石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その2)

2012-03-28 23:40:18 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その2)

国宝の多宝塔(最近修理が終ったばかり、伸びやかな軒やメリハリの効いたプロポーション、素晴らしいの一語に尽きます・・・)のすぐ西側に一段高く生垣で区画された一画がある。ここに2基の宝篋印塔が東西に並んでいる。06_5源頼朝と彼の乳母の亀谷禅尼の供養塔と伝えられる。01_2どちらが頼朝でどちらが亀谷禅尼のものか、またなぜそのように伝えられているのかについては詳しくないが、頼朝らが活躍した時期までは遡るものではない。どちらも延石を方形に組み合わせた基壇を地面に設え、その上に建つ。これらの基壇が当初からのものかどうかは不詳だが、サイズや見た目の質感からは一具のものと考えて特に支障はなさそうである。どちらも基礎から相輪まで揃っており、ともに花崗岩製。同じくらいの規模でよく似た印象であるが、よく見ると細部の意匠が異なっている。東側、つまり向かって右側、多宝塔寄りの方は高さ約147cm、基礎上複弁反花で、四隅と側辺中央に主弁を置き、主弁間に大きい小花を配する。側面は壇上積式で四方の羽目部分に格狭間を入れている。格狭間内は開敷蓮花のレリーフで荘厳する。開敷蓮花は平板でなく厚みをもったタイプ。02_2格狭間は羽目いっぱいに大きく作られ花頭中央が広く整った形状を示す。葛部、地覆部、左右の束の幅を狭くして羽目部分を広く作っている。05基礎幅は葛部で約46cm、地覆部で45.5cm、束部の幅は約1.5cm程小さい。高さは約37cm、側面高約27cm。塔身は幅、高さともに約22.5cm。各側面には線刻月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する。笠は軒幅約42cm、高さ約32.5cm。軒の厚みは約4cm。上六段下二段の通有のもの。軒と区別し少し入って立ち上がる隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面である。相輪は高さ約56cm。九輪の凹凸は明瞭。下請花は小花付複弁八葉、上請花は覆輪付単弁のようである。先端宝珠はやや大きめで重心が高く、先端尖りを大きめに作っている。伏鉢下端の径が17.5cmで笠最上段の幅約15.5cmを上回り、別物の疑いが強い。一方、西側、向かって左手のものは高さ約161cm、基礎上二段、幅約50cm、高さ約33cm、側面高は約25cmとかなり背が低い。各側面とも輪郭を巻き、内に格狭間を入れる。格狭間は概ね整った形状で彫りはやや深く、左右輪郭との間に隙間がある。格狭間内は素面。塔身は高さ幅とも約26cm。線刻月輪内にア、アー、アン、アクの胎蔵界の四仏の種子を薬研彫している。04笠は上六段下二段、軒幅は約48.5cm、高さ約37.5cm。軒の厚み約5cm。03_2軒から少し入って若干外傾する隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面。相輪は高さ約63.5cm、九輪上端近くで折損しているのを上手く接いである。九輪の凹凸は明瞭で下請花は覆輪付単弁八葉、上請花は小花付単弁八葉に見える。宝珠はやや重心が高いが整った曲線を描く。2基ともに無銘であるが、造立時期について、田岡香逸氏はそれぞれの外形的特長から西塔がやや古く鎌倉時代末の1325年頃、東塔は南北朝時代初頭頃で1330年を遡らないと推定されている。妥当な年代観と思われるが、西塔はもう少し古いかもしれない。西塔は重要文化財指定。また、田岡氏は東塔の意匠の特長から蒲生郡日野町蔵王の石工の手になるものと推定されている。石山寺にはもう一基、古い宝篋印塔が残されている。悪七兵衛ないし悪源太の供養塔とされるもので参道を北の本堂に上らず、西側の谷筋を奥に進んだ八大竜王社のさらに奥にあるようだが、残念ながら一般参拝客は立入禁止の区域で見学は叶わなかった。田岡氏の報文に基づき概略だけ紹介する。相輪を失い五輪塔の空風輪を代わりに載せ、笠上までの高さ146cmというからかなりの大型塔である。花崗岩製で基礎上二段、基礎側面は3面が輪郭格狭間、1面は素面。塔身には胎蔵界四仏の種子を月輪内に薬研彫する。笠は上六段下二段、隅飾は二弧輪郭。鎌倉時代後期の中頃のものと推定されている。相輪代わりの五輪塔の空風輪もかなり大きい立派なもので鎌倉時代後期のものらしい。ちなみに悪七兵衛というのは平家の勇者であった平(藤原or伊藤)景清、悪源太というのは源義平であろう。頼朝の庶兄である義平は平治の乱の後、石山寺に潜伏していて捕縛されたと伝えられる。彼らの活躍した時期は宝篋印塔の造立時期とは100年以上の隔たりがある。(続く)

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸「近江石山寺の石造美術()」『民俗文化』第144号

 

伝・頼朝&亀谷禅尼供養塔はともに150cm前後なので五尺塔と思われますが、塔高が147cmと161cmでちょっと中途半端な数値です。それぞれ相輪を入れ替えるとともに154cm前後になりちょうどよい数値になりますのでいちおうその可能性を考慮してもいいかもしれません。ここもコンベクス計測は憚られ、法量値は田岡氏の報文に拠りますが、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めました。緑の苔が映えて美しい宝篋印塔ですが、生垣が少々邪魔なので生垣の葉が少ない冬場が観察に適しています。一見すると同じように見えますが、基礎上二段と反花、輪郭式と壇上積式の側面や格狭間内素面と開花蓮、塔身の胎蔵界と金剛界の四仏種子とけっこう相違点があります。この違いがわかる人はちょっとした石造通と言えるでしょう。それと種子がショボめなのは近江の特色で大和などの種子との単純比較はできません。

伝・悪源太(悪七兵衛)の供養塔に行こうと奥に進むと立入禁止の看板が・・・。たまたま通りかかられたお寺の作業員と思しき方に尋ねると、この奥は作業小屋があるだけでそんなものは知らないなぁとのこと。鷲尾座主の監修の下に作られた公式解説書ともいうべき『石山寺の信仰と歴史』(お寺でも売っています)にも記載があるのに・・・残念ですがまぁ仕方がありませんね。

 

東塔が頼朝、西塔が亀谷禅尼のものとされているようです。


滋賀県 東近江市木村町 柳之宮神社宝篋印塔

2011-09-15 22:00:59 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市木村町 柳之宮神社宝篋印塔

木村町集落の北西、水田の中にこんもりした社杜が見えるのが柳之宮神社である。名神高速道路がすぐ北側を通っている。02付近一帯は木村古墳群で、東方約500mに復元整備された天乞山古墳と久保田山古墳が残る「悠久の丘 蒲生あかね古墳公園」がある。07ケンサイ塚という一番大きい古墳が久保田山古墳と神社の間にあったが高速道路建設に伴う土地改良工事で消滅したという。

社殿の向かって右手、一段高く石積みで設えた一画に石の柵に囲まれて宝篋印塔が祀られている。基壇や台座は見当たらず平らな割石の上に据えられている。相輪を失い五輪塔の空風輪が載せてある。花崗岩製でキメの粗い斑岩質と見受けられる。笠下を請花にする田岡香逸氏のいうところの「特殊宝篋印塔」である。笠上までの現存高は約93cmで元は五尺塔と思われる。基礎は幅約47.5cm、高さ約35.5cm、側面高約28cm。上二段で上端の幅約27cm。各側面とも輪郭を枠取りし、北側を除く三方はいずれも輪郭内に格狭間を配し、格狭間内は開敷蓮花のレリーフで飾る。輪郭は束部、葛部はともに幅約4cm、地覆部で約4.5cm。開敷蓮花のレリーフはかなり厚手に彫成され、側面のツラよりも1.5cm程盛り上がっている。03_2格狭間は概ね整った形状であるが両肩が下がり側線がふくらみ気味で茨の出が大きい。05北側面のみは輪郭内素面とする。こういう場合ここに刻銘を刻む例がまま見られるが何も確認できない。正面並びに左右側面観のみを意識して荘厳したことは明らかで、死角になる裏面は手を抜いたものと考えられる。逆に考えればレリーフで飾らないこうした面があるおかげでその反対側が正面だろうとわかるのである。塔身は高さ、幅とも約24.5cm、側面に金剛界四仏の種子を月輪、蓮華座を伴わないで直に薬研彫りする。06_2文字は小さく筆致はやや拙い。笠は軒幅約44.5cm、高さ約33cm。軒の厚さは約5cmとやや薄く、軒から上に比べて軒以下が薄い(低い)。笠上は五段、隅飾は二弧輪郭式で軒端から約1cm入って立ち上がる。基底部幅約13.5cm、高さ約17cm。カプスの位置が少し低く上の弧が細高い印象を受ける。笠下の請花は素面の単弁で隅弁の間に主弁3枚、弁間には小花がのぞく。04_2下端には幅約27.5cm、厚さ約1.7cmの塔身受座を作り出している。枘穴は径約9cm、深さ約4cm。基礎上を段形に笠下を蓮弁にするのは先に紹介した箕川永昌寺塔と同じタイプで、規模もよく似ている。ただ、隅飾の段形への擦り付け部分や基礎輪郭の彫り込み、段形の彫成のシャープさなど造形的にはこちらの方がより丁重である。無銘であるが造立時期については諸先学の見解はほぼ一致しており南北朝時代の前半、つまり14世紀前半から中葉頃と考えられている。なお、基礎側面の格狭間内を、開花蓮レリーフを中心に極端に膨らませるのは近江では鎌倉末期から南北朝頃の石塔の基礎にしばしば見られる手法である。なお、石柵の入口には同じくらいの大きさの基礎だけの宝篋印塔が転がっている。基礎上蓮弁で側面に格狭間内に開敷蓮花のレリーフがある。造立時期も概ね同じ頃と思われる。

 

写真右上:輪郭内が素面なのがおわかりでしょうか、ここに銘があってもいいんですが見当たりません。写真左中:わかり難いかもしれませんが格狭間内が開花蓮を中心に大きく盛り上ります。

 

参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』

   川勝政太郎「近江宝篋印塔補遺 附、装飾的系列補説」『史迹と美術』380号

   田岡香逸「近江蒲生郡の石造美術-柳宮神社と託仁寺の特殊宝篋印塔を中心に-」

       『民俗文化』第41号

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。

「特殊宝篋印塔」というのは田岡香逸氏が唱えられた呼び方ですが、池内順一郎氏のおっしゃるように「特殊」という概念の規定がどうもいまひとつで、単に笠下を請花にした宝篋印塔とか笠下が蓮弁の宝篋印塔でいいと思います。

さて、神社の入口に古墳の石棺材を利用したと思われる手水鉢があります。木村古墳群の中のどれかから出たものに相違ありません。そういえばここから程近い川合地内の街道沿いには石棺材に地蔵を刻出した石棺仏もあります。石造物にしても古墳にしても祖先のさまざまな思いや営みを顕著に伝えるモニュメンタルな遺産で、似たものはあっても同じものはふたつとない地域に根ざした文化資源です。その価値を明らかにして後世に大切に守り伝えていくのが今を生きる我々のつとめです。消滅したケンサイ塚古墳は古墳群中最大規模を誇りましたが、応急的な発掘調査をしただけであっさり破壊されてしまったそうです。もったいないことでした。規模のうえからは二番手三番手が立派に復元整備されたのは結構なことですが、一番大きかった古墳の破壊を許してしまった過去を思うと何とも皮肉なことに思えてなりません。


滋賀県 東近江市箕川町 永昌寺宝篋印塔

2011-09-11 12:10:41 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市箕川町 永昌寺宝篋印塔

旧永源寺町箕川は山間の寒村で、集落東寄に臨済宗永源寺末の永昌寺がある。01石段を上りささやかな境内に進むと本堂前の庭に宝篋印塔がある。02山景をバックにして宝篋印塔をメインに据えた苔むした庭の風情には趣がある。もっとも苔は石造物の観察には適さないが勝手に取り払うわけにもいかない。田岡香逸氏の報文によれば、寺は元々西北方、谷を隔てた山裾の寺屋敷と呼ばれる場所にあったのが後に現在の場所に移され宝篋印塔も一緒に移建されたとされる。さらにその後の道路拡幅でも1mばかり移動しているとのこと。花崗岩製で基礎から相輪まで完存する。高さ約142cm、基壇や台座は見られない。基礎は上二段で幅約44cm、高さ約35cm、側面高約26.5cm。各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配し、本堂側の東側面には二葉の散蓮レリーフが施される。北側面にも同様のレリーフがあるが、南側と西側の格狭間内は判然としない。川勝政太郎博士は一面は三茎蓮で残る三面が散蓮とされ、田岡香逸氏は散蓮があることは触れられているが他の側面のレリーフには言及されていない。03_2池内順一郎氏は二面が散蓮、二面が格狭間内素面とされている。基礎は風化も進んだうえ苔むしており、先学の見解も分かれているので詳しい観察が必要であるが果たせなかった。塔身は幅約22.5cm、高さ約21.5cmでやや幅が勝り、側面に薬研彫りされた金剛界四仏の種子は小さく力の抜けた表現になる。04笠は軒幅約45cm、高さ約30cm、軒厚約4.5cm。基礎幅より笠軒幅がわずかに大きいので別物の可能性も無くはないが、この程度は許容範囲として差し支えないだろう。笠下が段形にならず請花になる所謂「特殊宝篋印塔」で上は五段。隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面。基底部幅約14cm、高さ約14.cm、軒端からは約0.5cm入って立ち上がる。隅飾の笠上段形への擦り付け部分が大きく段形も傾斜ぎみで細かい部分の彫成はやや粗くシャープさに欠ける。笠下の請花は素面の単弁で、隅弁と中央主弁の間に大きい小花を配する。相輪は枘を除く高さ約54cm。九輪は沈線状で請花は上下とも単弁のようである。造立時期は南北朝時代、14世紀中葉~後半頃と考えられている。市指定文化財。笠下を請花とする宝篋印塔は、大和では13世紀代に遡る例があるが、近江では鎌倉末期と推定される愛荘町東円堂の真照寺塔(2010年9月9日記事参照)が今のところ最古と考えられ、唯一の在銘品が旧蒲生町外原の正養寺塔(康永四年(1345年))。近江では概ね14世紀中葉から後半がその盛期と考えられる。基礎上を反花にして塔身の上下を反花と請花で荘厳するものと本例のように基礎上を段形とするものがありこの点注意を要する。

 

参考:田岡香逸「近江東小椋の石造美術(1)」『民俗文化』第36号

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

   川勝政太郎『歴史と文化 近江』

 

文中法量値は田岡報文、池内報文に基づき0.5㎝単位に揃えたもので実地略測ではありません。

 

さて宝篋印塔を観察していると地元の方が声を掛けてきました。「何をしている?ちゃんと許可を取ったのか?」とのこと。これこれしかじかと来意を説明しても意に介せず、許可が要るんじゃないのか一点張り、聞く耳をもたない。こっちも「そこまでおっしゃるのなら致し方ないので退散します」。そんで側面の格狭間内を確認することも出来ないまま退散の憂き目に。したり顔をしてステテコ姿で歩き去るおっさんの後姿の憎憎しいことといったらありませんでした。…おっさんは自分ではいいことをしたと思っている…

確かに許可が必要かといわれれば必要かもしれない。普通はご住職に一声かけるのが常道です。でもここの場合一見する限り無住なのです。本山にでも問い合わせて兼務の住職なりの連絡先を調べてお願いをして、教育委員会にも連絡し、自治会長にも説明して了解をもらって…そんなことをしてたらそれだけで何日もかかるし、許可が得られるかどうかも不透明です。オフィシャルな本格調査ならいざしらず、一石造マニアの個人的な石塔見学にいちいちそのようなことを強要するのはナンセンスです。境内立入禁止の表示でもあればやむをえませんが、門は開かれており、境内に立ち入ることにいちいち許可が必要とは思わなかったわけです。ここも過去に2度程来ていますがこのようなことを言われたのは今回が初めてでした。

ところで「一見卒塔婆/永離三悪道」という偈頌をご存知でしょうか。塔婆を一目見ただけで三つの悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道ないし貪、瞋、癡)から永遠に離れることができるという意味です。この後「何況造立者/必生安楽国」と続くのですが、鎌倉時代の板碑等にも刻まれる有名な卒塔婆(いうまでもなく卒塔婆はストゥーパの音訳で仏塔の総称)の功徳を謳う偈頌です。であればつまり石塔を見ることも参拝の一形態と解されるわけです。実測図の計測をしたり拓本したりする場合は参拝の範疇を超えた調査なので許可が必要だと思います。しかし本堂に手を合わせ、境内の石塔を見学する限りにおいていちいち許可が必要だとは思いません。

一方、過疎の村の無住寺院等では仏像什器類の盗難は深刻な問題です。善意の来訪者・参拝者までも排除してしまうこうした住民の過剰とも思える反応は、皮肉にも防衛手段としては有効と考えざるをえません(かといってこれが正常な状態だとは思えませんが…)。確かに訪れる者もない山間の無住寺院の庭先でうろうろしている小生は傍目には不審者に映るのも無理からぬことだと思います。しかし不審者が即不法侵入者や泥棒ではない。来意をきちんと説明しているんですから、わかって欲しかったなぁ…。やり場のない不愉快な思いと無力感に苛まれ、握る帰路のハンドルは実に重かったです。

まぁ石造見学をしているとこういうことはよくあります。知り合いの石造の大先輩は調査中に警察まで呼ばれて大騒ぎになってたいへん困惑したという話をされていました。めげずに取り組んでいくしかありません。

むろん多くのお寺では「ようこそお参り」が基本姿勢ですし、地元の方も遠方からわざわざ石塔を見に来たというのでいろいろと貴重なお話を聞かせて頂くことも少なくありません。


滋賀県 東近江市蒲生岡本町 梵釈寺宝篋印塔

2011-08-16 00:24:43 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市蒲生岡本町 梵釈寺宝篋印塔

岡本の集落の東方、近江鉄道を越えた丘陵裾に閑静な佇まいをみせる黄檗宗天龍山梵釈寺。01本尊は観音菩薩座像(重文)。宝髻を高く結い上げた菩薩形だが通肩衣に定印を結ぶ姿は異形で、実は観音菩薩ではなく天台密教系の常行三昧の本尊とされる宝冠を頂く阿弥陀如来と考えられるようになった。08平安中期以前に遡る珍しい宝冠阿弥陀如来の最古の事例として貴重な仏像とのことである。さて、今のお寺は天和年間(1681~1684年)、日野町の正明寺の晦翁和尚により復興が企てられ、時の領主の援助を受けて現在の場所に建てられたらしく、享保年間に黄檗宗萬福寺末となったと伝えられる。岡本町に隣接する鋳物師町にある湧泉寺付近の地名や同寺にあった梵鐘の銘文に寺名が出てくるというからその付近が梵釈寺の旧地だったのかもしれない。また、古く桓武天皇が大津宮付近に創建し鎌倉末頃に廃滅したといわれる同名の古代寺院の法脈を継ぐともいうが詳細は不明。02雰囲気のある山門をくぐり向かって右手の水屋の脇に立派な宝篋印塔が建っている。早くから知られた著名な宝篋印塔で、古く昭和8年に重要美術品の指定を受けている。早く相輪が失われ小型の五輪塔の部材が代わりに載せられていたが近年相輪が発見され、最近再び笠石の上に戻った。塔身の一部や基礎の下端にわずかな欠損があるが完存する。05地面に延石を組み合わせた幅約115cm、高さ約12cmの基壇を設え、その上に基礎を据えている。基壇は平面片隅直角台形の板状の石材2枚を間隔をあけて平行に並べ、隙間を小さい延石で塞いでいる。この小さい延石は最近新補されたものである。基礎は壇上積式で葛、地覆部分の幅約74cm、束部分の幅は約2cm弱小さい。高さ約50cm、側面高は約37cm。各側面の羽目部分には幅約48.5cmの大きめの格狭間を入れ、格狭間内には東面に左に頭を向けた孔雀、南面には交差する散蓮二弁、北面と西面はそれぞれ意匠を変えた宝瓶三茎蓮のレリーフを飾る。基礎上は蓮弁で、隅弁を除く各辺三弁の覆輪付単弁の主弁の間に小花がのぞく。09_3抑揚を抑えてなだらかな傾斜を見せる蓮弁の意匠は優秀である。07塔身受座は高さ約2.5cm、幅約45cm、塔身は幅約38cm、高さ約40cmで高さが勝る。各側面とも月輪や蓮華座を伴わず直に種子を薬研彫する。種子の構成は金剛界四仏だが、東面に「タラーク」、北面「アク」、西面「ウーン」、南面に「キリーク」と方角がおかしい。本来はウーン(阿閦=東方)、アク(不空成就=北方)、キリーク(無量寿=西方)、タラーク(宝生=南方)なのでウーンとアクが入れ替わっている。06_2タラーク面の左右に「嘉暦三(1328年)戊辰九月五日/大願主沙弥道一藤原□□」の陰刻がある。種子は概ね端正だが、タッチに雄渾さが認められないのは近江の傾向である。笠は上5段下2段、軒幅約71cm、高さ約53cm、隅飾は基底部幅約21.5cm、高さ約22cm。軒端から約1cm弱入って立ち上がり先端両側の間の幅は約71cm。04二弧輪郭で輪郭内に平板陽刻した径約5cmの円相を有する。円相内には何やら小さい梵字が陰刻されているようにも見えるが従前から素面とされている。円相に蓮華座は伴わず素面であれば月輪とは呼ばない。10_2上の各段形が高いのに比べると下側の段形は薄い。相輪は付近の水路から偶然発見されたとのことで、石材、サイズともに違和感はなく、別個に保管されていたものが最近、笠上に載せられた。下請花は覆輪付単弁八葉、上請花は小花付単弁八葉、九輪の凹凸は線刻で、伏鉢、宝珠を含め曲面の整形は行き届き、かつ、くびれ部分に脆弱な感じはない。枘を除く高さは約81cmであるから、塔高は約225cmとなる。元は七尺半塔、基壇を含め八尺塔であろう。石材は基壇も含め緻密な花崗岩で、日野町蔵王産のコメ石と称されるものと同じ石材である。最近、相輪を載せ基壇を修理した際に解体されたが塔内及び基壇下には何もなかったとの由で他所から移建されたとの寺伝を裏付けている。規模の大きさに加え、基礎の各側面ごとに意匠を変えた近江式装飾文様の作風は優秀で保存状態も良好。何より鎌倉末期の紀年銘を有する点、こうした基礎上の蓮弁や近江式装飾文様を考えていくための基準資料として貴重な存在である。このほかにも境内には南北朝頃の寄集めの宝篋印塔等がある。

 

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(四)」『史迹と美術』361号

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   蒲生町史編纂委員会『蒲生町史』第3巻

  

写真左上から二番目:これが出現した相輪です。どうです立派なもんでしょう。鎌倉末の年代に不都合はありません。右上から二番目:隅飾の様子。蓮華座なしの円相。梵字があるようにも見えますが、拓本をとられたであろう先学は素面とされるのでやっぱりそうなのかなぁ。左上から3番目:基礎の意匠、スッキリした単弁反花、壇上積式の側面、凝った交差散蓮に洗練された印象を受けます。右上から3番目:刻銘のあるタラーク面。写真ではわかりにくいですが嘉暦三は肉眼でも確認できます。左下:復興の旨を記した石版が案内表示板の下にあります。

 

文中法量値は例によってコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご寛恕ください。

これまた今更小生が紹介するまでもない著名な宝篋印塔ですね。最近相輪が揃い面目を一新したことは喜ばしい限りです。相輪はいつの頃か失われ、お寺が出来た江戸時代前半によそから移建されたものと仮定すれば、300年以上を経て元に戻ったことになります。もちろん寄集めの疑いを100%払拭することはできませんが、この問題はあらゆる石塔類につきもので言い出すときりがありませんよね。サイズや石材、形状を考慮しても高い確度で一具のものと考えてよいのではないかと思います。それより基壇と相輪復興の事実関係をわざわざ石版に刻んであるのは遠い遠い未来を見据えた深い配慮だと感心しました。重要美術品の現状変更の是非や寄集めかどうかよりも、事実を事実として後世に伝えようとする姿勢が何より尊いことだと小生は思います。

文中にある鋳物師町の湧泉寺(臨済宗妙心寺派)は山号を梵釈山と号し、境内に重文指定の永仁3年(1295年)銘の九重の層塔が残っています。この層塔の刻銘に"興隆寺"なる寺名があり、梵釈寺と湧泉寺、そして興隆寺の関係が輻輳してわかりにくい。現在の湧泉寺の場所には少なくとも鎌倉時代後期頃に興隆寺というお寺があったのが室町時代に廃絶、その跡地に梵釈寺が復興されたが、それも戦国時代末頃までに退転し、その故地に今の湧泉寺が出来、梵釈寺は江戸時代になってから今の場所に再興されたという考えも示されているようですが、どうなんでしょう…?。やっぱりよくわかりませんね。ただ、石造物がこうした謎を紐解く資料のひとつになりうることだけは確かでしょう。

なお、梵釈寺のご住職には丁寧な説明をお聞かせいただき、お茶までご馳走になり恐縮至極でした。突然の来訪にかかわらずたいへん親切にしていただきこの場を借りて御礼申し上げます。


滋賀県 蒲生郡日野町原 原共同墓地宝篋印塔

2011-05-05 23:15:24 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡日野町原 原共同墓地宝篋印塔

日野町の北東の山手に原地区があり、集落の南側の丘陵裾に地区の共同墓地がある。墓地の奥、少し高くなった場所に、名号碑が立ち、棺台のある吹さらしのスレート葺きの覆屋が見える。01この覆屋の東側に小型の宝篋印塔2基と三界万霊塔が並んでいる。06これらの石塔は元々、集落内の満徳寺(万徳寺)の故地にあったもので、寺が廃寺となり地区の会所となって貯水槽を設けるに際して現在の場所に移されたものとされている。三界万霊塔は自然石を利用した近世のものだが、宝篋印塔2基はともに中世に遡るものである。中央にあるのが今回紹介する宝篋印塔である。花崗岩製。相輪を失って五輪塔の空風輪と思しきものが代わりに載せてある。基礎下には幅約49cm、高さ約14cmの台座がある。反花座にあるはずの蓮弁が見られないので、いちおう繰形座である。塔本体と風化の程度や石材の質感がやや異なるように見え、四角型の石灯籠か何かの残欠を転用している可能性もあることから、この台座が本来の一具のものと断定するにはやや疑問が残る。02基礎下から笠上までの残存塔高は約66cm、元は1mに満たない三尺塔と思われる。基礎は上二段、側面左右の束部分を地覆と葛石と区別する壇上積式で、各側面とも羽目部分に格狭間を入れ、東側面を除く三面は格狭間内に三茎蓮のレリーフがある。東側面のみは開敷蓮花のレリーフとなっている。基礎は葛、地覆部で幅約30.5cm、束部の幅約29.5cm、高さ約25.5cm、側面高約20cm。束部分の幅は約5cm、地覆部、葛石部分の幅はともに約3.5cm、段形上段の幅は約20cm。05三茎蓮は基部に宝瓶が表現される。三茎蓮の茎は、直立する中央茎を左右の茎部が交差し、左側はぐるりと一回転して花弁部分は上を向き、右側は外反する弧を描いている。こうした三茎蓮は「熨斗結び」式とも称される一風変わったスタイルのもので、南北朝以降に出現するとされている。西側の左花弁部分は二重円で表され、南側は中央茎の左右に簡略化された散蓮と思われる文様を描いている。凝った意匠だが写実性には乏しく、図案化が進んだ表現と考えてよい。開花蓮もかなりデフォルメされている。格狭間はあまり整ったものとは言えず、花頭部分の外側の弧が大きく、側線は膨らみ過ぎで、脚部は短く脚間はかなり狭い。塔身は幅、高さとも約16cm、各面とも種子を浅く陰刻するが文字が小さく風化摩滅も手伝って判然としない。田岡香逸氏は金剛界四仏としているが疑義もある。西面は「キリーク」で間違いないが、肉眼で見るかぎり北面は「サク」、南面「ア」、東面「ウーン」に見える。池内順一郎氏は、北面を「アク」、南面「ア」、東面「バイ」と推定されている。光線の加減もあり何ともいえないが採拓してしっかり確認すればはっきりするかもしれない。03月輪や蓮華座は伴わず筆致も拙い。端正で雄渾な種子を大きく刻む大和などと異なり、近江では塔身の種子が小さく拙いものが多い傾向があるが、その近江にあってもかなり貧弱な種子である。西面、北面の種子左右に造立銘が陰刻されている。肉眼での判読はかなり厳しくなっているが、西面に「道円(因?)禅師/法心禅尼」、北面に「明徳元年/八月廿五日」とあるらしい。明徳元年は南北朝時代最末期、1390年に当る。笠は軒幅約27.5cm、高さ約25cm、軒の厚みは約3cm。上五段、下二段で各段形は上に比べ下が低い。隅飾は惜しくも1つが欠損しているが、残る3つは割合残りがよい。軒から少し入って直線的にやや外反しながら立ち上がり、基底部幅約9cm、高さ約12cm。04三弧輪郭で、輪郭内には蓮華座上に円相月輪を平板陽刻し、内に種子を小さく陰刻している。月輪内の種子はごく小さいので肉眼で確認するのは難しいが、格面とも違う種子で、田岡香逸氏によれば、「バ」「シャ」「ビ」「オン」「ア」「ウーン」というから、なかなか細かいところまでこだわりが感じられる。また、通常六段の笠上を五段とするのは近江ではさほど珍しくない。寄集めの疑いもあるが、風化の度合い、石材の質感、大きさのバランスなどから推して一具のものと考えて不都合はない。三尺塔と宝篋印塔としては小品ながら、壇上積式の基礎、近江式装飾文様、三弧輪郭の隅飾、隅飾内の荘厳など近江系宝篋印塔の各アイテムを備え注目される。近江系宝篋印塔の主要なアイテムを揃えたものとしては最も新しい在銘品で、近江系宝篋印塔の基準資料として貴重である。

道円(因?)、法心というのは、おそらく在俗出家の夫婦で、造立主の両親もしくは自身夫妻と思われ、その供養のために造立されたものと考えられる。キリーク面に法名を刻んだのも阿弥陀浄土への往生を意識したものだろうか。

北側の宝篋印塔はほぼ同大で、相輪と隅飾を全て失い、基礎も破損が目立つ。塔身は後補。基礎上が蓮弁式で、格狭間内は三面が開花蓮、一面が三茎蓮で、開花蓮の張り出しが大きい。一見すると似た感じだが、よく見ると意匠表現はずいぶん異なる。時期もだいたい同じ頃のものと思われるがこちらの方がやや古いと見たい。

 

参考:田岡香逸『近江の石造美術(3)』

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

 

日野町は石造美術の宝庫である近江にあっても特にコアな場所で、いたるところに見るべき石造物が残され見飽きません。ここからすぐ近く、杉の大屋神社や川原の妙楽寺跡には完存する宝篋印塔があります。いずれも無銘ですが14世紀前半頃のものと考えられています。

妙楽寺跡にあった応安二年(1369年)銘の石灯籠は、早く国の重要美術品に指定されていましたが、去る昭和50年、基礎を残して盗難に遭い現在行方不明とのこと。どこかの資産家の庭にでもおさまっているのでしょうか…。まさに許せぬ暴挙、憤りを禁じえません。身近にあって等閑視されがちな石造物ですが、祖先の思いや祈りを伝えるかけがえのない遺宝、同じものはふたつとない貴重な歴史的資料です。その地域にあって子孫に守り伝えていくべき地域の財産であり、好事家の所有欲を満たすために盗まれ取引されるなんてことはあってはならないことです!こうしたことを根絶するには、盗人には当然厳罰(&仏罰&天罰)ですが、ブローカーや所蔵者も盗品との認識の有無にかかわらず、強制的に没収できるようなルールが必要ではないでしょうかね?所有者が転々するうちにロンダリングされてしまうというのであれば、例え善意であっても売買に関与した者は処罰の対象としてもいいかもしれません。逆にそれで地下に潜るというのであれば、おとり捜査とかしてじゃんじゃん検挙すればいいんじゃないでしょうか!

いやはや、ちょっと興奮しちゃいまして申し訳ありません。とにかく早く見つかって無事に元に戻されるのを祈ってやみません、ハイ。


滋賀県 東近江市勝堂町 瑞正寺宝篋印塔

2010-10-25 00:33:45 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市勝堂町 瑞正寺宝篋印塔

浄土宗紫雲山瑞正寺は勝堂集落内の少し南寄りに位置する。至徳年間の創建、元和元年の中興と伝える。新しい本堂北側の境内墓地中央に立派な宝篋印塔が立っている。01花崗岩製。下端が若干埋まり、相輪の先端を欠いた現状地表高は約145cm。元は160~170cm程と推定され五尺半塔であろう。基礎の下端は埋まって確認できないが基壇や台座は見られず直接地面に据えられているようである。01_2基礎上は二段。幅約59.5cm、高さ約35.5cm、側面高は約29cmで背が低く安定感がある。側面は各面とも輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。そのうち東面、西面の二面はよく似た意匠の三茎蓮のレリーフで飾り、北面の格狭間内は素面である。注目すべきは南面で左右に葉茎を伴わず一茎上に開く蓮華を表現している。一茎蓮文様は近江式装飾の中でも珍しく、長浜市の大吉寺跡宝塔(建長三年銘)の基礎にあるものを最古とし、石造物の宝庫である近江でもわずか10数例が知られるに過ぎない。格狭間はよく整った形状を示し側線がスムーズで中央花頭部が広く肩があまり下がらない。輪郭は束の幅が約9.5cm、葛部の幅が約4.5cm、地覆部は下端が埋もれて分かりにくいが約5cmで束の幅が広い。03また、輪郭、格狭間とも彫りが浅い。基礎は高さ約27cm、幅約26.5cmで各側面には金剛界四仏の種子を直に薬研彫し、月輪や蓮華座は伴わない。字体は端正であるがタッチが弱く雄渾とは言い難い。現状北面する「ウーン」面から東面する「タラーク」面の下端が少し欠損している。02笠は上六段下二段で軒幅約52.5cm、高さ約39.5cmで軒厚は約6cm。三弧輪郭付の隅飾は基底部幅約17.5cm、高さ約22.5cmと大きく軒からわずかに入ってほぼ垂直に立ち上がる。隅飾輪郭内はいずれも蓮華座上に平板陽刻した径約9cmの円相月輪内に諸尊通有の種子「ア」を陰刻している。相輪は伏鉢上と九輪の二輪上の2箇所で折れ、モルタルで補修されている。九輪の七輪目の一部を残してその先を亡失し、残存高は約41.5cm。九輪の凹凸はしっかり刻んでおり伏鉢、下請花の側線の描く線は概ねスムーズで接合部のくびれに脆弱な感じはない。また、下請花は単弁八葉で丁寧に曲面を刻出し、ふっくらとした花弁に仕上げている。風化のせいかもしれないが小花は見られない。塔身は一見すると風化の程度、石材の色調や質感が外の部分と少し異なるように感じられる。しかし、笠石の下端面などをよく観察すると塔身と同じく斑岩質の少し粉っぽいような様子が見て取れ、石の質は似ている。サイズ的にもまず釣り合っていることから一具のものと考えてよさそうである。06無銘で造立時期は不詳であるが、三弧輪郭式の隅飾と隅飾内の蓮華座月輪種子、輪郭格狭間と近江式装飾文様などいきとどいた荘厳に加え、垂直に立ち上がる大きい隅飾、側面からの入りが深く背の低くく安定感のある基礎、各段形の的確な処理の仕方、どっしりと力強い全体のフォルム取りなど随所に鎌倉時代後期の特長が強く出ている。さらに塔身種子の弱さは近江では広く見られる地域的な傾向なのでこれを除くと格狭間の形状、彫りの浅い輪郭格狭間、ほぼシンメトリな三茎蓮など細部表現も時代を降らせて考える材料はないと思われる。造立年代は恐らく鎌倉時代後期でもその前半、13世紀末から14世紀初頭頃の造立として大過ないものと思われる。基礎の一茎蓮は希少で、他の検出例の多くは残欠である点に鑑み、本塔は表面の風化がやや進んではいるものの相輪先端を除けば大きな欠損がなく基礎から相輪まで各部が揃っている点で貴重な存在である。一茎蓮には未開敷蓮華つまり蕾のものと花が開いたものがあるが、本例は恐らく一茎の開敷蓮花としては最も古い事例と考えられる。なお、附近は古墳の多い場所で同墓地には近くの古墳から出たと伝えられる石造物が残されている。凝灰岩製と思われる板状の部材で石棺の一部と考えられている。このほか、墓地には室町時代のものと思われる小型の宝篋印塔の笠や小石仏、一石五輪塔など中世に遡る石造物が散見される。

参考:滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

写真左中:基礎の一茎蓮です。にょきと真っすぐ立ち上がる茎の先に蓮華が見えますでしょうか。写真右下:三弧輪郭の隅飾です。輪郭内の蓮華座月輪と「ア」です。写真左下:石棺の部材です。計測しませんでしたが目測1m四方くらいの大きさで溝が彫ってありました。

文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。本塔はあまり知られていないようですがなかなか優れた宝篋印塔です。流石に田岡香逸氏は早く本塔の一茎蓮に注目されており永仁頃の造立と推定しておれらました。それから北方約200mにある共同墓地に14世紀中葉から後半頃の造立と考えられる立派な五輪塔がありますので併せてご覧いただくことをお薦めします。


滋賀県 愛知郡愛荘町東円堂 真照寺宝篋印塔

2010-09-09 23:41:40 | 宝篋印塔

滋賀県 愛知郡愛荘町東円堂 真照寺宝篋印塔

東円堂という、何やらいわくありげな風変わりな地名、集落内に入ると辻に東円堂城跡と記された石碑が立っている。01_2この附近に中世城郭があったのだろうか、現在はそれらしい遺構は認められない。02_2集落の南寄りにある浄土宗法性山真照寺は元亀年間の中興とされる。決して広くない境内で一際存在感を示す宝篋印塔が南面する本堂前西側に立つ。元亀年間よりもはるかに古い遺品である。台座や基壇は伴わず無造作に延石を埋めた地面に置かれている。花崗岩製で相輪を亡失し、代わりに小型の宝篋印塔の笠と五輪塔の火輪以上を重ねて載せてある。笠上までの現存塔高約102cm。基礎は幅約53cm、高さ約40cm。壇上積式で各側面とも羽目には格狭間を入れ、格狭間内には三面に開敷蓮花、一面だけを宝瓶三茎蓮のレリーフで飾っている。基礎上は反花で素弁の隅弁の間は一辺あたり3葉の覆輪付単弁とし弁間には小花がわずかにのぞく。各花弁には微妙な膨らみと緩やかな勾配を持たせており、その表現は優美で平板に退化したものとは自ずと異なる。04_3上端には低い塔身受座を方形に作り出している。格狭間は若干肩が下がり気味ながら全体として整美な形状を示し、花頭中央の曲線は水平に延びて短い両脚部の間は広めにとっている。開敷蓮花のレリーフは平板陽刻風のよく整った形状で分厚くして側面のツラから突出するタイプではない。三茎蓮の彫成もシャープで美しい出来映えを示す。右の葉が上向きで左の葉はやや下を向きシンメトリではない。06_2塔身は高さ約26.5cm、幅約27cm余でわずかに幅が勝る。各側面には金剛界四仏の種子を刻んでいる。彫りは浅く月輪や蓮華座は伴わない。文字は小さくタッチも弱い。笠は軒幅約47cm、高さ約35.5cm。上は六段だが軒下を段形にせず蓮弁請花とする。隅弁の間に3葉の素弁の主弁を置き、弁間に小花をのぞかせる点は基礎上の反花と対応する。蓮弁は表面を平らに仕上げて弁先が軒口に及んでツライチになる。03_2軒口は薄めにして請花の側面を全体に少し膨らみを持たせているのですっきりして優美な印象を受ける。隅飾は二弧輪郭付で軒から5mmほど入って少し外傾しながら立ち上がる。輪郭内は素面。相輪の亡失は惜しまれるが全体に表面の風化が少なく、細部の意匠、彫成とも優れた典雅な宝篋印塔である。05_2装飾的な基礎や笠に比べ塔身の意匠表現がやや貧相に感じるが、同様の手法は近江ではよく見かける。笠、基礎、塔身は大きさのバランスや石材の質感に違和感はなく一具とみてよいだろう。無銘であるが造立時期について川勝博士、田岡香逸氏ともに鎌倉時代末頃と推定されている。元は五尺塔と思われ規模はそれほど大きくなく装飾的で優美な意匠表現から受ける印象は豪健というよりは瀟洒といった方がいいかもしれない。なお、宝篋印塔の笠下は通常段形にするがこれを蓮弁にする例は全国でも20~30例程しかないと思われ希少である。大和では弘長3年(1263年)銘の高取町上小嶋観音院塔や永仁頃と推定される生駒市円福寺南塔などかなり古くから見られるが近江では13世紀代に遡る例は確認されていない。本塔は笠下を蓮弁にする宝篋印塔としては近江で最も古く手法的にも優れた作品とされている。

 

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔補遺附、装飾的系列補説」『史迹と美術』380号

     〃  新装版『日本石造美術辞典』

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書

 

田岡香逸氏は笠下を蓮弁にする宝篋印塔を「特殊宝篋印塔」と呼んでおられますが、池内順一郎氏が指摘されるように、これだけをもって「特殊」とするのはおかしいと思います。笠の軒下を蓮弁とする宝篋印塔とか笠下請花の宝篋印塔というように素直に呼んだ方が適当と思われます。奈良のほかに兵庫や京都などにも例があるらしいですが半数以上は滋賀に集中しているようです(『蒲生町史』393ページには全国22例中15例が滋賀と述べられています。ちなみに奈良は観音院、円福寺、正暦寺でしょうか、3例となってますが都祁来迎寺など奈良にはもっとありますよね…)。その意味では近江の地域色といえるかもしれませんが、近江のものは南北朝以降の小作品がほとんどで小生はむしろ残っている宝篋印塔の絶対数が違う、つまり近江は分母が大きいということも考えないといけないかなと思っています。石灯籠の中台などでは古くからよくある手法なので応用したのかもしれませんしね。

なお、東円堂という地名は南都興福寺にかつて存在した東円堂領の荘園「大国荘」がこの附近にあったことに由来しているという話もあるようです。(拠『近江愛知川町の歴史』第1巻古代・中世編)


滋賀県 東近江市妙法寺町 妙法寺薬師堂宝篋印塔

2010-09-04 23:44:58 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市妙法寺町 妙法寺薬師堂宝篋印塔

名神高速道路八日市インターチェンジの北約250mにところに妙法寺町の会所がある。すぐ南には光林寺の山門があり会所の西側の広場には袴腰付の鐘楼か太鼓楼のような面白い建物がある。01_2元は薬師如来の古仏を祀る薬師堂が会所に利用されたようで、会所の南側、辻に面して道路より一段高く周囲を石積みにした一画があり、その上に小祀や石仏などとともにこの立派な宝篋印塔が祀られている。02昭和40年、光林寺の宝篋印塔の調査に来た川勝政太郎博士らにより偶然見出され、『史迹と美術』誌に発表されて以来広く知られるようになったものである。花崗岩製で塔高約204cm、全体に表面を粗叩き風に仕上げている。基礎は上二段で各側面ともに輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。輪郭の彫りがかなり浅い。また、左右の束部分の幅が広く、格狭間左右端と輪郭の内際との間もやや広めにしているので、横幅のある基礎側面の割りに格狭間は少し寸詰まったような観がある。肩はあまり下がらず脚間が狭い。基礎幅約67.5cm、高さは約49cm、側面高約39cm、基礎下端が不整形で測る場所により数値が違う。基礎下端の状況から基壇や台座を伴わず直接地面に埋め込んでいたと推定される。塔身は幅約32.5cm、高さ約35cmと高さが勝る。西側面のみに高さ約26cm、幅約16.5cmの舟形光背形に彫り沈めた中に像高約23cmの定印の阿弥陀仏座像を半肉彫りしている。03蓮華座があるとの記述もあるが肉眼では確認できない。像容はやや頭が大きく表現は少々稚拙ながら親しみの持てる優しい表情が見て取れる。残りの3面は素面で各3行の刻銘に当てている。像容面の向かって右に「永仁参年乙未」、左に「二月十九日」、北面に「右志者為過/去幽霊成/佛得道石」、東面に「塔一基造/立之仍當國/吉田四良次郎西円」、南面に「安主野神/雑賀三ヶ所/寄進也」と川勝政太郎博士により判読されている。04_2文字は大きいが特異な字体で判読に苦心したと川勝博士も述べておられる。肉眼でも紀年銘などところどころ読める。永仁三年(1295年)2月19日、西円という法名を名乗る吉田四良次郎なる人物が願主となり近親と思われる物故者の供養のためにこの塔を造立し、安主、野神、雑賀の三ヶ所の田地を寄進したとの趣旨である。笠は上六段下二段、軒幅約61cm、高さ約52cm。隅飾は一弧素面、軒と区別しない延べづくりで真っすぐ立ち上がり基底部幅約18.5cm、軒下からの高さ約33.5cmを測る長大なもので古風な様相を示す。相輪は高さ約66.5cm。九輪の5輪目の上で折れている。05昭和40年頃には上半のみが残り下半は行方不明であったらしくその後下半部分も発見されてうまく接いである。上下とも請花の花弁が確認できない。浅い単弁の蓮弁が彫ってあったものが風化摩滅した可能性も残るが、川勝博士は古い手法と解されている。九輪の逓減は顕著でなく太い沈線で各輪を区切る。この九輪の手法は日野町北畑八幡神社塔や近くの光林寺塔と共通する。ただし、これらの相輪に比べると全体的にやや粗製の感は拭えない。塔身の阿弥陀如来や願文の内容を踏まえれば、川勝博士が指摘されるように宝篋印塔という密教系のスタイルを採用していても、造塔の趣意は浄土系信仰に基づくものと考えられる。なお、寄進された造塔供養料田の3ケ所の地名を比定できるには到っていないようであるが、造立供養料田寄進の刻銘は竜王町弓削阿弥陀寺宝篋印塔にも見られこうした石塔造立の背景を考えるうえでたいへん興味深い。吉田四良次郎西円については在俗出家した富裕層、在地有力者であろう。川勝博士は愛知川を隔てた現在の犬上郡豊郷町付近、かつての愛知郡吉田庄に拠を置いた佐々木氏の支流とされる吉田氏ではないかと推測されている。また、妙法寺町という地名から何らかの寺院の存在が想起されるが残念ながら詳しいことはわかっていない。この薬師堂が地名の由来になったと思われる古い寺院の後身ではないかとも推定されており、隣接する光林寺にも前身を妙法蓮花寺といったという伝承が残る。ともに平安後期の古仏を本尊とし、鎌倉時代後期の宝篋印塔が残ることを考慮すれば、立派な宝篋印塔を造立し供養料田を寄進する藤井行剛や吉田四良次郎のような在地有力者の崇敬を集めるだけの寺勢を誇った古寺がこの付近にあったと考えることができるだろう。それが「妙法寺」の地名の由来になったと考えても不都合はないだろう。身近にあって物言わぬ石造物は、幾百年もの間、地域の移り変わりを見てきた生証人として時に失われた中世の歴史を紐解くヒントを与えてくれるのである。

 

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(一)」『史迹と美術』356号

     〃  新装版『日本石造美術辞典』

   八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』第2巻中世

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25

 

これも川勝博士が注目されて以来たいへん著名な宝篋印塔で、今更小生がとやかくいうようなものでもありませんが、光林寺塔を紹介してこちらをご紹介しないわけにはいかないと思い駄文を弄する次第です。例によって文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はお許しください。さて、どちらも原位置を保っているという確証はありませんが光林寺の宝篋印塔とは直線距離にして50m余しか離れていません。造立の時間差はわずか11年です。距離も造立時期も近い両塔ですがその作風はずいぶん異なるように思います。本塔の一弧素面の長大な隅飾や基礎の作り方は古いスタイルを踏襲しているようで細部を見てもあまり装飾的でなく、むしろ少し野暮ったい感じがあります。一方の光林寺塔はシャープで装飾的、たいへん洗練された趣きを示してします。同一の石工の手になるとはちょっと考えにくいのですがどうでしょうか。この作風の違いを地域の違いや時期の違いで説明するのはちょっとムリなので、この付近では13世紀末から14世紀初頭のこの時期に異なる系統の石工(厳密にはその“作風”)が共存しあるいは競合していたと考えるほかないと思われますがいかがでしょうかね。それから旧愛知郡の吉田氏ですが、佐々木秀義の息子で宇治川の先陣争いで著名な佐々木四郎高綱の弟に当る吉田冠者六郎厳秀を祖とするとされ、降って室町時代には弓術師範として佐々木本家の六角氏に仕え、その頃の本拠は現在の竜王町付近だったらしいです。なんでもその吉田家の弓術は日置吉田流と呼ばれ近世弓術の主流だったんだとか、戦国末から江戸初期の京都の豪商、角倉了以もその末裔だと伝えられているそうです。吉田某という刻銘だけでそこまで考えるのは所詮憶測の域を出るものでなく牽強付会ですがいろいろ興味は尽きませんね。流石に川勝博士は可能性を指摘しておられるだけで吉田冠者がどうだとか日置吉田流や角倉了以が何だとかそんなことまで述べておられるわけではありません。事実と想像の境を見失わないことは大切ですが、あれこれと”空想”を膨らませるのも石造の楽しみです、ハイ。


滋賀県 東近江市妙法寺町 光林寺宝篋印塔

2010-08-29 01:45:57 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市妙法寺町 光林寺宝篋印塔

名神高速道路八日市インターチェンジを降り、北北西、直線距離にしておよそ250mのところに天台真盛宗来迎山光林寺がある。01_2山門をくぐると本堂南側に墓地がある。02墓地中央の区画された場所に、小型の五輪塔の部材を積み上げた寄集め塔やいつくもの一石五輪塔に四方を囲まれるようにして一際立派な宝篋印塔が立っており、墓地全体の惣供養塔のような様相を呈している。切石を方形に組んだ基壇の上に立つが石材の質感が異なりサイズもやや小さく釣り合わないので当初からの基壇とは考えにくい。花崗岩製で塔高約221cmを測る。七尺半塔であろう。基礎は上二段の壇上積式で幅は地覆部で約71.5cm、葛部約71cm、束部で約70cm。基礎高は約51.5cm、側面高約39.5cm。各側面とも上端花頭が真っすぐで肩の下がらない整美な格狭間を羽目部分いっぱいに配し、格狭間内は現状で正面の北面に三茎蓮、残る三面は開敷蓮花のレリーフで飾っている。北面の束部分、向かって右に「願主藤井行剛」、左に「嘉元二二年三月廿四日」の陰刻銘があり、肉眼でもほぼ判読できる。嘉元二二年は嘉元四年(1306年)のことで、こうした金石文には四年を二二年と表記することがしばしばある。03三月廿四日は小さい文字で二行に分けている。塔身は幅約36cm強、高さ約37cm強でやや高さが勝り、金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子は雄渾かつ端正で月輪や蓮華座は伴わずに直に刻まれている。現状で正面に当る北側(正確には北北東)が本来東面するはずの「ウーン(阿閦如来)」になっている。04笠は上六段下二段の通有のタイプで軒幅約62cm、高さ約47.5cm。三弧輪郭の隅飾は軒から約0.5cm程入ってから直線的に少し外傾するが、軒幅と左右隅飾先端間の幅はほぼ同じである。隅飾は基底部幅約20.5cm、高さは約24.5㎝。隅飾輪郭内には平板陽刻した蓮華座付きの月輪を配し、各面とも諸尊通有の種子「ア」を陰刻する。相輪も完存し高さ約84cm。請花は上下とも八葉の単弁で下請花は小花が見られず覆輪を少し盛り上げて作り、上請花は弁央に稜を作る小花付きである。九輪部は適度な逓減を示し太い沈線で各輪を区画する。先端宝珠の尖りもよく残る。接合部のくびれに脆弱なところは見られずよく整った相輪である。作風優秀で全体に表面の風化も少なく各段形や細部の彫成が非常にシャープな印象を受ける。基礎から相輪まで完存し、壇上積式の基礎、基礎側面の格狭間内のレリーフ、三弧輪郭の隅飾、隅飾内の蓮華座付月輪内の種子といった近江系宝篋印塔の特長をフルスペックで備える在銘基準資料として貴重な作品である。

 

参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展(二)」『史迹と美術』357号

     〃   新装版『日本石造美術辞典』

   八日市市史編纂委員会編『八日市市史』第2巻中世

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

写真左上:北側正面、写真右上:南側、塔身のキリークが鮮やかですが基礎が見えないですね。周囲の狭い範囲に香炉や背の高い花立て、寄集め塔などがあって基礎が見づらいのが難点。なかなかいい写真も撮れない環境にあります。写真左下:折れもなく宝珠先端の尖りまでよく残る立派な相輪、写真右下:三弧輪郭の隅飾です。輪郭内に蓮華座付小月輪に彫られた「ア」があります。隅飾突起の先端がピンととんがってシャープな感じがおわかりいただけると思います。非常に残りのよい惚れ惚れする隅飾です。

 

これも川勝博士の紹介以来著名な宝篋印塔ですね。文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はお許しください。先の記事で鎌倉時代後期でも前半に属するフルスペックの近江系宝篋印塔の在銘品は以外に少ないと申し上げましたが、本塔も弓削阿弥陀寺塔や上田町篠田神社塔と並ぶ数少ない在銘事例です。しかも基礎から相輪まで完存という点で稀有な存在です。本塔の造立された14世紀初め頃は近江においても宝篋印塔など石塔の構造形式、意匠表現が完成しまさに最盛期を迎えた時期に当ると考えられており、油の乗りきった時期の典型的な近江系宝篋印塔の基準資料として是非とも一見の価値があると思います。市指定文化財ですが、はっきり言って国の重文指定があっても不思議でない優品です。なお、お寺の門前すぐ北側にはこちらも著名な妙法寺薬師堂宝篋印塔がありますので忘れずご覧いただくことをお薦めします、ハイ。


滋賀県 東近江市山上町 霊感寺宝篋印塔

2010-08-27 00:43:09 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市山上町 霊感寺宝篋印塔

山上町は町役場(現在は東近江市役所の支所)のある旧永源寺町の中心地区で、東近江市役所の永源寺支所の北北西、直線距離にして約500mのところにある霊感寺は臨済宗永源寺派。江戸時代前期の寛文年間、永源寺第81世如雪文巌禅師の中興という。01それ以前は天台宗で中居寺と称したという。02現在の堂宇はごく新しいものだが、境内西側に墓地があり、その中央に宝篋印塔が立っている。延石を方形に組み合わせた基壇の上に立ち、基礎から相輪まで完存している。全て花崗岩製。延石の基壇は一辺約87cm、大小3枚の石材からなる。当初からのものか否かは不詳だが、風化の様子や石材の質感に違和感はない。塔高は約167cm、五尺五寸塔か。基礎は壇上積式で葛と地覆の幅約54cm、束部分で幅約52.5cm。高さ約41cm、側面高約30.5cm。側面は北側を除く3面に格狭間を入れ、格狭間内いっぱいに孔雀文のレリーフを配している。孔雀文は長い首と脚、尾羽があり、背面と脚の前後に開いた羽を表現し、日野町比都佐神社塔の孔雀文と共通する意匠で全体にやや稚拙ながら伸び伸びとして闊達な印象を受ける。対向孔雀文の比都佐神社塔と異なり各面とも1羽づつで南面は頭を向かって左に、東西の2面は右に向けている。基礎北面だけは格狭間はなく羽目に陰刻銘があるのが確認できる。銘文は5~6行程あるように見えるが肉眼での判読は厳しい。浅学の管見では今のところこの刻銘の判読文を全文載せた文献を知らないが、瀬川欣一氏によれば乾元二年(1303年)の紀年銘があるという。03基礎上は反花式で一辺当り両側隅弁とその間に3枚の主弁を置き各弁間には小花がのぞいている。塔身は幅約27cm、高さ約28cm弱でやや高さが勝る。側面には金剛界四仏の種子を直接薬研彫している。種子は端正なタッチで近江では雄渾な部類に入る。笠は上5段下2段。軒幅は約51.5cm、高さ約37.5cm。04軒から少し入ってから直線的に外形する隅飾は基底部幅、高さともに17.5cm。二弧輪郭式で下の弧に比べ上の弧が大きい。輪郭内は素面。笠上の各段の高さに比べると笠下がやや薄い。相輪高は約60cm、上下とも請花は単弁八葉、九輪部は太めの沈線で区切り、宝珠はやや縦長な印象がある。近江における孔雀文を持つ宝篋印塔では在銘最古例となる。各部のバランスも良く保存状態も良好で、全体によくまとまって典雅な宝篋印塔である。孔雀文は近江式装飾文様の一つだが蓮華文に比べればその数は甚だ少なく、近江でも残欠も含め20~30例程しかない珍しいもので、そのうえ基礎から相輪まで完存し、鎌倉時代後期の紀年銘を有するとなれば石造美術の宝庫である近江にあっても稀有な例で、もっと注目されて然るべき宝篋印塔である。

参考:瀬川欣一『近江 石の文化財』

      滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

写真下左:壇上積式基礎&格狭間内の孔雀文です。下右:刻銘のある面です。格狭間がなく、何やら刻銘があるのがお分かりいただけると思いますが、ちょっと判読は困難です。画像が小さめですのでわかりにくいかもしれませんが、画像にカーソルを合わせてクリックしていただけると写真が少し大きく表示されます。

例により文中法量値はコンベクスによる実地略測によりますので多少の誤差はご容赦ください。なお、基礎から相輪まで各部完存、孔雀文で乾元二年銘となれば市指定はおろか国の重文指定でも不思議でない逸品ですが、無指定との由、事実ならば信じ難いことです。たしかにこの辺りは鎌倉時代の石造美術がごろごろしてる地域ですが、その中にあっても本塔は一際価値の高いものと断言できます。灯台下暗しといいましょうか、こうした石造物たちがどれほど貴重な地域の文化遺産であるか、地域の皆さんにもっと認識して欲しいと思います。そしてその価値を発信していただくとともにしっかり後世に守り伝えていただきたいと痛感します。近江人ではない小生ごときが申し上げることではないかもしれませんが、それが亡き近江の石造研究の先達であった瀬川先生や池内先生の御遺志だと信じます、ハイ。

 

 

追伸:無指定というのは誤りでした。どうもすいません。どうやら昭和48年3月に当時の永源寺町の文化財に指定されていたようで合併で引き継いだ東近江市でも平成4年3月に指定されている模様です。