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石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 蒲生郡日野町北畑 八幡神社宝篋印塔

2010-08-24 20:56:46 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡日野町北畑 八幡神社宝篋印塔

北畑は日野町の東端に近い地域で、集落北側の丘陵端に八幡神社が鎮座している。拝殿の背後から急な石段を上ると正面に南面する社殿があり、そのすぐ西側、石積みの崖下の隅っこに中型の宝篋印塔がぽつんと立っている。01花崗岩製で、基礎下には前後2枚からなる延板石の方形基壇を備えている。02風化の程度や石材の質感が塔本体とよく似ていることからこの基壇も当初からのものである可能性がある。笠や塔身の背面にかなり欠損があり基礎も割れてモルタルの補修痕が痛ましいが、いちおう基礎から相輪まで揃っており辛うじて正面観は保たれている。塔高約151cmを測る五尺塔である。基礎は上二段で側面は壇上積式。各側面に整った格狭間を配するが、格狭間内は素面で近江式装飾文様は見られない。基礎幅は葛と地覆で約50cm、束部はそれより1.5cmほど狭い。高さは約34.5cm、側面高は約26cmである。塔身は幅約25.5cmで高さ約26cmとやや高さが勝る。塔身各側面には金剛界四仏の種子を薬研彫しているが月輪や蓮華座は伴わない。現状で正面南側を向いているキリーク面の残りがよく、種子の向かって右側に「正安元年六月十八日/村人敬白」の陰刻銘がある。風化によりところどころ厳しい部分もあるが概ね肉眼でも判読できる。背面のウーン面から向かって左側のアク面にかけての隅が大きく欠けている。種子は端正で筆致もしっかりしており、大和などに比べ塔身の種子が総じて貧弱な傾向が強い近江にあっては雄渾な部類に入るだろう。04_2笠は上5段下2段で軒幅約46cm、高さ約36.5cm。隅飾は軒と区別して若干外傾し基底部幅約16cm、高さ約18cmで笠全体に比して少し大きめにしている。05_2二弧輪郭式で輪郭内は素面。上側の弧が大きいのに比べ下側の弧が極端に小さい。正面側の隅飾2つはよく残っているが背面側の笠の欠損は大きく隅飾は2つとも失われている。笠上の段形は6段が一般的かつ本格式であるが、5段にするのは近江でも特に湖東地域でよく見かける手法で、簡略化とも考えられるが、正応4年(1295年)銘の東近江市柏木町正寿寺塔や、低平な基礎と一弧素面の隅飾を持つことから13世紀後半に遡ると推定されている寂照寺塔(これは北畑の東に隣接する大字である蔵王にある)などかなり古い段階から採用されている。相輪は高さ約52.5㎝、下請花は八葉各弁とも彫りが深く覆輪部を軽く盛り上げ弁先を少し外反ぎみにする手の込んだ手法を見せる。小花を設けないので弁先が一層際立って見える。九輪は逓減が少なく太く短い印象で太めの沈線で各輪を区切る。上請花も単弁だが小花付で相輪全体に比して大きめに作る。主弁八葉の弁央に稜を設け、側面をわざと直線的に仕上げてしゃきっと立ち上がる蓮弁を上手く表現している。宝珠はやや重心が高いが側面の描く曲線はスムーズで上請花との境目を太めにして脆弱感はない。03惜しくも先端の尖りが少し欠けている。全体に荘重で安定感があり上下の請花の異なった意匠がもたらすメリハリ感が効いて出色の出来映えを示す相輪である。06ところで、基礎の壇上積式というのは、輪郭を巻いただけの枠取りより一層手の込んだ側面の手法で、左右の束部分を少し内側に引っ込ませ、上下の葛と地覆が框状になってあたかも本格的な壇上積の基壇のように仕上げるやり方。近江では宝篋印塔や宝塔の基礎に多く採用されており、近江系の特長のひとつと考えられているが、鎌倉時代後期でも前半以前に遡る在銘例は案外に少ない。正安元年(1299年)銘を持つ本塔は、近江における壇上積式の基礎を備えた宝篋印塔として在銘最古である。一方で優秀な相輪と基礎を壇上積式にする以外にデザイン的にはやや控えめな点は注意を要する。もっとも近江系のいくつかの特長、具体的には①壇上積式の基礎、②格狭間内の近江式装飾文様、③三弧輪郭の隅飾、④隅飾内に蓮華座月輪を配して種子を刻む、のうち①から④まで全て備えたフルスペックの宝篋印塔は意外にもそれほど多くはなく、14世紀初頭よりも古い在銘品に限れば正安2年(1300年)銘の竜王町弓削阿弥陀寺塔や正安3年(1301年)銘近江八幡市上田町篠田神社塔くらいで、関西形式の宝篋印塔の典型としてよく引き合いに出される米原市清滝徳源院の京極家墓所の伝氏信塔(永仁3年(1295年)銘)も基礎は輪郭式で壇上積式ではない。多くは①から④のいずれかを単独、または複数を組み合わせているが、どれかは足りないものがほとんどのように思う。なお、滋賀県のお隣、岐阜県海津市の蛇池宝篋印塔が壇上積式の基礎を備え、近江でも古い壇上積式基礎の宝篋印塔に比肩する時期の正安二年銘を有している点は留意すべき事実である。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(二)」『史迹と美術』357号

   田岡香逸『近江の石造美術(一)』

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

   日野町教育委員会町史編さん室編『近江日野の歴史』第5巻文化財編

写真左中:これが川勝博士も絶賛の相輪です、写真右中:壇上積式の基礎、写真左下:背面の欠損がよくわかるアングル、写真右下:キリーク面の刻銘です。これも今更小生が紹介するまでもない著名な宝篋印塔で諸書に取り上げられています。近江における壇上積式基礎の宝篋印塔の在銘最古例です。でも近江式装飾文様はないんですね、正面観は整っていますが背面の欠損が痛ましく惜しまれます。なお、例によって文中法量値は実地略測によりますので多少の誤差はご勘弁ください。


滋賀県 東近江市柏木町 正寿寺宝篋印塔

2010-08-05 00:32:41 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市柏木町 正寿寺宝篋印塔

柏木町は近江鉄道市辺駅の西方1Km余り、付近一帯は蒲生野と呼ばれ、田園の広がる平地にある集落のひとつである。01_2集落西端に正寿寺がある。臨済宗妙心寺派で江戸時代元禄年間の開基というが紹介する宝篋印塔をはじめ古い遺品も少なくないことからそれ以前からこの付近に前身となる寺院があったものと思われる。現在無住で住職は兼務、地元で管理されている様子である。ここに「飛鳥井殿」の石塔なるものがあることは既に江戸時代の記録に載っているらしい。飛鳥井殿というのは鎌倉時代初期、飛鳥井雅経に始まる蹴鞠の家として有名な公卿を指すようで、その飛鳥井氏の屋敷が付近にあったという伝承が残るという。もっとも、はっきりしたことは不詳で所詮信を置くに足らない。大正年間に書かれた『蒲生郡志』には寺の付近に土塁等の城郭遺構が残っていたと記されているとのことで興味をひかれる。さて、その正寿寺の本堂南側の生垣の中に、設えて間もないと思われる新しい切石の基壇があり、その上に東西二基の宝篋印塔が並んで立っている。どちらも花崗岩製で西側が大きく東のものはひとまわり小さい。02西塔は川勝政太郎博士が昭和40年『史迹と美術』第356号に紹介され広く知られるようになったもので、以来著名な宝篋印塔である。古い基壇や台座はみられず、元々直接地面に据えられたものと考えられ、現高約177cm、元は六尺塔であろう。基礎は低く安定感があり、幅約62cm、側面高約28.5cmと幅に対して側面高が半分に満たない。基礎上二段で、段形は側面からの入り方が大きく、したがって基礎幅に対する塔身幅の割合が小さい。03基礎側面は四面とも輪郭を巻いて内を彫りくぼめ格狭間を配する。格狭間内は素面で近江式装飾文様はみられない。輪郭の左右の束の幅が広いのが特長で、格狭間と束との間にもスペースを設けているので横幅を広くとった低い基礎の形状の割りに格狭間が左右幅を十分にとれずに萎縮したようになって、脚部の間も狭く、整美とは言い難い形状になっている。こうした格狭間は永仁三年銘の市内妙法寺薬師堂宝篋印塔や弘安八年銘甲賀市水口町岩坂最勝寺宝塔など13世紀後半代に遡る古い石塔に類例がある。本塔では加えて花頭部分中央を広めにとっているので、本来左右に2つづつあるべきカプスが1つづつしかないのは珍しい。北面と東面の束に刻銘がある。北面向かって右束に「八日願主」左束に「大行房」、東面右束に「正广二二年」左束に「辛卯四月」と肉眼でも判読できる大きい文字で陰刻している。各行の続き方がおかしな順番になっている。「正广二二年」とは正応4年(1291年)のことで、基礎から相輪まで揃っている宝篋印塔としては近江における在銘最古例である。塔身は高さ約28.5cm、幅は約28cmでわずかに高さが勝っている。各側面とも舟形光背形に彫りくぼめ四方仏座像を半肉彫りしている。04印相は確認しづらいが、定印の阿弥陀、施無畏与願印の釈迦、施無畏蝕地印の弥勒、薬壺を持つ薬師の顕教四仏と考えられている。いずれも蓮華座は見られない。笠は上5段下2段で、軒幅約54cm。軒と区別しないで垂直に立ち上がる大ぶりな隅飾は二弧輪郭付きで輪郭内に蓮華座を平板陽刻し、その上に梵字「ア」の四転「ア」「アー」「アン」「アク」を各面に2つづつ陰刻する。胎蔵界四仏の種子であろうか、種子を囲む円相月輪は確認できない。二弧と三弧の違いはあるが軒と区別しない隅飾に輪郭を入れるのは米原市清滝の徳源院京極家墓所にある永仁三年銘の伝氏信塔と同じ手法である。相輪は高さ約70cm、伏鉢は割合低く下請花は単弁。九輪の逓減は小さく上請花は素面で花弁が確認できない。先端宝珠は重心が低く完好な桃実形を呈する。相輪各部のくびれに脆弱なところが見られず、全体に重厚感があり各部の描く曲線がおおらかで直線的な硬さが感じられない。自ずと細長い棒状にせざるをえない制約がある相輪であるが、本例のように見るものに重厚な印象を与える意匠造形は見事というほかない。05また、上請花を素面とする例として湖南市菩提寺の仁治2年銘廃少菩提寺多宝塔があり、川勝博士も指摘されるように古い手法とみるべきなのかもしれない。東塔は基礎下に隅を間弁にしないタイプの複弁の反花座を備え、基礎上も複弁反花とする。基礎側面は四面とも輪郭を巻いて内に格狭間を入れ、北面に孔雀文、南面に開花蓮、東西面はともに三茎蓮のレリーフを配する。格狭間の形状はまずまず。孔雀文は何故か右側に偏っており意匠的にはやや稚拙である。西面を除く三面の左右の束部に刻銘があるというが川勝博士、田岡香逸氏とも判読が困難とのことである。塔身は西塔同様、舟形背光形に彫り沈め四方仏座像の像容を半肉彫りする。笠は上六段下二段。軒の厚みは薄めで、軒と区別し若干外傾して立ち上がる隅飾は二弧輪郭式。輪郭内には蓮華座上の月輪を平板陽刻しその中に梵字を陰刻しているが文字は確認しづらい。相輪は九輪の6輪目以上を欠く。下請花は複弁のようである。隅飾、反花座の一部に欠損が見られる。現存塔高約120cm。造形的には型にはまり、こじんまりまとまった感がある。異形の趣のある西塔に比べるとやや見劣りするのはやむを得ないとしても、近江では珍しい反花座を備えている点、例が決して多くはない格狭間内の孔雀文を有するなど看過すべきものではない。相輪上半をはじめ細かい欠損も惜しまれるが刻銘があっても判読できないというのは特に残念である。完全に風化摩滅してしまう前に改めて判読が試みられることに期待したい。造立時期は鎌倉末期から南北朝初期、14世紀前半代のものと推定される。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(一)」史迹と美術第356号

   田岡香逸「正寿寺の宝篋印塔」『民俗文化』第62号

小生が今更紹介するまでもない著名な宝篋印塔です。最近デジカメを新調したのを機にいろいろなところを再訪し写真を撮り直しておりまして、正寿寺塔も久しぶりにご対面しましたのでご紹介します。基本的には隠れた名品のようなものを紹介したいと考えていますが、悲しいかな石造美術そのものが依然マイナー路線、斯界で著名とはいえ一般的にはほとんど知られていないような状態ですのであえてこうしたものも紹介していきたいと思います。一期一会の覚悟でしっかり観察することは大切ですが、何度も訪れることもまた大切だという趣旨のことを、確か故・太田古朴さんだったかと思いますが著書の中でおっしゃってみえましたね。それに一度訪れたらそれっきりというのもちょっと寂しい気もします。機会を改めることで新たな気づきがあるかもしれませんしね。せっかく出会えた石造物ですのでご健在を確認するとともに周辺環境の変化にも注意し季節や時間帯によって変わる見え方を楽しむのも一興かなと思うようにもなってきた今日この頃です。ただ、カメラを変えても写真はあまり良くならないようで…やはり腕が…(涙)。


滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その3)

2009-09-02 00:24:21 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その3)

基壇の配石構成あるいは基礎の素面の東側が裏面と考えられたことから、本来の正面が西側であったと推定され、解体修理に際しては塔身四方仏を本来の方角に合わせるため時計回りに90度、笠は東面していた隅飾「バン」の面を180度ずらせて西向きになるよう、それぞれ積み直されている。02造立時期について、能勢丑三氏は鎌倉時代とだけ述べられ、服部勝吉、藤原義一両氏は鎌倉時代中期、解体修理報告に記された重要文化財指定説明では鎌倉時代中期(鎌倉時代を前後2期に区分すれば後半)、川勝博士は鎌倉後期ないし末期とされている。03田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半と述べられている。解体修理では多量の人骨片に交じって平安末期、鎌倉、室町初期の3種の灯明皿、鎌倉時代の古瀬戸の瓶子と四耳壺の小破片などが検出されているが報告書では塔の造立時期を特定するには至っていない。四隅に鳥形を配した塔身の特異な意匠表現については、能勢氏、服部・藤原両氏が早く指摘しておられるように、銭弘俶の金塗塔や阿育王塔などと称される中国製の金属製工芸品や意匠的にその系譜につながり、日本最古の呼び声も高い旧妙真寺塔などに見られる。本塔が旧妙真寺塔よりは下るというのは諸賢の一致するところで動かないだろう。そして本塔は中国の金塗塔などの金属製工芸塔から旧妙真寺塔を経て定型化した形状の宝篋印塔とをつなぐ系譜にあるものと考えるのが妥当だろう。基礎の孔雀文に着目すると、近江における石塔の孔雀文の紀年銘史料は14世紀初頭を遡る例はなく、田岡香逸氏によれば、無銘ながら卓越した作柄を示す日野町村井の蒲生貞秀廟塔の部材に転用されている宝塔の基礎が最も古く13世紀末の正応頃と推定されている。本塔の孔雀文のやや稚拙な雰囲気からは、貞秀塔に先行するものとは考えづらい。07また、段形式との折衷のような珍しい形状の基礎上反花に着目すれば、大和上小嶋の観音院塔などとの類似性から田岡氏が1280年ごろを降らないと評価されている野洲市の木部錦織寺の基礎残欠に注目したい。田岡氏は錦織寺基礎と本塔の関連性については触れておられないが、両者はよく似ている。両者が近い時期のものと仮定すると、孔雀文が正応頃を初現とする田岡氏の推論と10年程の矛盾が生じてしまうが、現時点では総合的に判断して鎌倉中期末から後期初め13世紀後半というとらえ方で大過はないのではないかと思う。01一方、基礎側面の一面を素面とする手法、隅飾の輪郭を線刻にする点を退化というか一種の手抜きと理解するならば、鎌倉末期まで時期を下げる要因になりうるかもしれない。仮に14世紀前半まで時期を下げて考えると、13世紀でも前半代に遡るということが定説になっている旧妙真寺塔との間に100年近い時間差を与えることになり、今日では否定的にとらえられているが田岡氏のいうように逆に旧妙真寺塔の時代を下げなければならない可能性も出てくる。類例の少ない特異な意匠表現を備え、宝篋印塔の初現問題にも多少関わる貴重な存在であり、慎重な検討が必要であるが、共通する意匠を踏襲する旧妙真寺塔との間に100年近い時期差があるとは考えにくいと思うがいかがであろうか。このほか付近には一石五輪塔や小型の五輪塔の残欠、箱仏などがみられる。

参考

能勢丑三 「鏡山鳥影宝篋印塔」(上)・(下)『史迹と美術』74・75号…オリジナルは「滋賀県史蹟調査報告」第六冊

服部勝吉・藤原義一 「日本石造遺宝」(上)

川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

〃 「歴史と文化 近江」

池内順一郎 「近江の石造遺品」(上)

滋賀県教育委員会編 「重要文化財鏡神社宝篋印塔修理工事報告書」

〃 「滋賀県石造建造物調査報告書」

平凡社 「滋賀県の地名」日本歴史地名体系25

田岡香逸 「近江木部錦織寺と志那吉田観音堂の石造美術」『民俗文化』95号

〃 「近江の石造美術」3

〃「石造美術概説」

吉河功 「石造宝篋印塔の成立」

山川均 「中世石造物の研究-石工・民衆・聖-」

写真左下:鳥形です。フクロウに見えますか?orオウムに見えますか?カルラに見えますか?ってカルラはつまりガルーダでしょ、実在の鳥ではないので本物を見た人はたぶんいないですね。なお、基壇は修理前より30cm程嵩上げされているようです。それから大量の人骨片は元どおり埋め戻されたそうですので訪ねられる際は心してくださいね。

写真右下:野洲市木部錦織寺墓地の基礎の写真を追加します。基礎だけの残欠ですが幅約80㎝もあり鏡神社塔と遜色ない大きさです。褐色の色調や質感もさることながら基礎上の手法はそっくりです。


滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その2)

2009-09-01 23:59:33 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その2)

石燈籠のある付近は山麓の斜面を整地した南北に長い平坦地で、その北寄りの場所に宝篋印塔が立っている。01花崗岩製で、笠や基礎には苔が付着しているが塔身は苔一つ見られず、褐色がかった石肌が鮮やかである。戦前に詳細な報文を書かれた能勢丑三氏は鳥影宝篋印塔と呼んでおられる。意匠表現に優れた宝篋印塔として古くから名の知れた優品で昭和39年に重要文化財に指定されている。30年以上も前、当時から既に基壇が傾き倒壊の恐れが高まっていたところ、昭和49年、盗掘に遭って基壇の石材が抜き取られ、いよいよ危険になったことから、昭和50年に積直し修理が行なわれた。周囲には修理に際して設けられた保護柵が回らされている。相輪先端を欠いた現状塔高193.6cm、基壇を合わせた総高245.1cm。上下2段の切石基壇を備え、下位基壇は幅180cm、下半が埋まっているので現状地表からの高さ(厚さ)は約17cm、(本来は約27cmとされる)長短1対づつの4本の切石を組んだもの。上位基壇は、幅約131cm、高さ(厚さ)は約25cm。04それぞれ大きさの異なる3枚の板石からなり、東側の接合面の基礎との境に径10cmほどの半円形の奉籠穴がみられる。解体修理の記録によれば、この奉籠穴は基礎下で大きく拡がっているらしい。また、基壇の下には自然石を方形に組んだ90cm×85cm、深さ1m余の石室があって細かい人骨片が充満していたという。この基壇は当初から石室と一体構造であったと考えられ、基壇上の基礎がちょうどこの埋納施設の蓋の役割をしていることになる。基礎は高さ48.5cm、幅81.8cmで側面高は約37.5cmと低く安定感がある。素面の東側を除く各側面は輪郭を巻いて格狭間を入れる。格狭間は横幅が広く、花頭曲線が水平に伸び、側線の肩の下がらない整った形状を示す。格狭間内には対向する1対の孔雀のレリーフを配する。05基礎上は反花式。ただし、通常の基礎上反花とやや趣が異なり、基礎側面から約8cm入って階段状に約5cm立ち上がってから反花を置く。ちょうど基礎上2段式の上段が反花になったように見える。まるで基礎上2段式と反花式の折衷のようである。反花は傾斜が緩く、両隅弁の間に3枚の主弁を配し、それぞれの間にやや幅の広い小花を入れている。主弁は塔身受座近くで幅がやや狭くなって全体に丸みを帯びた平面形を呈し、弁央から弁先の尖りに向けて稜を設けている。図面を見るとこの稜の線によって複弁のように見えるが、複弁では通常この線が溝になることからこの場合は単弁とすべきと考える。また、解体修理報告に記載された図面や池内順一郎氏の図面では花弁に覆輪があるように見えるが実際には覆輪はない。これは弁央の稜線の両側を少しへこませてから花弁の縁近くで高まりをもたせ、縁に沿って稜線状にしているためで、この点、能勢氏の図面が最も正確である。反花上の塔身受座は幅約49.5cmに対して高さは約1cmと非常に低い。解体修理記録によれば塔身受座の中央に径10cm、深さ2cmの枘穴があるらしい。06塔身は幅、高さとも43cm、枘穴に対応する枘が上下にあるとされる。塔身の下端から約10cmは平らな框状の素面とし、そこから一段彫り下げて蓮華座と月輪を線刻し、月輪内に端正なタッチの金剛界四仏の種子を薬研彫している。さらに四隅には、羽をたたみ胸を張って立つ頭の大きい鳥形の像容が刻まれている。これは伽楼羅形と呼ばれるが、フクロウ・ミミズクの類インコ・オウムの類とも考えられている。笠は上6段下2段で、笠裏には塔身の枘に対応する枘穴が確認されており、軒幅約77cm、高さ約63.5cm。軒の厚みは約8.5cm。08三弧で輪郭式の隅飾りは軒から約1cm入ってやや外傾するが、ほぼ垂直に近い立ち上がりを見せ、基底部幅約21cm、高さ約30cmとかなり長大な部類に入る。輪郭内の彫り沈めがほとんどみられず、輪郭がほぼ線刻である点も面白い特長のひとつである。輪郭内には蓮華座上に月輪を線刻し、月輪内に種子を刻む。蓮華座は摩滅がひどく肉眼ではなかなか確認しづらい。隅飾の種子は西側2面が金剛界大日如来と思われる「バン」、残る6面は地蔵菩薩と思われる「カ」である。また、笠上は4段目以上を別石としているのも注目すべき特長のひとつである。平らにした3段目上端に4段目下端のサイズに合わせ44cm四方、深さ1cmほどに彫り沈めを設け、4段目以上をそこに嵌め込んでいる。笠を2石とするのは近江ではほとんど例がない。相輪は九輪の8輪目で折損し先端部は失われている。請花の弁は摩滅して確認できない。九輪は線刻に近く、凹凸を深く刻んだものではない。相輪の枘は径約9.5cm、長さ約7cmで笠頂部にある枘穴(径約12cm、深さ約9.5cm)とマッチしないことから別物を適当にあつらえて載せてある可能性が高く、能勢氏も指摘されている。しかし、近世の補作ではなく古いものでサイズ的にも一見した限りまずまず釣り合っているように見える。(続く)

写真右上:別石の笠上、写真左中:基礎上の反花、写真右下:基礎側面の孔雀のレリーフ、写真左下:素面の基礎。基礎下の基壇の境目に奉籠穴が見えます。鏡神社宝篋印塔といいますが、鏡山塔ともいい、西光寺跡塔でもいいのですが鏡神社の管理下にあることからこう呼ばれています。国道沿いの鏡神社の境内にはないので注意してください。

参考図書は続編にまとめて記載します。


滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝篋印塔

2009-08-04 00:58:21 | 宝篋印塔

滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝篋印塔

多聞寺門前に西面する小堂がある。堂内に宝篋印塔が安置されている。基礎から相輪まで揃っており、屋内にあることも手伝ってか比較的風化が少なく保存状態は良好である。01基礎下には板石が敷かれ基壇風になっているが、石材の質感が異なり一具のものではないように思われる。宝篋印塔は白っぽいキメの粗い花崗岩製で、高さ約152cm、基礎幅約上部で49cm、04下部で47.7cm、高さ約36.2cm、側面高約27.6cm。塔身は幅24.3cm、高さ約25.4cm。笠は軒幅約40.8cm、高さ約29.6cm。相輪高さ約60cmとされる。基礎上は複弁反花で、左右隅弁の間に主弁が1枚、主弁の両脇に細長い間弁を挟む。隅弁の弁先には返しがみられ、意匠的にはむくりのあるタイプの反花を志向していると思われる。しかし、全体に彫成が平板で抑揚感に欠け、それだけ退化していると考えられる。基礎側面は各面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配している。格狭間内は素面で、輪郭、格狭間ともに彫りは浅く、格狭間の形状もかなり崩れている。03_2反花上の塔身受座は低く平らなものである。正面右側の束に「大永二年(1522年)□□…(十一月日?)」の刻銘があるとされるが肉眼では確認できない。塔身各面とも阿弥陀如来と思われる種子「キリーク」を浅く陰刻しているがタッチは弱く文字も小さい。正面のみに種子を囲む月輪が見られ、月輪のある面を正面として意識したものと解されている。笠は上6段下2段で、軒が目立って薄い。隅飾は二弧輪郭式で軒と区別して直線的に外傾する。04_3隅飾輪郭は薄く、内側は素面。段形や隅飾の彫りにシャープさを欠く。相輪は伏鉢が円筒形に近く、下請花は複弁八葉で膨らみに欠け、側線が直線的で太い九輪下端との区別にメリハリがない。九輪の彫りは浅く、逓減が強い。所謂「番傘」スタイルに近づいている。上請花は単弁で宝珠はやや大きく、側線が直線的で硬い表現になっており先端の尖りが目立つ。このように各部に退化表現や硬直化が看取され、室町時代後半の典型的なスタイルを示している。05 塔身の種子を本来の顕教ないし密教四仏とせず4面とも浄土信仰を示すキリークとなっている点は珍しく、栗東市出庭従縁寺永正2年銘宝篋印塔(未見)や甲賀市水口町九品寺宝篋印塔、東近江市下羽田光明寺宝篋印塔(2007年2月28日記事参照)など野洲川流域から東近江にかけていくつかの事例が知られ、室町時代中期以降に多く見られる手法のようである。一般的に量産と小型化が進むこの時期にあって、5尺塔とそこそこの規模を有する点、また、基礎から相輪まで揃い、紀年銘を有する点でメルクマルとなる貴重な存在である。市指定文化財。このほか多聞寺境内には鎌倉末期頃の花崗岩製中型宝篋印塔の笠2点、層塔の笠、五輪塔の部材からなる寄せ集め塔が何点か見られほか、門前小堂内の宝篋印塔と同様の白いキメの粗い花崗岩製の一石五輪塔が多数見られる。

参考:田岡香逸「近江野洲町の石造美術(後)―北桜・南桜・竹生―」『民俗文化』103号

文中法量値は田岡氏に拠ります。先の記事では田岡氏に批判的なことを書きましたが、近江の石造美術に関して昭和40年代に精力的に調査され、詳細な報文を多数残された業績は30年以上経てなおその輝きを失っていません。近江の石造美術に関しては、今日でも田岡氏のこの業績を抜きに語れないでしょう。なお、田岡氏の報文にある宝篋印塔残欠の四方仏像容塔身と相輪はその後当該寄せ集め塔から分離されたようで別の所に移されていました。(写真をよく見ていただくと小さく写っています。)ただ短時間の訪問でしたので、よく捜す時間がなく、上反花式の宝篋印塔の基礎は見つけられませんでした。そのうち改めて訪れてもっとじっくり観察したいと思っています。


滋賀県 長浜市野田町 野田神社宝篋印塔(その2)

2009-06-29 22:05:57 | 宝篋印塔

滋賀県 長浜市野田町 野田神社宝篋印塔(その2)

(2007年5月13日記事の続きです。)

傍らに置かれている2枚の板石は、基礎下にあったと思われる切石の基壇と思われる。約77.5cm×約39cmと約78cm×約38cm、厚さはいずれも約16.5cm程の長方形の板石2枚を並べるとほぼ正方形となる。08石の表面に方形の黒ずみがあり、基礎を載せていた痕跡と推定される(写真右上参照)。石材の質感、風化の程度、2枚の切石を並べて基壇とする例が近辺の宝篋印塔に多いことなども勘案すれば、当初から一具のものとみてよいと思われる。05接合面中央が「へ」の字状に抉ってあり、2枚をあわせた状態では中央に長径約25cm短径約10cm弱の細長い菱形に近い穴ができる。これを奉籠孔とみなすか、運搬の労を少しでも軽減するため重量を減ずる工夫とみるのか、その辺りは不詳とするしかない。この板石は、元のように基礎下に戻すか、少なくとも散逸することのないよう傍らに置いておかれることを願ってやまない。塔本体は基礎の下端が埋まり確認しずらいが、基礎の幅約58cm、高さ約35.5cm、側面高約29cm。各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配する。格狭間内は素面。輪郭束部は幅約9.5cm、葛石部は厚さ約5.5cm、地覆部は埋まって不詳だが約5cmと思われる。格狭間は横幅約34cm、高さは不詳。上部花頭部分の内側の茨間の幅約20㎝、外側で幅約26cm。基礎上の段形は2段で、下段の下端幅49.5cm、上端幅約47.5cm、上段の下端幅約40cm、上端幅約37cm。高さは下段約3.5cm、上段約2.5cm。07塔身は幅、高さとも約29cm。各側面には径約26cmの月輪を陰刻し、月輪内に金剛界四仏の種子を浅く薬研彫している。字体は伸び伸びとした刷書風で、総じて宝篋印塔や層塔の塔身梵字が貧弱な近江にあってはどちらかというと雄渾な部類に入ると言ってよいだろう(写真右下参照)。月輪に伴う蓮華座は見られない。06_2キメの粗い花崗岩製で、残存総高約132cm。当初は180cm程度あったと思われ6尺塔であろう。笠は上6段、下2段。軒幅約54cm、高さ約40.5cm、笠下の段形は、下段の下端幅約35cm、上端幅約36cm、高さ約2cm、上段の下端幅約43.5cm、上端幅約44.5cm、高さ約2.5cm。笠下の段形が薄いことがわかる。軒の厚さは約8.5cmあって比較的厚い。隅飾は軒と区別し、直線的に外傾して立ち上がる三弧輪郭式で、輪郭内は素面。基底部幅約18cm、高さ約20.5cmと長大な部類に入る。軒からの入りは2~3mmとわずかで、外傾の度合いは弱く、左右の隅飾先端の幅は55.5cmで軒幅との差は約1.5cmに過ぎない。笠上は下から3段目までは隅飾に癒着し、4段目途中から隅飾から分かれ立ち上がる。09 4段目上端幅約32cm、5段目下端幅約28cm、上端幅約26cm、6段目下端幅約21.5cm、上端幅約19cm。相輪は九輪5輪目以上を亡失し、残存高約35.5cm。伏鉢高さ約11cm、径約19cm、伏鉢と下請花とのくびれ部幅約14cm、下請花は高さ約10cm、径約18.5cm、九輪基部の径約15.5cm。伏鉢の側面はやや直線的で、下請花は風化が進み確認しづらいが複弁八葉のようである。先に紹介した賢明院塔、素盞鳴神社塔とは笠上が段形と反花の相違があるが、そのほかの外形的特長は似かよっている。また、本塔と同じく観応年間に足利尊氏が奉納したと伝える黒部町の大己貴神社塔とはサイズ的にも瓜二つである。ただし、造立時期は観応年間よりもう少し古く鎌倉末期頃と考えられる。

 

つい最近再訪し、改めて観察、コンベクス略側もおこなったので、その結果をご報告します。なお、先の紹介記事では目測5尺ないし5尺半と書きましたが、ひとまわり大きいものでした。また、塔身の種子、字体はそれほど強くないとしました。お詫びの上、上記のとおり訂正します。写真右上:前回来訪時の基壇の様子、方形の黒ずみ、基礎が置かれていた痕跡と思われます。写真左中:今回来訪時の基壇の様子、少し動かされていますがご健在でした。写真左下:前回はなかったハンドメイドな案内看板が設置されていました。


滋賀県 長浜市小野寺町 賢明院宝篋印塔

2009-06-23 22:24:39 | 宝篋印塔

滋賀県 長浜市小野寺町 賢明院宝篋印塔

旧浅井町小野寺の集落の東端、山寄りの最も高い場所にある神明神社の南に隣接するのが真言宗豊山派賢明院である。01小堂があるだけの小寺院で、無住のようだが、境内はよく手入れされており、特に前庭はなかなか趣のある造作を示し、神明神社の杉の大木を背景にしてひきしまった佇まいを示す。西方遥かに琵琶湖を望むロケーションもまた素晴らしい。この小さな本堂の北西側、庭の片隅に1.7m四方高さ60cm程の小さな自然石積みの方形壇があり、その上に宝篋印塔が立っている。高さ約187cm、キメの粗い花崗岩製。基礎下には幅約81.5cm、高さ約16cmの二石からなる切石基壇を備えている。02この切石の基壇が当初から一具のものか否かは不明だが、石の質感や風化の程度から違和感はない。基礎幅約61cm、高さ約41.5cm。側面高は約30.5cmで、各側面とも束部の幅約10cm、地覆厚さ約5cm、葛石厚さ約5.5cmと束部の幅がかなり広い輪郭を巻き、幅約40.5cm、高さ約20cmの輪郭内には格狭間を配する。輪郭内は、彫り沈めは2cm弱と深め。格狭間内は素面で幅約36cm、脚間は約12cm。高さは約18cm、近江式装飾文様は見られない。東側側面の向かって右側の束部に刻銘があって、佐野知三郎氏は「元亨二(1322年)壬戌□」と判読されている。かなり読みにくいが肉眼でも何とか元亨の文字は確認できる。基礎上面は複弁反花式で、左右隅弁は小花にならず、主弁が2枚で隙間に小花を挟んだ勾配の緩いものである。主弁はこれだけの規模ならば普通3枚から4枚で、1枚の場合でも幅広の小花を間に挟む。2枚というのはあまり例がない。勾配は緩く花弁のむくりは目立たない。塔身受座は幅約36cm、高さは1.5cmとかなり扁平。塔身は幅約30.5cm、高さ約30cm。月輪は入れず、種子を薬研彫する。種子は北面「バイ」(薬師)、西面「バク」(釈迦)、南面「キリーク」(阿弥陀)で、東面は通常であれば「ユ」(弥勒)となるところを代わりに「バン」とした変則的な顕教四仏となる珍しいパターンである。本来の方角から90度ずれている。「バン」は一般的には金剛界大日如来で、他に法界虚空蔵菩薩、孔雀明王などが考えられるが、この場合何を意味するのか儀軌的なことは詳しくない。笠は上6段、下2段で、軒幅約55.5cm、高さ約42cm。軒は厚みが約9cmあって厚く、笠下の段形が笠上に比べ低い。03隅飾は軒と区別し直線的に若干外傾する三弧輪郭式で、基底部幅約18cm、高さは約22cmと、どちらかというと長大な部類に入る。隅飾の輪郭内は素面。笠頂部の幅は約20cm。相輪は一見完存しているように見えるが上請花の上下で折損したものを接いでいる。先端宝珠はやや小さく別物の疑いがある。伏鉢は側線がかなり直線的で、下請花は径約19cmで複弁八葉、上請花が径約16cmで素単弁の八葉。九輪はやや逓減が目立つが凹凸はしっかり刻んでいる。相輪高約73.5cm。粗いざらついた石材の性質にもよるだろうが全体に風化が進み、格狭間、種子、反花や請花の花弁、刻銘など細部の観察が困難になりつつある。しかし、各部概ね揃い総じて遺存状態は良好といえる。以前にも書いたが、①キメの粗い花崗岩製、②基礎は輪郭格狭間式で彫りが深い、③塔身上下の段形ないし反花が低い(薄い)、④笠の軒が厚い、⑤長大な三弧輪郭付の隅飾、⑥格狭間内は素面で近江式装飾文様がない、⑦隅飾内も素面で装飾的なレリーフがないといった特長を有するスタイルの宝篋印塔が長浜市や米原市などにしばしば見られる。徳源院の京極家石塔群の秀麗ないわゆる関西形式の典型とされるものは別格として、こうしたややローカルな作風の江北型ともいうべき宝篋印塔には紀年銘があるものがなく、メルクマルとなる鎌倉末期、元亨2年(1322年)の紀年銘を有する点で本塔の存在は貴重である。

参考:佐野知三郎 「近江の二、三の石塔」『史迹と美術』407号

佐野氏の報文では元明院となっていますが、賢明院でも元明院でも読み方はいずれも“げんみょういん“のようです。近くの素盞鳴神社宝篋印塔(2007年5月8日記事参照)に意匠、サイズともによく似ています。このほかにも、境内には室町時代と思われる小石仏、石塔残欠がいくつか集積されています。


滋賀県 近江八幡市上田町 篠田神社宝篋印塔

2009-03-16 01:18:17 | 宝篋印塔

滋賀県 近江八幡市上田町 篠田神社宝篋印塔

近江八幡市上田町の東寄りに鎮座する篠田神社境内の西側の道路に面して立派な宝篋印塔が立っている。01やや青みがかったような白色の良質な花崗岩製で、切石を組み合わせた基壇を据えた上に基礎を置く。この基壇は不整形で、一部は風化の程度が合わないように見えることから、当初からのものかどうかは疑問である。02基礎、塔身、笠は一具のものと考えられる。相輪は亡失し、今は別の小形の宝篋印塔の塔身と笠、灯篭の宝珠と思われるものを載せている。基礎下から笠上までの現存高さ約154cm、元は8尺塔であろう。基礎は壇上積式で上端は反花とする。羽目部分には整った格狭間を大きくいっぱいに配し、四面とも開敷蓮花のレリーフで飾る。基礎は高さ約58.5cm、幅は葛及び地覆部で約80.5cm、束部分は約1cm狭い。側面高は約46.5cm、束の幅約9cm、葛幅約5.5cm、地覆幅は約6cmを計る。基礎上の反花は、側面から弁先までの間が約4cmとやや広くとっている。反花は、稜を設けた単弁の左右隅弁の間に複弁3葉の主弁を挟み、弁間には計4枚の小花を入れる。抑揚のあるタイプであるが、傾斜の緩い優美で伸びやかなもので、彫りはしっかりしている。03塔身受座は高さ約2.5cm、幅は約49cmある。格狭間は上部花頭曲線が水平方向に広がり、肩はあまり下がらない。側線もスムーズで短い脚部は逆八字になって脚間はやや狭い。羽目は丁寧に平板に仕上げ、中央に開敷蓮花のレリーフを半肉彫りする。塔身は高さ約40.5cm、幅約39.5cmと若干高さが勝る。各側面に径約32㎝の月輪を陰刻、月輪内に陰刻した蓮華座上に金剛界四仏の種子を薬研彫する。東方阿閦如来のウーンが西面することから、塔身は方角が180度ずれている。塔身の種子は端正な刷毛書ながら、あまり大きいものではなく、豪放さには欠ける。近江ではこの手の梵字表現があまり強くないのが普通である。笠は上6段、下2段の通有のもので、軒幅約69.5cm、高さ約55cm、軒の厚さ約8.5cm。隅飾は基底幅約22cm、高さ約25.5cm。04_2三弧輪郭式のもので輪郭の幅は約2cmと薄い。隅飾は、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がるが、軒先からの入りは0.3cm程度でごく小さい。各面とも輪郭内には蓮華座と円相を平板に陽刻し、円相内にはアの梵字を陰刻する。笠最下部幅は約49cm、笠頂部幅約24cm。全体にシャープな印象で、各部のバランスも良く、素晴らしい出来映えを示す。基礎東側束部に「正安三年(1301年)辛丑二月廿七日(一説に五月十七日)□□/願主平?茂?氏」の刻銘があるとされる。光線の加減もあり肉眼でははっきり判読できない。近江の在銘の壇上積式の基礎としては日野町北畑八幡神社宝篋印塔(正安元年銘)、竜王町弓削阿弥陀寺宝篋印塔(正安2年銘、2007年12月5日記事参照)に次ぐものである。紀年銘のある宝篋印塔の遺品を見る限り、東近江市柏木正寿寺塔(正応4年銘(1291年))、同市妙法寺薬師堂塔(永仁3年銘(1295年))などでは、細部にプリミティブな意匠を残し、なお発展途上とみられ、米原市清滝徳源院の京極氏墓所の氏信塔(永仁3年銘(1295年))あたりで概ね整備されてきた関西形式の宝篋印塔のデザインアイテムが、弓削阿弥陀寺塔や本塔で壇上積式基礎を加え、フルスペックとなり、いちおうの完成をみるとの趣旨のことを川勝博士、田岡香逸氏ともに述べておられる。そうした意味においては画期的な宝篋印塔のひとつである。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展」(二)『史迹と美術』357号

   〃 新装版「日本石造美術辞典」

   田岡香逸「石造美術概説」

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』

とにかく素晴らしい宝篋印塔です。いつまでも見飽きません。それにしても相輪の亡失が惜しまれますが流石の市指定文化財です。地元の方のお話では金鶏伝説があって、以前積み直した際に地下を掘ったが何もなかったとのこと。さらに今の基壇は積み直す前からあったらしいとのこと。どうも原位置から移動している可能性があるように思われます、ハイ。


滋賀県 湖南市朝国 観音寺跡宝篋印塔

2009-03-01 23:22:45 | 宝篋印塔

滋賀県 湖南市朝国 観音寺跡宝篋印塔

甲賀市と湖南市の境、南東から北西に向かって流れる野洲川を挟んで南北から丘陵がせまる国道1号線横田橋付近は、川沿いの平地が最も狭隘になる場所である。この付近は渡河地点として野洲川沿いに往来する場合には、必ず通らなければならない交通の要となった場所である。01この横田橋の北方約500mの野洲川北岸、TOTO滋賀工場が位置する丘陵の西麓、物流会社の倉庫裏の雑木林が観音寺の跡とされており、ここに宝篋印塔が残されている。周辺は竹薮や雑木林で西側の水田よりも一段高いなだらかな平坦地で、東側は丘陵斜面に続いている。03丘陵裾の宝篋印塔がある場所だけは下草が刈られ、周囲よりもさらに一段高く、丘陵を背に南北に細長い土壇状に整形されている。宝篋印塔はこの土壇の北寄りの場所にある。脇には小形の五輪塔の残欠数点が無造作に積まれている。切石を組み合わせた一辺約146cmの基壇を備え、その上に基礎を置いている。きめの細かい緻密な感じの花崗岩製である。基壇はやや崩れぎみで下端が埋まっているが、高さは約18.5cmある。相輪を亡失して五輪塔の空風輪が代わりに載せてある。基礎から笠上までの現高約153cm。基礎の幅は約80cm、高さ約58cm、側面高約45cm。上2段式で、各側面とも輪郭枠取りとし、輪郭内にいっぱいに大ぶりな格狭間を入れる。輪郭の幅は比較的狭く、格狭間は、花頭部分が伸びやかに水平方向に広がり、左右の側線がはスムーズな曲線を描いてに短い脚部につながって整った形状を示す。輪郭内、格狭間ともに比較的彫りが深く、格狭間内は珍しく四面とも素面で近江式装飾文様は作らず平板に調整されている。基礎南面向かって左の束部分と西面向かって右の束部分に刻銘がある。「正和二年(1313年)癸丑三月十八日奉造/立之願主沙弥道念敬白」とあるらしいが、肉眼では部分的にしか判読できない。塔身は幅、高さとも約40cm。各面とも素面で正面、西側に「法界」の2文字を陰刻している。通常、宝篋印塔の塔身には四仏の像容か種子を表現するのが一般的であり、このような事例はまず見かけない。もっとも石材の質感や風化の程度が笠や基礎と若干異なることから、塔身は後補と思われる。現状の塔身でもサイズ的には違和感はないが、基礎上端の幅が約52.5cm、笠下端幅が約50cmであることから本来の塔身は若干(2cm前後)大きかったのではないかと思われる。05笠は上6段下2段で、軒幅約76cm、高さ約55cm。上端幅は約28cm。軒から2cm弱入って直線的にやや外傾する隅飾は、基底部幅約23cm、高さ約27cmと大ぶり。三弧輪郭付で、輪郭枠取の幅は約2.5cmと薄い。輪郭内は各面とも素面とし、装飾的なレリーフなどは見られない。現在失われている相輪について、池内順一郎氏は、大正15年刊の『甲賀郡志』にある台石を含む高さが8尺6寸5分(約260cm)との記事から、大正頃には相輪が残っていたものと推定され、基壇を含む現高から、相輪の高さが約87cmであったと推定されている。とすれば復元塔高は約240余cmとなり、まさに8尺塔となる。今の塔身は風化の程度から、補われた時期がかなり古いようであり、大正年間まであったらしい相輪が後補でない確証はないものの、まだそのあたりの藪の中などに転がっている可能性もある。なお、基壇と笠、基礎については、石材の質感やサイズから当初からのものとみて支障ないであろう。近江式装飾文様などの装飾的レリーフが見られないのでやや寂しい感じもするが、非常にシャープな全体的な彫成の出来映えとあいまって逆にスッキリした印象を与える。02_2なお、この石塔は古くから地元で「時頼小塔」と呼ばれ、最明寺入道道崇、すなわち執権北条時頼の供養塔との伝承がある。お忍びで全国を巡廻した時頼が朝国山観音寺の開基と伝えられているようで、正和2年は弘長3年(1263年)11月に没した彼の50年忌に当たる。興味深い話ではあるが事実関係については不詳とするしかない。観音寺は明治初期に廃寺となり、集落内の西徳院に併合されたらしく、今、現地には宝篋印塔や若干の石塔残欠のほかに何も残っていない。田岡香逸氏は、庶民仏教の所産である石塔類が、権門たる寺社の境内に建てられることはなく、たいていは埋め墓に立てられ、現在も寺社に残る石塔類は後世に移建されたか、近世の寺院がおしなべて中世の埋め墓の上に建てられているためだとする持論を元に、この場所が寺院の立地場所としてふさわしくないと判断されているが、丘陵裾が平坦に整地され、低い土壇状に整形された場所があるなど、いかにも寺院跡の趣を漂わせており、田岡氏の説を支持することはできない。このほか雑木の中には鎌倉時代に遡りうる大きい五輪塔の空風輪が転がっており、往時の寺観を彷彿とさせるものがある。市指定文化財。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 6~7ページ

   田岡香逸 「近江蒲生郡と甲賀郡の石造美術」(後)『民俗文化』131号

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 376、419~412ページ

   平凡社 「滋賀県の地名」日本歴史地名体系25

現地には説明板がありますが、非常に目立たない場所に立っている宝篋印塔で、捜すのに苦労しました、ハイ。

写真上左:どうですこの威厳にみちた佇まい。シビレますね。写真上右:三弧隅飾の裏側を上から見たところです。珍しいアングル。色っぽい「うなじ」ですね。カプスに沿って裏側まで溝を彫ってしっかり作り込んでいるのがわかると思います。写真下左:基壇が崩れかかっています。写真下右:近くにあった大きい五輪塔の空風輪。手前の四角いのはタバコの箱です。一抱えくらいはありました。


滋賀県 湖南市針 飯道神社宝篋印塔

2009-02-18 01:23:11 | 宝篋印塔

滋賀県 湖南市針 飯道神社宝篋印塔

JR草津線甲西駅の南約500m、家棟川の西の高台に飯道神社がある。元はもっと北側の野洲川に近い平地に鎮座していたようで、現在の湖南市役所東庁舎(旧甲西町役場)付近にあったらしい。明治の初め頃、家棟川の改修にともない現在の場所に移転したと伝えられる。03社殿向かって右手(北東側)に宝篋印塔がある。基壇や台座は見られず、直接地面に置かれている。01昭和50年の池内順一郎氏の報文によれば、この石塔は水害後に出現し地元の人により現在の場所に据えられたとのことである。ただしそれがいつのことでどこから出たのかなど不詳であるらしい。あるいは神社とともに旧社地付近から移された可能性もある。残念ながら塔身を欠くがそれ以外の基礎、笠、相輪が残っている。基礎下端が若干埋まり、塔身を欠いて現高約220cmと大きい。元は9尺塔であろう。基礎は幅約80cm、下端が埋まっているが高さ56cm以上、側面高は42cm以上ある。笠は軒幅約76.5cm、高さ約57cm。相輪の高さは約107cmある。花崗岩製で風化により全体に表面の荒れが目立つが亡失の塔身を除けば大きい欠損もなく概ね良好な遺存状態である。基礎は上2段、各側面とも壇上積式で、羽目には整った大振りな格狭間を入れている。格狭間の彫りは割合深く、内面中央をやや膨らませている。南側正面のみ格狭間内に開敷蓮花のレリーフを配している。西側面右左の束にそれぞれ「嘉元二二/十一月日」、北側側面には「願主孝子/奉造立之」の刻銘があるとされる。すなわち嘉元4年(1306年)の造立であることが知られる。04嘉元4年は翌12月の14日に徳治元年に改元されている。北面の文字は確認しづらいが、西面右束部の嘉元の文字は肉眼でも判読できる。孝子とは親の供養をする場合の子どもの一人称表現でいわば定例句である。笠は上6段下2段で、隅飾は軒と区別して若干外傾ぎみに立ち上がる、比較的背が高く大ぶりの3弧輪郭式。輪郭の幅は狭く、各面とも輪郭内に蓮華座上の月輪を線刻で表し、月輪内には梵字を陰刻する。梵字は肉眼による観察では光線の加減もあってハッキリしないが、いずれも金剛界大日如来の種子バンとみられる。相輪は大きく立派なもので、伏鉢が笠上最上段から少しはみ出し、やや石の色調、質感が笠以下と異なることから別物の可能性を完全には払拭しきれないが、一具のものとしてもそれほど不自然さは感じない。02_2伏鉢、上下請花、先端宝珠の曲線はスムーズで直線的なところは見受けられない。九輪の逓減が少ないのは古様を示す。風化の進行で蓮弁が摩滅して非常に確認しづらいが下請花は複弁、上請花は単弁のように見える。かえすがえすも塔身の亡失が惜しまれるが、基礎段形上端、笠裏下端の幅がそれぞれ約52cmであることから、亡失の塔身幅は概ね46cm前後と推定される。内部に種子入りの蓮華座月輪を配した三弧輪郭付隅飾や壇上積式を採用した基礎の豪奢な意匠表現、規模が大きく奔放感のある力強いフォルム、隅飾の裏側まで隙なくいきとどき、各段形など要所に見せるシャープな彫成など総じて見事な出来映えを示す。さらに紀年銘があることも貴重。なお、池内氏によれば、壇上積式の基礎の分布は日野町を中心に旧蒲生郡に多く旧甲賀郡では旧土山町を除き少ないとされ、一方、田岡香逸氏は近江に事例が多い三弧隅飾は湖東地域に偏重する傾向で、この地域では割合珍しいとされている。市指定文化財。

参考:池内順一郎『近江の石造遺品』(下)343、381~382ページ

      田岡香逸「近江甲賀郡の石造美術」(3)―最勝寺・飯道神社―『民俗文化』66号

写真下左:立派な相輪、写真右:壇上積式の基礎と格狭間、格狭間内には開敷蓮花のレリーフがあります。塔身がない今はちょっとおまぬけにも映る宝篋印塔。塔身はいったいどこへいったのでしょうか。今もどこかに眠っているのでしょうか。それとも売り払われて手水鉢などに転用されてしまったのでしょうか。いつの日か発見されて完全な姿になることを祈りたいと思います、ハイ。それにしても痴漢に注意なんて看板があるような静かな神社の境内でひとり、塔身が揃った時の勇姿を想像しながら宝篋印塔のまわりをうろうろしてる小生は傍目にも怪しい奴ですよね。