである。基礎は一石五輪塔や小形の石仏などに取り囲まれるように接しており、隙間には土砂が詰まっている。特に北から東にかけての基礎側面は埋まってよく見えない。塔の高さは約205cm、基礎幅約61cm、高さ約40.5cm、側面高約31cmと背が低く安定感がある。基礎上は2段式。各側面とも輪郭を巻き、内側に格狭間を配する。輪郭の幅は束部分で約6㎝、地覆部分で約5cm、葛部分で約5.5cmと比較的狭い。格狭間の形状は概ね整ったものだが、両肩が下がり、左右輪郭束部分との隙間を広めにとっている。02そのせいか格狭間はやや横方向への広がりに欠ける。格狭間内は素面で、西側側面の輪郭と格狭間の隙間から格狭間内にかけて「念仏諸衆、為往生極楽、正和二年(1313年)、十一月日」の銘が5行にわたり刻まれているというが肉眼ではほとんど判読できない。基礎上段の幅は約41cm、その上の塔身は幅約32cm、高さ約31.5cm。側面には蓮華座のある月輪内に端正な刷毛書で胎蔵界四仏の種子を薬研彫りしている。月輪の径は約18.5cmと側面の面積に比してやや控えめな大きさで、内部に刻まれた種子も小さい。下方に蓮華座がある関係だろうか、種子は塔身側面の上方に偏って配されている。笠は上6段下2段。軒幅約60.5cm、高さ約44.5cm。軒と区別してわずかに外傾しながら立ち上がる隅飾は、基底部幅約18.5cm、高さ約20.5cmと大きめで、二弧輪郭付で輪郭内は素面とする。相輪は高さ約88cmと笠以下に比較してやや高い印象を受ける。九輪の逓減は少なく、各輪の刻みだしはハッキリしている。下請花は複弁、上請花は単弁。先端宝珠と上請花はやや縦長に見える。九輪の8輪目で折れたものを接いである。昭和53年時点の川勝政太郎博士の記述では、相輪先端部分は亡失しているとあるので、04その後に発見され接合されたものだろう。正和2年は、直線距離にして約200m余り南にある勝林院境内の宝篋印塔に先立つことわずか3年である。勝林院境内塔の規模の大きさ、別石作りの独創的で複雑な構造、派手な三弧隅飾や基礎上の反花の装飾表現に比べると、オーソドクスな構造形式を踏襲しており、作風にもずいぶん違いがあるように思われる。一方で、金剛界に比べて事例の少ない胎蔵界の四仏を塔身に採用している点、また、その四仏の種子が小さい点は共通する。距離的にも時期的にも非常に近い両塔のあり方には注意しておく必要があるだろう。銘文から念仏信仰の集団、恐らく念仏講などの結衆の合力、つまり共同出資により造立されたことが知られる。豪華な境内塔に比べれば少し見劣りするのはやむをえないが、この北墓地塔も高さ2mを越え、決して小さいものではない。惣供養塔として古い墓地の成立と同じ頃に造られたと考えてよいだろう。なお、墓地の北西隅近くにも、小形の宝篋印塔がある。一風変わった基礎上反花式で側面は輪郭内に格狭間を配している。塔身は別物で、隅飾や格狭間の形状から室町時代でも後半に降るかと思われる。格狭間内にかなりデフォルメされているが近江式装飾文様である開敷蓮花のレリーフをみることができる点は注目しておきたい。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

     〃  「京都の石造美術」

スペシャル・デラックスバージョンの勝林院境内塔に比べると何かこう普通な感じですが、落ち着いた雰囲気にはこの塔ならではの味わいがあります。輪郭を伴わず直接基礎側面に格狭間を入れる珍しい手法の大長瀬塔(2007年7月12日記事参照)といい、大原の宝篋印塔たちは個性的でバリエーションに富んでいます。写真下:墓地北西隅の宝篋印塔です。判りにくいですが基礎に開花蓮のレリーフがあります。別物らしい塔身がアンバランスなのに加え細部の退化が目立ち意匠的には一層見劣りがします。相輪先端は欠損しています。それから、墓地の南西隅には室町時代の珍しい小形の石鳥居があります。(2008年2月6日記事参照)


京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院宝篋印塔

2009-05-28 00:46:53 | 京都府

京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院宝篋印塔

三千院門前を北に進み、律川を渡ると正面に見えるのが勝林院の本堂である。来迎院と並ぶ天台声明の聖地である勝林院は、文治2年、法然上人が並み居る諸宗の学僧を論破したとされる「大原問答」の舞台としても著名である。01本堂向かって右手、境内東側の小高い場所に観音堂と鎮守社の小さい祠があり、その奥に大きい宝篋印塔が見える。緻密で良質な花崗岩製。02二重の切石基壇の上に立ち、高さは246cmに及ぶという。(大きすぎてコンベクスでの高さ計測は不能です)背が低く幅の広い基礎は、幅約98cm、大小2石で構成され、大きい方は幅約56cmと小さい方は約42cmである。各側面とも素面。側面高は約35.5cm。基礎上には別石の反花を置く。別石の反花と合わせた基礎全体の高さは約60cm。別石反花は幅約79cm、高さ約24.5cm、反花上端の塔身受座の幅は約55cm。反花は抑揚感のある左右隅弁と側面中央に主弁1枚、隅弁と中央主弁それぞれの中間に小花を配している。基礎の東側面に3行の刻銘がある。いわく「正和五秊(1316年)丙辰/五月日造立之/金剛仏子仙承」とのこと。肉眼でも紀年銘は何とか確認できる。面白いのは基礎を構成する大小2石の切り合いである。両石の接合部は北側面はまっすぐ縦に一直線であるが、南側面ではクランク状になっている。また、どちらの面も東側の小さい方の石の下端接合部側が斜めに角が落とされている。外からは見えない大小の部材の接合面が単純な平面でなく、複雑な構造になっていることが推定できる。何のためにこのような構造になっているのかは不明だが、少なくともクランク状にすることで構造的にずれにくくなることは容易に思いつく。下端の角を落とした三角形の穴も意図的なものなのだろうか。03_2少し想像を逞しくすれば、基礎の内部か切石基壇の下に何らか奉籠構造が隠されている可能性も指摘できる。塔身は少し大きめで高さ約47.5cm、幅約49.5cm。側面中央に径約28cmと控えめの月輪を陰刻しその中に胎蔵界四仏の種子を薬研彫している。書体は端正ながら側面の面積に比して文字は小さい。東方・宝幢如来「ア」は北面、南方・開敷華王如来「アー」が東面、西方・無量寿如来「アン」は南面、北方・天鼓雷音如来「アク」が西面にあり、本来の方角からは90度ずれている。04_2月輪には蓮華座は伴わない。笠は上6段、下2段。軒幅約90.5cm。軒と軒下の段形2段を一石でつくり、それそれ別石の隅飾を四隅に置く。珍しいのは別石笠上の手法で、笠上段形の一段目の半ばまでは軒と同石とし、一段目の上半以上を別石としている。各部別石とする大形の宝篋印塔は京都に比較的多く、笠上段形を別石とする例も見受けられるが、たいていは段と段の間で石が分かれる。このように段の途中で石が分かれるものは管見の及ぶ限り外に例をみない。各段形の彫りは的確かつシャープで、笠下の段形が笠上に比べるとやや大きい。直線的に外傾する隅飾は三弧輪郭式で、基底部幅約26cm、05高さ約39.5cmと長大な部類に入り、左右の隅飾先端間の幅は約95㎝ある。隅飾輪郭の幅は約3cm。輪郭内は素面である。笠全体の高さは約50cm、軒の厚みは約12cm。相輪も完存し九輪の8輪目で折れたのをうまく接いでいる。伏鉢の側線はやや直線的、下請花は複弁、上請花は小花付単弁。伏鉢と下請花、下請花と宝珠の各接合部はややくびれが目立つ。宝珠の曲線は円滑である。安定感のある低い基礎と大きめの塔身、全体の規模の大きさからくる雄大な印象に加え、適度に外傾する三弧輪郭式の大きい隅飾には開放感がある。さらに基礎上の優雅な反花が華を添え、まさに意匠的には最盛期の宝篋印塔と言える。京都でも屈指の名塔に数えられ重要文化財指定。宝篋印塔の基礎上に見るこの種のむくりが目立つ抑揚のある反花としては、正和2年(1313年)銘の誠心院宝篋印塔やこの塔などが最も古い在銘品になる。基礎上反花としては弘長3年(1263年)銘の奈良県上小島観音院塔や13世紀末頃と考えられている生駒市円福寺南塔が古いが、単弁でむくりは目立たない。この種のむくり形の複弁反花が宝篋印塔の基礎上に採用され始めるのは14世紀初め頃の京都が最初ではないかと思うがいかがであろうか。

参考:川勝政太郎「京都の石造美術」

    〃  新装版「日本石造美術辞典」

例により文中全高以外の法量値はコンベクスによる略側値ですので多少の誤差はご容赦ください。写真左中:基礎のクランク状になった接合線と下端の角を落とした三角形の穴がわかりますでしょうか。写真右下:笠の特殊な別石構造にご注目ください。写真左下:相輪の請花の彫りも的確でシャープです。特に上請花の花弁先端中央に設けた稜が何とも美しいです。とにかく見飽きない素晴らしい出来映え、これまた最高です最高。また、「京都の石造美術」にある川勝博士が初めてこの塔を見つけた時のエピソードは誠心院塔との因縁も絡めて面白いお話です。こういうことがあるとますます没頭していくものです。当時の若い川勝博士の気持ちの高ぶりが行間に窺え共感できる気がします。なお、隣接する小さい観音堂の石積壇の西側左右一番上にある四角い石材は、よくみると梵字が刻んであり、中型の五輪塔の地輪を転用していることがわかります。

余談ですが「ろれつが回らない」という言葉の「ろれつ」というのは、この天台声明の聖地魚山大原寺(来迎院や勝林院は大原寺の主要子院)の南北を流れる呂川と律川の「呂律」から来ているんだそうです。声明というのは読経や念仏に音階をつけて声に出す修業のようなものらしいです。だからうまく声に出してしゃべれないことをこう言うんだそうです。佳境に入ってきた大原シリーズはまだまだ続きます。


京都府 木津川市 山城町神童子 天神社十三重塔及び宝塔

2009-05-04 23:23:01 | 京都府

京都府 木津川市 山城町神童子 天神社十三重塔及び宝塔

旧相楽郡山城町神童子は旧山城町の東の山間にある。今は通る人も少ないが、東方の山道を越えていくと木津川沿いに抜ける桜峠があって、加茂から伊賀方面へと通じている。木津川沿いの交通路が開鑿される以前は古い幹線道だったと伝え、今では想像しにくいが往昔は交通の要衝として賑わった所であった。01峠近くには中世城郭が残り、こうした伝承を裏付けている。集落の中央にある神童寺は北吉野山と号し修験道との関わりを示す寺伝や仏像が残る。同寺には十三重石造層塔や宝篋印塔の残欠が見られるが、今回紹介する天神社は集落の東のはずれ、もっとも奥まった所にある。社殿は室町時代の木造建築として府の文化財指定を受けている。02境内北側、稲荷社の裏側に玉垣に囲まれ十三重石塔が立つ。高さ約4.15mで花崗岩製。基礎は幅約74cm、現高約40cm、各側面とも素面で、西面に「右志者/為父母先師/法界衆生/平等利益/造立□□/建治三丁丑(1277年)/十月三日」の7行の刻銘がある。風化摩滅が進行し判読はかなり厳しくなっている。建治三の文字は何とか肉眼でも読める。初層軸部は幅約40.5cm、高さ約38cm、四側面とも二重円光型に彫り沈め、坐像石仏を厚肉彫りしている。蓮華座は確認できない。西面は定印阿弥陀如来、東面は右手は肩の辺りに掲げた施無畏印で左手は膝上に乗せ宝珠を持つように見える。03したがって薬師如来と思われ、南面は右手を上げ左手を膝付近施に置く施無畏与願印の釈迦如来であろう。北面は通常の顕教四仏の弥勒如来に代えて、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ地蔵菩薩とする。例がない訳ではないが珍しいパターンで、地蔵信仰の流行を垣間見せる事例といえるかもしれない。また、鎌倉中期の古いものとしては初層軸部の背が低いのも特長。この低い初層軸部は、猪(伊)末行の作で弘安元年(1278年)銘の京田辺市草内の法泉寺十三重石塔初重軸部とも共通する。初層軸部と最上層笠を除く軸・笠一体彫成は通例の構造形式で、各層笠裏に一重の垂木型を薄く刻み出す。初層笠は軒幅約76cm、軒中央の軒口厚約11.5cm、隅で約12cm。軒口の厚みの隅増がほとんどない。01_2軒反自体にそれ程力強い感じは受けないが中央の水平部分を短めにして反りをやや長めに取るところはこの頃の調子をよく示している。9層目、10層目、11層目、最上層北東側の軒隅が大きく破損しているのは倒壊によるものと思われるが、相輪は奇跡的に完存している。下から伏鉢、請花、九輪、水煙、竜車、宝珠と全部残っている。請花は近づいて観察できないが複弁のように見える。各層逓減が美しく全体に洗練された印象で、基礎の紀年銘から石造層塔のメルクマルとなる貴重な存在。重要文化財指定。02_3なお、神童寺のものはこれよりやや垢抜けない感じで時期は若干降ると思われる。天神社には、このほかに社殿左手摂社の北側、山裾の斜面に瀟洒な石造宝塔があるのを忘れてはならない。花崗岩製で相輪を失うが笠上までの現高約92cm、基礎は幅約43cm、高さ約31cm。四側面に幅約5cmの輪郭を巻く。輪郭内は素面。塔身の高さ約33㎝、裾付近の径約34cm、肩部径約36cmと最大径が肩にあって裾がすぼまる壺型を呈する。首部と軸部の間に高さ約2cmの低い段を設け、首部は高さ約4cm、径は下方で約24cm、上端で約20cm。塔身は素面で扉型などの装飾はみられないが軸部に比較的大きい文字の刻銘が認められる。「京都古銘聚記」によれば「三十八所/如法経/□□此塔/礼拝供養/□知是□/□近菩提/□□□…/佛子□□」の8行、7行目が紀年銘らしいが判読できないとのことである。03_2むろん肉眼でも判読は厳しい。笠は軒幅約43cm、高さ約28cm。笠裏中央に円形の受座を設け首部を受けている。四隅に隅木を刻み、二重の垂木型を設けている。一本一本の垂木を連続する突帯でリアルに表現しようとしている点や垂木型の段に合わせて隅木にも傾斜を設けている点は手の込んだ手法である。リアルな垂木型を笠裏に刻む手法は、京都市内の古い凝灰岩製のものに若干類例がある。軒は真反に近く全体に反って、どちらかというと反り方がきついが、軒口の厚さが中央で約4cm、隅で約5cmと比較的薄いためか力強さというよりはむしろ軽快感がある。04隅降棟は屋根面と明瞭に区別される突帯ではなく、屋根面をややくぼませることで逆に稜を強調して表現している。これは石造層塔にもしばしば見られる手法である。笠頂部には幅約13cm、高さ約1.5cmの露盤を刻み出す。相輪は亡失、代わりに五輪塔の空風輪を置いている。笠頂部の枘穴は径約7cm、深さ約5.5cm。石造宝塔は南山城地域では珍しく、笠裏の表現など面白い手法とあわせ注目すべきものといえる。銘にあるとされる三十八所というのは三十八所権現のことであろうか。あるいは38ヶ所に如法経を供養して造塔が行なわれたのであろうか。集落入口の小丘陵にある墓地に腰折地蔵と称する地蔵石仏があり、周囲に箱仏や石塔の残欠が集積されている。その中に同じような手法の垂木型を持つよく似た大きさの石造宝塔の笠の残欠がある。01_4あるいは38ヶ所に作られた石造宝塔の内の1つだったのかもしれない。残欠ながら見逃せないものである。造立時期については比較できる類例をみないため推定することは難しい。かえすがえすも紀年銘の判読ができないことが惜しまれる。「京都古銘聚記」では鎌倉時代末頃のものとされている。笠の軒反の様子、手の込んだ笠裏の手法は古い要素といえるが、背の低いずんぐりとした壺型の塔身、基礎の背の高さなどは新しい要素であり、規模の小ささも考慮すれば、やはり鎌倉時代末を遡るとは思えない。難しいところだが南北朝時代、概ね14世紀中葉から後半頃のものとして後考を俟ちたい。

参考:川勝政太郎・佐々木利三「京都古銘聚記」

   川勝政太郎「新版日本石造美術辞典」

写真左2番目:錫杖を携える地蔵菩薩坐像。本来菩薩は如来と同列にならないはず、地蔵菩薩が重視されたことがわかります。それから低い初層軸部にも目をやっていただきたい。鎌倉中期頃であれば背が高いのが普通だと思うのですが…。写真下右:笠裏の垂木型や隅木にご注目。通常は単なる直線的な段形にデフォルメされることが多いのですがこれは違います。写真左一番下:真反りっぽいこの軒反がおわかりになるでしょうか。写真右一番下:神童子集落入口の墓地で見た石造宝塔の残欠笠。サイズ、笠裏の手法(この写真では笠裏は写っていません…)など天神社のものと共通し注目すべきものです、ハイ。


京都府 木津川市 加茂例幣 海住山寺水船(石風呂)

2009-04-25 23:36:18 | 京都府

京都府 木津川市加茂例幣 海住山寺水船(石風呂)

解脱房貞慶上人が晩年止住したことで知られる補陀洛山海住山寺は観音信仰の古刹である。眼下に恭仁京跡を見下ろし、奈良方面に連なる山並を南に望む山の中腹にある。このように南方に広がる遥かな遠景を意識したロケーションは、壺阪寺などでもそうだが、補陀洛信仰のひとつのあり方を示唆するものかもしれない。01静かで落ち着いた境内に建つやや小振りながら姿の良い鎌倉時代の五重塔が特に印象深い。正確なところはわかっていないが、創建は奈良時代に遡り良弁僧正の開山と伝えられ、当初は観音寺と称したという。平安時代末の回禄後、鎌倉時代の初め、承元2年にこの地に移った貞慶上人と高弟覚真上人の尽力により寺観が回復されたとされる。爾来貞慶上人の出身母体であった南都興福寺の末寺として栄え、現在の真言宗智山派となったのは近世以降のことである。境内や参道、参道途中の墓地に見るべき石造美術がいくつか知られるが、今回取り上げるのは本堂前の芝生の中に据えられている水船(石風呂)である。長さ約210cm、奥行き約110cm、下端は埋まって確認できないが高さ60cm以上ある平面ほぼ長方形の花崗岩の岩塊の上端面を幅約15cm程の縁を残し内側を刳りぬいてある。内刳り部は長さ約173cm×奥行き約84cm×深さ約60cmを測る。縁部は平らに調整され縁から内側にかけての表面は滑らかに仕上げられている。外側は粗造りのままで鑿跡も残っている。02表面は全体に茶褐色を呈し、摩滅が進んだ印象で、ところどころに大きいクラックが入っている。内刳りの向かって左側手前(南東側)の底面に径8cm程の穴が東側外面に貫通している。これは水抜き穴であろう。右側(北側)縁部上端面に「正嘉二年(1258年)戊午十二月日」の刻銘があり肉眼でも確認できる。いわゆる手水鉢としては大き過ぎ、用途を考えると浴槽と思われる。03つまり石風呂である。川勝政太郎博士の記述を引用すると「浴室の土間に石風呂を据え、側面半ばほどの高さに床板を張り、床は洗い場とし、釜でわかした湯を樋によってか、桶によってかして水船に注ぎいれたのかも知れない。また、冷水を入れて水浴用にしたことも考えられる。」とのことである。表面の摩滅状況や損傷状態を観察すると火中したようにも見える。その可能性も否定しきれないが、恐らくは湯を注ぎ熱されては冷却されるということを何度も何度も繰り返した結果、さしもの堅固な花崗岩の組成組織が劣化して今日みるような損傷状態になったのではないかと推定したい。僧侶が身を清めたのか民衆を対象にした施行に使用したのか、そのあたりは不詳とするしかないが、旧加茂町内にはこうした石風呂と思われる水船が割合多くみられる。岩船寺門前のものはその代表的なものひとつである。そうした点も踏まえると、ここに見る鎌倉時代中期、正嘉2年の紀年銘は貴重で、在銘の石風呂では最古のものとされている。なお解脱上人貞慶(1155年~1213年)は保元、平治の乱の主人公の一人藤原通憲、信西入道の孫にあたる。興福寺法相宗の学僧としてその俊才を期待されながら俗化した仏教界の状況を嫌って笠置寺に隠遁し、最晩年を海住山寺で過ごした。戒律を重視したことでも知られ、後の唐招提寺覚盛、西大寺叡尊らによる戒律復興運動の礎を築いたことでも著名。また、高山寺の明恵上人高弁(1173年~1232年)とも親交があり、両上人ともに当時台頭してきた法然上人の専修念仏の普遍性に潜む危うさに警鐘を鳴らしたことでも知られる。また、明恵上人とともに春日明神から我が太郎・次郎と思うと託宣されたとも伝えられ、いわば鎌倉時代初め頃における南都系仏教界のエースと目される人物。笠置寺の奥には上人の墓所と伝える秀逸な五輪塔が残っている。

参考:川勝政太郎「新版日本石造美術辞典」47ページ

例により文中計測値はコンベクスによる略側値ですので少々の誤差はご容赦ください。


京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔(その2)

2008-11-13 21:29:48 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔(その2)

先に紹介した同塔について、『石造美術』12号に田岡香逸氏の詳細な報文と拓本が掲載されていたことに後から気付いたので、拙い小生の紹介記事を補足させていただきます。(ただし、法量値はコンベクスによる実地計測によるため、あえて田岡氏の報告値にあわせて改めません。少々の誤差はやむをえないものとご了解いただきたい。)

材質について、田岡香逸氏は花崗岩製とされている。竿のレリーフについては、西側と南側を除き開敷蓮花と書いたが、正面すなわち北東側のみは開敷蓮花上に円相の平板陽刻がある。円相内に梵字などはない。また、西側と南側は蛇行して立ち上がる2ないし3本の茎部を伴う開敷蓮華ないし蕾の蓮華文レリーフと見られる旨を記したが、これは南側が二茎蓮華、西側が一茎蓮華で、ともに水平方向に波状に蛇行する突帯(水面を表現したと思われる)からS字状に蛇行しながら立ち上がる茎の表現がおもしろく、先端に一茎蓮華は開花蓮、二茎蓮華は開花蓮と蕾を配している。また、中台側面は二区に枠取りし、西側のみ格狭間を入れ、残りの面は格狭間を入れず、西側から右回りに斜十字文、各輪郭内に2片づつの散蓮華、開敷蓮華、2片散蓮華、外側に向けて上がる七条の斜線、四菱文、開敷蓮華の順に配されている。変化に富む凝った文様であるが、その配置に規則性がない点は注意すべきである。田岡氏は造立年代について、一、二茎蓮華の蛇行する茎、散蓮華の構図などを退化形式とされ、摂津小童寺(未見・詳細不明)無縫塔との類似性を指摘され、室町時代初め、1415年頃のものと推定されている。ただし、小童寺塔について川勝博士は南北朝時代と推定されているようで、見解が分かれるようである。

参考:田岡香逸「南山城の石造美術5―綴喜郡宇治田原町―」『石造美術』12号

いつもながら詳細にわたる田岡氏の調査報文のクオリティの高さには感心します。28年を経た今日もいささかも衰えることがありません。まさに金石のごとき「金字塔」です。欲をいうときりがありませんが実測図があればほとんど完璧です。改めて田岡氏の学恩に感謝するとともに、またしても自らの情報不足と不勉強に閉口し嘆息する小生であります、ハイ。ウーン近々再訪しないといけないですね。田岡氏は15世紀初めに下ると考えられていますが、小生はやはり14世紀後半頃とみています。


京都府 綴喜郡宇治田原町荒木字天皇 大宮神社宝篋印塔

2008-11-13 00:47:02 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町荒木字天皇 大宮神社宝篋印塔ほか

宇治田原町の役場がある荒木の集落を見下ろす山腹に鎮座する大宮神社の境内、本殿向かって左手、石柵で囲まれた宝篋印塔が立っている。01切石を組み合わせた基壇上に載せてあるが、恐らくこの基壇は後補と思われる。原位置を保っているか否かは不詳だが、南西にやや下がった場所にある中央公民館付近は「山瀧寺」という寺院跡で創建は白鳳時代に遡り古代から中世を通じて栄えたらしく、近世に入って次第に寺勢を失っていったようで、関連する「大御堂」という大規模な建築物が昭和初期まで建っていた。この寺院との関連も考えられる。02_2花崗岩製で塔高約170cm、基礎は幅約52.5cm、側面高約28cmと高さに比して幅が大きく安定した形状を示す。側面は四面とも輪郭を巻き内に格狭間を入れ、その中を三茎蓮華のレリーフで飾っている。輪郭の彫りは極めて浅く、ほとんど線刻に近い。輪郭の幅は左右の束が約8~8.5cmに対し上下は約4cmと左右が広く上下に狭い。格狭間は全体にやや小さく、脚部が比較的高くほぼ垂直に立ち上がるが形状的には概ね整っている。格狭間内の三茎蓮華は各側面とも格狭間内いっぱいに大きく表され、宝瓶はなく直接脚部の間から立ち上げる茎部は太くしっかりしたもので左右の葉部が若干内向き加減でほぼシンメトリな図案である。基礎上は2段式で側面からの入りが深い。塔身は幅約24cm、高さ約25cm。金剛界四仏の種子を蓮華座上の月輪内に薬研彫している。概ね端正な書体であるが雄渾なタッチという程ではない。笠は軒幅約50cm、上7段、下2段で下2段が少し薄い。軒は厚さ約7cmとやや厚めである。隅飾は軒から垂直に立ち上がり軒との区別は見られない。基底部の幅約14cm、軒上端からの高さは約21cmあって背面は4段目までと癒着して5段目とほぼ同じ高さに合わせている。04全体に縦長の隅飾で側面は薄い輪郭を巻く二弧式。各側面とも輪郭内には蓮華座上の円相を平板に陽刻し、円相内に「アク」種子を陰刻しているというが肉眼でははっきり確認できない。輪郭はこの円相を囲むように枠取りされて上の弧が高くカプスの位置が非常に低い。相輪は高さ約61cm、伏鉢、上下の請花、宝珠の各部ともが低く、九輪の各輪は幅広で凹部の彫りは深い。光線の具合もあり判りにくいが請花は上下とも覆輪付の単弁のように見える。また、相輪は若干色調や質感が異なるようにも見える。昭和47年の川勝博士の「京都の石造美術」に、この相輪は近年発見されたとあるので、そのせいかもしれない。さて、本塔で特筆すべきは基礎の三茎蓮華文である。これはいわゆる近江式装飾文様とされるもので、滋賀県内に普遍的に見られる石造物の意匠表現である。西日本を中心に全国に広くその例が分布するが、数量的には近江03が他を圧倒している。現在のところその在銘最古の遺品は寛元4年(1246年)銘の近江八幡市安養寺層塔であり、川勝政太郎博士や田岡香逸氏らの研究によりその発祥もまた近江に求められることが定説となっている。南山城にあって大津や信楽方面、あるいは大和にも通じる交通の要衝である宇治田原にこの近江式装飾文様を見ることに意義があり、石造物の文化圏やその交わりを考える上で欠かすことのできない事例として早く川勝博士が注目された宝篋印塔である。川勝博士、田岡氏ともに高島市安曇川の田中神社の永仁2年(1294年)銘の宝篋印塔との類似性を指摘されている。確かに両者がよく似ているように思われる。低く安定感があって側面からの奥行きのある基礎、軒から直接立ち上がる縦長の隅飾など総じて古調を示し、鎌倉時代後期初め、13世紀末から14世紀初頭頃の造立として大過ないものと思われる。各部揃っている点も貴重。町指定文化財。なお、境内東側に文殊曼荼羅の石碑と称するものがある。蓮華座上の月輪内を大きく陰刻し中央に同じ大きさの「マン」(文殊?)、左に「サ」(聖観音?)、右に「キリーク」(阿弥陀or千手観音?)を並べて薬研彫りした自然石碑で、何となくたどたどしい彫りの線や表面の風化があまり進んでいない点が少し気になるものの、蓮華座の形状は古調を示すことから中世に遡る可能性がある。このような種子の組み合わせが何を意味するのかよくわからないが、あるいは神社の本地仏を表したものではないだろうか。後考を俟つものである。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」105~107ページ

   田岡香逸 「南山城の石造美術3―金胎寺・大宮神社・深広寺―」『石造美術』10号

社殿前東側の大きい御手洗石は山瀧寺の塔の心礎と伝えられているようです。真偽は不明ですが肯ける大きさと形状を示すものです。ただし背面にある大同2年…の刻銘は書体から後刻と判断されます、ハイ。


京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔

2008-11-10 01:00:41 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔

旧茶屋村地区は宇治田原町でも奥まった所で、信楽方面に通じる谷あいの山村である。岳谷の集落の南、集落を見下ろす小高い山腹に真言宗遍照院がある。天正10年6月、本能寺の変の報を受けた徳川家康が堺から本国三河へ急いで引き返す途中ここで休息したと伝えられる。お寺の背後の尾根上に墓地があり、墓地の入口近くに立派な重制の無縫塔が立っている。15高さ約90cm弱、石材は表面的な観察では特定しかねる。花崗岩かもしれないがきめの細かい砂岩ないし安山岩の可能性もある。この点は要確認、後考を俟ちたい。平らな切石の基壇を2重に備えているが、一番下にある前後2枚からなる基壇は、手前に供花用と思しき穴が左右にあって、恐らく近世の後補と思われる。その上の平らな方形の切石は幅・奥行とも約42cm、高さ約11cmの一枚石で、幅が基礎とそろえてあることから、当初からの基壇ではないかと考えられる。どちらの基壇も装飾は何ら施されていない。重制無縫塔というのは、基壇、基礎、竿、中台、請花をしつらえて卵形の塔身を載せる手の込んだ無縫塔で、遍照院塔もこの構造形式を備えており、基礎、竿、中台、請花、塔身が各別石となる。基礎は平面八角形で幅約41cm、高さ約20cm。各側面を枠取して内部に格狭間を入れ、上面には小花付複弁反花を配して上端に高さ約1.5cmの低い竿受座を刻んでいる。反花は各辺中央に主弁が、各コーナーに小花がくるようになっており、構造上小花は裾が開く大振りなものとなっている。主弁は覆輪部分を幅広にとって、弁央部分の立ち上がりを比較的急に仕上げて抑揚感がある。また、基礎下端は平坦で持ち送りの脚部は見られない。各側面は幅約17cm、高さ約12.5cmで割合高さがある。24 竿は高さ約23cmの八角柱で、西側と南側を除く各面中央やや下寄りに開敷蓮華のレリーフがある。西側と南側だけは光線の加減もあり、採拓もしていないのではっきり確認できないが、恐らく蛇行して立ち上がる2ないし3本の茎部を伴う開敷蓮花ないし蕾の蓮華文と思われるレリーフになっている。中台も平面八角形で、幅約37cm、高さ約13cm。下端に高さ約1cmの受座を設けて竿を受け、そこから単弁の請花で側面につなげており、各辺中央と左右のコーナーに主弁を配し、間に小花を置く。側面は各面とも二区に枠取し、輪郭内に格狭間、斜連子、斜十字、花菱文をそれぞれ1面ずつ、散蓮華、開敷蓮花を各2面ずつ飾っているというが、肉眼では全てを確認することができない。中台上面は中央の円形の低い受座を囲むように複弁反花を丸く平らに彫り出している。さらにこの受座の上に平面円形の鉢状の請花を載せている。請花は径約30.5cm、高さ約10.5cm。沈線で輪郭を縁取った覆輪付の大振りな単弁で、主弁の間には小花を添えている。請花上端には低い受座を設け塔身を置く。塔身は径約27cm、高さ約15cmで下端を水平にカットした卵型で裾のすぼまり感も適度で全体に直線的なところのない整った曲線を描く。無銘。もっともこの種の古い重制無縫塔に紀年銘があることはむしろ稀である。造立時期については、整った塔身の形状は古調を示すものの、基礎側面の高さ、中台側面に見られる斜十字文などの直線を用いた文様意匠、反花や請花の意匠表現などを考慮すると、概ね14世紀後半頃の造立と推定される。古い重制の無縫塔は石燈籠などと並び最も手の込んだ細かい意匠と構造を持つ石造物で、近世以降に増加する単制の無縫塔のようにポピュラーなものではなく、禅宗系の高僧の墓塔として採用されるものである。総じて丁寧な彫成と凝った細部を持つ本塔の出来映えを考えれば、さぞかし名のある開山クラスの高僧の墓塔であったことは想像に難くない。ただし遍照院は元亀年間の創建とされることから、その前身寺院の遺物か近隣の古い寺院からの搬入品と思われる。町指定文化財。

参考:嘉津山清「無縫塔-中世石塔の一形式-」『日本の石仏』NO.83

この種の無縫塔としては一般的なサイズですが、1m足らず小さい石塔ながら、細かいところまで凝った意匠表現は流石です。それにしても塔身を受ける請花の覆輪沈線は弁形の側線から弁先の尖りに向かう曲線のふくよかさを打ち消して、何というか、粗野で剣呑な印象を与え、本来あるべき塔全体の温雅さを損なっているように感じられます。いかがでしょうか?


京都府 綴喜郡宇治田原町南字中畑 田原南宝篋印塔(わらじの神様)

2008-10-23 22:55:20 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町南字中畑 田原南宝篋印塔(わらじの神様)

宇治田原町役場の南方約1km、南区の小字中畑、旧切林村の公民館北の三叉路を東に入02った目立たない場所にある。北に延びる尾根の東斜面に位置する。地元では「わらじの神様」と呼ばれており、和束町方面へ抜ける古い街道の脇、ちょうど坂道にさしかかる手前の右手にある。昔、街道を往く人がここでわらじの紐を締め直したともいわれているとのこと。また、足の怪我や病気を治す霊験があるとされ、お参りする人が多いようで、西側にコンクリートの階段と簡単な拝屋が設けられ、香華が絶えない様子である。03元位置を保っているか否かはわからないが、現状では基壇や台座は見られず、直接基礎を地面に据えている。花崗岩製。相輪先端の宝珠を亡失し上の請花までの高さ約162cm、元は6尺塔であろうか。宝珠を欠く以外各部揃った立派な宝篋印塔である。現在は宝珠の代わりに小さい五輪塔の空風輪が載せてある。基礎は幅約55cm、側面高約28cmと低く安定感がある。上2段式で側面各面とも輪郭を設けて内に格狭間を配する。格狭間内は素面。格狭間は肩があまり下がらず側線のカーブはスムーズで概ね整った形状を示す。塔身は幅約27cm、高さ約28cm、金剛界四仏の種子を月輪内に薬研彫する。種子のタッチは端整ながら雄渾というほどではない。笠は上6段下2段で軒幅約50cm、高さ約38cm。軒口は薄めで、どちらかというと大ぶりな隅飾は軒から少し入って立ち上がり、少し外傾する二弧素面で、輪郭は見られない。相輪は現存高約56cm、伏鉢がやや小さく、下の請花の蓮弁は今ひとつはっきりしないが単弁のように見える。九輪の逓減は目立たず、各輪は太くはっきりしているが彫りの深さはそれほどでもない。上請花は単弁。先端の宝珠が惜しくも欠損している。際立った特徴はないもののよくまとまった出来映えを示し、各部の意匠や彫成も抜かりなくいきとどいているが、全体的にやや力強さに欠け温雅な印象を受ける。種子に少し弱さが出ていることなどから、14世紀前半頃、概ね鎌倉時代末期頃の造立とみて大過ないものと思われる。やや表面の風化があるが各部ほぼ揃って遺存状態概ね良好。町指定文化財の看板が傍らに立っている。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」 129ページ

川勝博士の「京都の石造美術」に、鎌倉時代の宝篋印塔として、「田原南塔、俗称「わらじの神様」」とだけ出ています。他に詳しく紹介された記事等を知らず、南は広い大字なので数年来探しあぐね、ずっと気になる存在でした。車の通れる道路から徒歩で小道を少し進んだ尾根裾のほの暗い山陰の竹薮にありました。道で会った通りがかりの地元のおばあさんに思い切って尋ねたところ、道路からは判りにくいかもしれないから道案内をしてあげようと、わざわざ同道してもらって教えていただきました。とぼとぼと乳母車(高齢者向けのカートとでもいうのでしょうか、詳しくないのでとりあえずこの表現にしておきます)を引いて農作業のお帰りだったのでしょうか、かなりのご高齢で、乳母車を道路に停めてからは、杖がないと足元がおぼつかないとのことなので、手を引かせてもらいいっしょに小道を歩きながら、塔が少し傾いているのをまっすぐに直すと障りがあるといわれていることや、地元での信仰が厚いことなどのお話をうかがいました。このようにしてようやく巡り逢えた「わらじの神様」、感激は一入、かのおばあさんのご親切に感謝したいと思います。法量値は例によってコンベクスによる現地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください、ハイ。