石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市東山区円山町 安養寺宝塔

2008-03-25 00:06:49 | 京都府

京都府 京都市東山区円山町 安養寺宝塔

桜の名所円山公園は今からの季節大勢の花見客で賑わいを見せる。13_2円山公園でも最も奥まったところ、安養寺の境外堂である吉水の弁天堂がある。さすがにここまで足を伸ばす人は少ない。ましてこの弁天堂の裏、崖下の狭い場所に京都でも有数の石造宝塔が隠れるように立っていることを知る人はけっこうな石造マニアといって過言ではない。花崗岩製。基礎は失われ、代わりに平らな自然石になっている。自然石をあわせた現高約3m、塔だけの残存高2.44mに及ぶ巨塔。塔身は首部と軸部よりなり円盤状の框座や匂欄部は見られない。軸部は最大径を高めにとった壺形で、短い首部の直線、肩から裾にかけての曲線は08_2スムーズで美しい。正面に扉型を薄肉彫し、扉は左右に開き、縦長の長方形の龕部を彫りくぼめ内に並座する如来坐像を半肉彫りしている。印相は風化により明らかでないが、頭頂の肉髻がはっきり見える。扉の召し合わせ部分と上下の長押には一段を設けて、手の込んだ表現である。法華経見宝塔品に説かれる多宝、釈迦の二仏を表す天台系の教義に忠実な意匠である。笠は大きく平らで、軒は厚く全体に緩やかな反りを見せ、若干内斜ぎみに切っている。笠裏には垂木型は見られない。四注はむくりを見せ低い隅降棟を削りだしているのが見られる。笠頂には低い露盤が表現されている。相輪は九輪の3輪目と4輪目の間で折れ、6輪目以上の先端部を欠く。低い伏鉢と彫りの深い単弁下請花の間に頸部を設けている。九輪は凹凸を非常に明確に刻みだし14_2ている。銘は見られず、造立年代は推定の域を出ないが、相輪や笠の形状は一般的な鎌倉後期の石造宝塔と15は一線を画する古調を示し、鎌倉中期、場合によっては前期末くらいまで遡る可能性がある。基礎が失われている点は実に惜しまれるが、低いどっしりとしたものであったことは想像に難くない。五輪塔や宝篋印塔とは一味違う宝塔の美しさをよく示す優品。なお、この石塔は天台の高僧、慈鎮和尚(歌人として有名、百人一首にも登場する前大僧正慈円)の塔との伝承がある。元より実証困難な伝承に過ぎないが、慈鎮は吉水と呼ばれたこの地に住んだとされ、法然上人は慈鎮和尚から吉水の一画を得て、それが今日の浄土宗総本山知恩院につながっていく。この地に天台系の教義に基づく古い石造宝塔が残っているということは、とりもなおさず、かつてこの付近が天台系の影響下にあったことを示しているといえる。石造美術に興味のある諸兄、円山公園に遊ぶ場合は八坂神社の石灯篭、それから少し離れるが知恩院の五輪塔とあわせてぜひ立ち寄って欲しい。

参考:川勝政太郎 『京都の石造美術』 89~90ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 12ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 46~47ページ

写真右上:笠と相輪下部の意匠・造形、写真右下:扉型内の二仏並座

塔身の肩のあたりの曲線、すぼまりぎみの裾、伸びやかな笠、悠々とした軒反、小生が宝塔に惹かれるのはこのあたりにあります。実に素晴らしい宝塔です。うーんわかってもらえましょうか・・・。


京都府 向日市物集女町 来迎寺宝篋印塔並びに両部曼荼羅板碑

2008-03-03 23:56:53 | 京都府

京都府 向日市物集女町 来迎寺宝篋印塔並びに両部曼荼羅板碑

京都府向日市物集女付近も都市周辺部の宿命とはいえ例に漏れず開発が進み、かつての街道沿いの農村の痕跡すら探すことが難しくなってきている。南側100m足らずのところには物集女城跡があり土塁や堀が残る。01さらに南東約500mには古墳時代後期の前方後円墳として有名な物集女車塚古墳が窮屈そうに団地内の緑地に収まっている。浄土宗西山派紫雲山来迎寺の狭い境内の北に接して広い府道140号線が東西に走る。昔からの集落にある小寺院という原風景は失われつつある。09南面する山門をくぐると正面の本堂、右手の収蔵庫ともに鉄筋コンクリートで収蔵庫の南側、白壁沿いの狭いスペースに両部曼荼羅板碑と宝篋印塔が並んで立っている。宝篋印塔は東側にあって高さ約164cm、総花崗岩製で基礎から相輪まで完存している。基礎は割合低く、側面は3面に輪郭を巻いて内に格狭間を配する。背面は格狭間がなく数人の願主名と貞和4年(1348年)2月の紀年銘があるというがはっきり確認できなかった。貞和4年は北朝年号で南朝年号では正平3年にあたる。格狭間内は素面。基礎上は反花式で複弁の抑揚のあるタイプ、両隅弁間に小花を挟んだ中央弁1葉、都合一辺3弁で弁先が側面からかなり入り込んでいる。塔身受座は比較的高く削り出している。塔身は金剛界四仏の種子を陰刻月輪内に薬研彫する。タッチは端麗ながら力強さに欠け温和にまとまった感じである。笠は上6段下2段の通有のもので、軒が薄い印象。二弧輪郭付の隅飾は軒から入って直線的に外傾する。カプスの位置をやや低く隅飾基底部分を少し幅広めにしている。相輪は九輪部6輪目と7輪目の間で折れているのをうまく接いである。伏鉢下請花は複弁、九輪の凹凸ははっきりしたタイプで上請花は風化が激しいが単弁のようである。宝珠はスムーズな曲線を見せるが重心がやや上にあって上請花との間のくびれが大きい。薮田嘉一郎氏は「鎌倉前期に創始され、後期に完成された石造宝篋印塔の様式はこの時代に至って円熟し、やがて頽れて行くのであるが、本塔はやや古様を保ち、最も整備温和の麗姿を見せる。10蓋し鎌倉様式掉尾を飾る一名品であろう。」と評されている。一方、両部曼荼羅板碑は高さ156cm、幅91cm、厚さ33cm、やや不整形長方形で良質な凝灰岩の正面を平らに整形し、上端は破損しながら額部状に突出させているのが判然としているが左右の破損面も同様に突出して中央平面部を囲むようになっていた可能性も否定できない。そうするとやはり川勝博士が推定されるように古墳の石棺を2次利用したものなのかもしれない。下端は楕円形素弁を二重鱗状に配している。正面の平らな面には上下に大きく2つ平らな丸いレリーフを設けている。上レリーフは胎蔵界の中台八葉院を表す八葉の蓮華で、中房にアーク(大日如来)を配し、上から時計周りにア(宝幢)、アー(開敷華王)、アン(弥陀)、アク(天鼓雷音)の4仏、右上にアン(普賢)、右下にア(文殊)、左下にボ(観音)、左上にユ(弥勒)の4菩薩の種子をそれぞれ蓮弁内に大きく薬研彫する。中央アークが大きく、4菩薩より4仏の種子がやや大きい。下のレリーフは陽刻円相内を細い2条の陰刻線で縦横に区切り、中央にバン(大日)、上にキリーク(弥陀)、右にアク(不空成就)、下にウーン(阿閦)、左にタラーク(宝生)の5仏の種子をそれぞれ陰刻月輪内に薬研彫している。金剛界曼荼羅成身会を表す。中台八葉院で胎蔵界を、成身会で金剛界の両部曼荼羅をシンボライズする。胎蔵界では西方弥陀のアンが下に、金剛界ではキリークが上にくるので両界共通の西方の弥陀が全体の中央に寄るようになっている。石棺を利用し両部曼荼羅を刻みだした塔婆ないし石仏の一種で、いわゆる板碑として明確にカテゴライズできるものではないのかもしれない。石造の両部曼荼羅は関東の板碑にもちょくちょく見られるようだが、このあたりでは非常に珍しい。力強い種子の書体、威風堂々として野趣溢れる作風は見るものを圧倒する。造立年代は不詳とするほかないが、川勝博士は南北朝時代前期のものと推定されている。寺蔵の平安後期の薬師、阿弥陀の木像とともに、もともと付近にあった薬王山光勝寺(廃寺)の旧物ということである。

参考:川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』 132~133ページ

   薮田嘉一郎 補考付『宝篋印塔の起源 続五輪塔の起源』 裏表紙及び163ページ

   川勝政太郎 『京都の石造美術』 175ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 272ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 190~191ページ


京都市 左京区大原勝林院町 勝林院北墓地石鳥居

2008-02-06 00:45:10 | 京都府

京都市 左京区大原勝林院町 勝林院北墓地石鳥居

勝林院の境内を北に抜け暫く林の中の道を行くと共同墓地に行き当たる。Photo 墓地の西端の一番低いところに小さい石鳥居がある。花崗岩製で高さはわずか106cmながら太い柱と荒叩きの表面が朴とつとして、ある種の貫禄のような趣さえ見せている。地面に平らな基壇石を置き、両端を柱の断面形にあわせて丸くくりぬいて両側の柱をはめ込んで固定しているようで、左右の柱は太く裾はやや広がって転びをつけている。貫と額束、笠木と島木はそれぞれ一石彫成で貫は柱外に貫通しない。笠木と島木は全体に緩く反り、笠木の上面は緩く稜を設け、両端はほぼ垂直に切っている。額束東側には長方形の額を刻みだし、「如法経」の文字を陰刻する。また額の左右の貫に4行にわたり「奉造立石鳥居寛正二年(1461年)辛巳十一月・・・」の銘があるというが肉眼でははっきり確認できない。川勝博士は如法経を埋納した場所の門として建立されたものと推定されている。それが経塚なのか塔婆を伴うのかは知る手立てはない。小さいが江戸時代の鳥居には見られない雰囲気があり、中世に遡る紀年銘も貴重なものである。墓地には室町期の石塔や石仏が多数みられ、中には正和2年銘の宝篋印塔もある。(これは別途紹介します)ずっと継続していたか否かは不詳だが中世まで遡りうる墓地と思われる。今日的な常識では鳥居は神社にあるもので、墓地にあるのはピンとこないが、近江湖西の玉泉寺墓地や当尾の辻千日墓地のように墓鳥居というものが稀にあり、北野天満宮の東向観音寺五輪塔と伴社石鳥居がかつてセットで忌明信仰の対象とされていたように塔婆と鳥居が組み合わされる例もある。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 39ページ

京都の大原は三千院をはじめ著名な観光スポットが多い土地ですが、実は見るべき石造美術が多いところで、観光客の多くは気付かず見逃してしまいます。先に大長瀬宝篋印塔を紹介しましたが、今回は大原石造美術シリーズ第2弾として勝林院北墓地の石鳥居を紹介しました。


京都市 左京区大原大長瀬町 大長瀬町公民館宝篋印塔

2007-07-12 22:24:45 | 京都府

京都市 左京区大原大長瀬町 大長瀬町公民館宝篋印塔

大原大長瀬町に入り、国道367号と平行する旧街道を北の来迎院町に向かうと、著名な三千院の方に上がっていく道が、梅宮神社のところでY字状の三叉路で東に分かれる。その少し手前、観光客向けの店が並ぶ間の狭い坂道を東に20mばかり登ると大長瀬町の公民館がある。大原郵便局の南、直線距離にして約100mのところ、街道からは高低差もあり、目立たない場所で、土地の人に尋ねないとちょっと分からない場所である。南面する公民館の東側、法面の下に石積で区画し周囲より高く整形した一画があり、その頂に宝篋印塔が2基南北に並んでいる。02_17 石積の南側には、隣接して高さ1m余りの平べったい自然石の広い面に、線刻した蓮華座上を舟型にくぼめ地蔵菩薩立像を薄肉彫りにした室町時代風の石仏がある。周囲にはほかにも小形の石仏類や五輪塔の残欠が何点か集積されている。ここにはもともと無住の旧堂があり、川勝博士は『拾遺都名所図会』や『山州名跡志』にある真光寺ではないかとされている。廃寺となったのはそんなに昔のことではないようである。件の旧堂はとうに撤去され、今は真新しい公会所に建て替えられている。宝篋印塔は南北ともに花崗岩製で、各々基礎の下に、当初からのものかどうかは不明だが切石を方形に組んだ基壇があるのがわかる。南塔は高さ約157cm、基礎は上2段式で、幅に対する高さの比率は小さい方で、側面は、背面にあたる東側のみ素面とし、残る3面は、輪郭を巻かず直接格狭間を彫りくぼめている。格狭間は側線の曲線にふくよかさにやや欠け、肩がさがり気味の形状で、下端は水平に切り離し糸底となる。格狭間内は平らで素面とする。正面(西側)の格狭間の左右に「元亨元年(1321年)辛酉三月十五日/一結衆等敬白」と刻銘があるのが肉眼でも容易に観察できる。塔身は西側に蓮華座と月輪を陰刻し、月輪内にキリークを薬研彫する以外素面である。種子の書体はしっかりしているが、文字が小さく、力強さがない。笠は上6段下2段で、笠下の2段が薄い。軒と区別しほぼ直立する隅飾りは二弧輪郭付きで輪郭の幅がかなり狭い。輪郭内には種子「バ」を、東側を除く6箇所に直接陰刻するようだが、肉眼でははっきり確認できない。「バ」の意味するところについては川勝博士も考え及ばないとされている。「バ」は水天、破軍星を示すが、儀軌的に考えにくく、よく似た金剛界大日如来を示す「バン」の可能性もある。不明とするしかなく、拓本をとるなど詳細な検討を待ちたい。相輪は後補とされている。後補のわりに風化が進んでおり、宝珠と上請花は異形だがそれ以下の部分にあまり違和感はない。途中で折れており、相輪上部のみが後補の可能性もあるかもしれない。北塔は、高さ約144cm、基礎の幅に対する高さの比率は小さく、非常に低く安定感がある。上端は単弁反花式で、その蓮弁は傾斜が緩く抑揚感のないタイプ。弁先が側面からかなり入っている。平べったい印象の反花で、上端の塔身受も薄い。側面は背面に当たる東側を除いて3面に輪郭を設けずに直接格狭間を彫りくぼめている。格狭間は南塔より大きく描かれ、いっそう肩が下がり加減だが側辺の曲線はむしろややふくよかである。格狭間の脚部は基礎の下端に続いており、糸底にならない。塔身は側面に月輪や蓮華座を刻まず直接胎蔵界四仏の種子を薬研彫する。文字は南塔よりも小さく一層力強さに欠ける。笠や基礎の塔身受座に比してやや小さ過ぎるように見え後補の可能性も残る。笠は上6段下2段で、軒と区別し直線的に外反する隅飾は二弧輪郭付き。南塔に比べ輪郭の幅が太い。南塔と同様に輪郭内に「バ」を陰刻し、こちらは東側二面にも刻まれ、しかも各面とも左右を鏡面対称にしているらしく、向かって右側が通常、左側を裏文字とするようだが、肉眼でははっきり確認できない。相輪はやはり後補とされ、南塔同様折れた先端部分が異形で、南塔の相輪より風化が進んでいる。基礎背面には「享保十五/初冬勧化/本邑男女/再興両部/宝塔荘厳/覚地者也/幻住無光/雷峯叟記」の8行の刻銘があり、1730年、無光という住職が村人に寄付を勧めて両塔を再興した趣旨の後刻である。川勝博士のおっしゃるように、相輪など後補の可能性のある部分がこの時整えられたのだろう。南塔は、輪郭のない格狭間、笠下の薄い2段と、塔身の一面にのみキリークを刻む点が珍しい。元亨元年、一結衆による造立銘がある点は貴重。北塔は隅飾の種子の意匠が珍しい。基礎、笠の低さを古調と評価すれば北塔の方が古いが、川勝博士は隅飾の外反度合が南塔よりきつい点や、塔身の弱い種子、基礎の反花などに新しい要素を指摘され南塔より後出で南北朝初期ごろと推定されている。

参考:川勝政太郎 「大原大長瀬町と福知山観興禅寺の宝篋印塔」 『史迹と美術』400号

      川勝政太郎 『京都の石造美術』 116~119ページ


京都市右京区 嵯峨ニ尊院門前長神町 二尊院宝篋印塔ほか

2007-02-14 00:33:20 | 京都府

京都市右京区 嵯峨ニ尊院門前長神町 二尊院宝篋印塔ほか

夕暮れ迫る冬の二尊院を参拝した。拝観時間ぎりぎりにお願いしたがゆっくりして構わないとのこと。帰りは山門を閉めてしまうから木戸から出るよう案内していただいた。小倉山の山腹に、凛とした空気が漂う静寂な境内には時間帯のせいもあってか観光客はほとんどいない。本堂の北側、墓地に続く階段をいくと段々状に整地された山腹に近世の立派な石塔が累々と並んでいる。貴族や歴史上の有名人の墓も含まれるようだが、また別の機会とし、階段を登ると小堂があって扉が開いている。法然上人円光大師の廟堂とされる。実は湛空上人の廟所である。扉の中には空公行状碑が見える。羽目石を格狭間で飾る壇上積の立派な基壇上には反花座を葛石と同石で彫り出し、櫛形(に似た形状)の碑を据える。建長5年(1253年)の湛空の示寂から間もない頃の造立と考えられる。この碑に南宋慶元府すなわPhoto_1ち明州、今の寧波出身の梁成覚なる石工の手になる旨が刻まれている。伊派石工の始祖、伊行末と同時代の同郷の同僚にあたる。東大寺再興に尽力し、大野寺の磨崖仏も作った宋人字六郎ほか四人の一人ないし関係者の可能性もある。湛空は法然の高弟であり、石工を宋から招いた重源は法然から推薦され東大寺大勧進職に就いたという説もあり、興味は尽きないが、非常に丹念に作られ、後世の手本にもなったであろう鎌倉中期の宋人石工の手になる意匠や作風を理解するためにも、ここの格狭間や反花はしっかり目に焼き付けておきたい。

墓地の西北端、一番奥まった高所、長方形に整地され低い石垣に画された一角に北から十三重層塔(現十重)、五重層塔、宝篋印塔のPhoto_2順で南北に古石塔が並んでいる。いずれも花崗岩製。案内看板によれば土御門、後嵯峨、亀山の各天皇のものとあるが土地柄から後世付会された伝承であろう。亀山天皇のものとされる宝篋印塔は一説に後奈良天皇のものとされ、やや崩れかけた切石基壇には五輪塔の地輪を流用している部分があり、当初からのものか疑問も残る。基礎は非常に低く、壇上積式で四方に端正な格狭間を入れる。基礎上2段は別石とし、塔身は蓮華座付き月輪内に金剛界四仏の種子を陰刻する。書体は端正だが文字は小さい。笠下2段も別石で、笠上は6段だが、厚めの軒とその上一段が同石で、2段目以上が別石となる。各隅飾も別石で、3弧輪郭付で内部に蓮華座付月輪を平板状に陽刻し内に種子「ア」を陰刻する。隅飾は5段目Photo_3 の高さにまで及び長大で、直線的にかなり外反する。3弧にあわせた曲線が目に触れにくい背後にまで続いていく点は凝った意匠である。相輪は低い伏鉢に比べ下請花がやや大きく、蓮弁は摩滅して判然としない。九輪は凸凹がはっきり刻まれ、その上に水煙を付け、その先は欠損する。かつての写真では笠上に載っているが、今は傍らに置かれている。水煙付相輪を宝篋印塔が採用する例は少なく、通常は層塔に多い。現に層塔がそばにあるので、いちおう入れ替わっている可能性を疑ってよいと思う。鎌倉時代後期の中ごろのものとされる。川勝博士は石造美術発達の頂点の時代感覚を示すもので、“雄大整美”と表現されているがぴったりのPhoto_4形容表現と思う。相輪を含め高さ約260cmと大きい。北の十三重層塔は、現在十一重で相輪を欠く。基礎は2/3以上埋まっており、薄めの輪郭を巻いて格狭間を入れているようだがはっきり確認できない。塔身はやや背が高め、四方舟形に彫りくぼめ蓮華座に坐す如来像を半肉彫する。摩滅気味で少し彫りが平板ではあるが像容は優れている。初層から第四層目までと第五層目から第九層までは軒反の調子がやや異なるように見える。また、第六層と第七層の間、第九層以上がそれぞれ抜けているようで最上部笠だけに垂木表現がなく別物かもしれない。こうした不ぞPhoto_5ろい感からか三石塔でこれだけが重要美術品指定から漏れている。軒反は総じて温和で力強さは感じられない。鎌倉後期から末ごろのものとされる。真ん中の五重層塔は、切石基壇上に四方輪郭格狭間入りの基礎を置き、背高の塔身四方を舟形に彫りくぼめて蓮華座上に如来坐像を半肉彫する。裏に一重に垂木を刻んだ笠の軒は厚く、軒反も力強くシャープな印象を受ける。第二層と第三層の間の逓減に違和感があり、恐らく第三層目と第四層目の二層分が抜けているとみられる。したがって元は七重であったのではないかと推定する。以前の写真を見ると上部を欠損した相輪が載っているが見当たらない。基礎の格狭間は、花頭曲線中央部分に幅があって伸びやかな曲線をみせ、ふくよかな左右側面の曲線と短い脚部の美しい格狭間である。亡失相輪を含め高さ約3.3m余というから現高3m程度。小さいがあなどれない細部を持つ石塔で鎌倉中期の造立とされる。

参考

竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 157~159ページ

川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 196~197ページ

川勝政太郎 『石造美術の旅』 99~101ページ


京都市 右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 清涼寺宝篋印塔

2007-01-18 22:54:37 | 京都府

京都市 右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 清涼寺宝篋印塔

清涼寺は嵯峨の釈迦堂、然上人招来の清涼寺式釈迦如来などで著名な寺院。河原の左大臣源融の棲霞観の跡といわれ、念仏系宗派ゆかりの旧跡としても知られる。

08 本堂向かって左、木造の多宝塔と鐘楼の間に、本堂側つまり北から石幢、宝篋印塔、層塔が一列に並び壮観である。その南側の木立の中、多宝塔の裏側で目立たない場所にも宝篋印塔があり、これら4基が南北一20_1 列に並んでいる。いずれも花崗岩製で、北から然上人、嵯峨天皇、檀林皇后、源融の供養塔とされている。(これらは平安時代の人物で石塔とぜんぜん時代が合わない)然上人の石幢は、笠以上後補で他所から近年移された(※1)もの、古い部分の高さ155㎝。檀林皇后塔は寄せ集めで、塔身など一部に平安末(※2)の部材を含む、高さ約3mの古い層塔である。一方、本堂向かって右手、経蔵の南に宝塔と弥31 勒坐像を表裏に刻んだものがある。これは石仏でもあり塔婆でもあることから何と呼ぶべきか、川勝博士、竹村俊則氏は弥勒宝塔石仏(※1、※3)または両面石仏ともいい(※4)、お寺のパンフレットには弥勒多宝石仏とある。いずれも如来坐像を刻んだ面を正面と考えておられるようで、石仏をメインとする考え方である。高さ2.1m、円形の複弁反花座の上に扁平で縦長の花崗岩自然石を立てる。裏面の宝塔はほぼ全面を使って半肉彫りされ、同じく半肉彫の石仏はヘの字型の天蓋を備えた弥勒仏とされる。なお反花座は大部分近年の新補で宝塔正面部分のみ旧物である。(※3)源融塔は後補の相輪を除き各部が揃い、見ごたえのあるもので、通常は基礎、13 笠、隅飾の各部を一石とするところを各々に別石の構成を見せる。すなわち基礎は前後2石の上に反花座を置いて3石としと笠は軒を含む3段と笠上6段の2石、隅飾はそれぞれ別石とする。奈良県南法華寺(壷阪寺)塔との形態類似性を指摘されている。相輪を除く高さ163cm。(※5)

さて、前置きがながくなったが、ここでは従来あまり詳しく記述されてこなかった嵯峨天皇供養塔とされる北側の宝篋印塔(北塔)について紹介したい。この宝篋印塔は源融塔(南塔)より一回り大き く、井桁に組んだ一重の切石基壇上に低い無地の基礎を据え、基礎上に別石の反花座を載せる。反花は複弁の抑揚のあるもので、左右隅弁の間に3弁を配する。左右間弁と中央弁に大きさやデザインに差はなく、弁外縁部を薄く優美な曲線に仕立て中央の複弁の丸みを際立たせる意匠と彫技は出色で、いきいきとし21 た印象を与え、マンネリ化傾向は見て取れない。反花の上部には塔身受が刻みだされ、どっしりと大きい塔身が載る。各面とも月輪を大きく線刻し、金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子の字体は洗練されているが小さい。月輪下方に蓮華座を配する。笠は上下2石からなり隅飾は全て失われている。笠上6段で隅飾があった四隅部分がいずれも下から2段目までが欠損している。一方笠下は一段しかないように見え不自然である。これは本来、別石の軒部が笠の上下の段形の間に挿入されていたものが失われたと解釈できるのではないかと思われる。笠上段形の最下段と笠下上段の幅が、わずかに笠下が上回る程度で、欠損している隅飾が介入できるスペースが十分とれないこと、基礎幅に比して現状の笠下の軒幅が狭すぎることから推定できる。おそらく元々は、現状で軒のように見える笠下上段の厚みよりもやや厚く、基礎幅に近い幅をもった四角い平板状の軒部材が挿入されていたのだろう。これが正しければ、笠上6段、笠下2段、欠損した隅飾とあいまって、一回り以上大きい印象の、どっしりとした巨塔の姿が想定される。軒部材のみを別石とする構造は例がなく、隅飾がどのようになっていたのか気になる。笠上四隅の欠損面が作為的には見えないので隅飾は笠上と一体彫成されていたと考えるのが自然であるが、笠と別石の可能性も否定はできない。別石であったとすれば、笠上の段形は四隅をはじめからへこませて彫成するのではなく、ひととおり四隅まで彫り上げてから隅飾が食い込むスペース部分を後から打ち欠いていたようである。さらに4つの隅飾がそれぞれ別石であったのか、はたまた軒部分の石材と一体彫成されていた可能性もあって謎は深まる。さらに、全体のバランスや石材の様子などからみてその蓋然性はかなり小さいが、今の笠上が別物であることもありえる。笠下段形は塔身との大きさの釣りあいがとれており、別物とは思えない。欠損した隅飾は、南塔(源融塔)同様3弧輪郭付きの大きめのものであったと推定したい。相輪は九輪の七輪以上を欠損するが凹凸がはっきりするタイプ。伏鉢上の請花は単弁のように見える。笠石とのバランス、石材の風化の程度などから当初のものと考えられる。笠下の西側は破損が進んでおり鉄の補強材で補強されている。なお、銘文は確認できない。規模を記した文献を見ることが出来ず、実測(むろん採拓も)などできない外部観察だけで造立年代を論ずると、考古学的アプローチによる石造物研究の諸兄からは、非科学的との謗りは免れないだろうが、あえて試みることを諒承頂くとして、全体規模が大きいこと、安定感のある低い基礎、変則的な石材の組み合わせは、構造形式が定型・普遍化する最盛期以前の特徴を示す。一方、基礎上反花座の彫刻、塔身の種子の書体や月輪蓮華座の形状などは洗練され定型退化の兆候を示している。通常、基礎上のむくり反花は南北朝期以降に流行するが、別石で彫技・意匠に抜群の出来を示す本塔は、その中でもごく初期に位置づけられよう。正和2年(1313年)銘の新京極誠心院塔や正和5年(1316年)銘の大原勝林院塔を参考とすべき類例とし、これらと前後するか、むしろやや遡る時期、つまり14世紀前半でも早い時期の造立と推定したいが、いかがであろうか、諸雅の叱正を請いたい。

参考

※1 竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 146~154ページ

※2 川勝政太郎 『京都の石造美術』 61~62ページ

※3 川勝政太郎 『京都の石造美術』 51~53ページ

※4 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 146ページ

※5 川勝政太郎 『京都の石造美術』 115ページ