石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市左京区黒谷町 金戒光明寺五輪塔

2012-06-04 01:31:05 | 五輪塔

京都府 京都市左京区黒谷町 金戒光明寺五輪塔

紫雲山金戒光明寺はかつて白川の禅房、新黒谷と称された法然房源空上人縁の聖地で、浄土宗の大本山。今は単に黒谷と呼ばれることの方が多い。03_2境内東寄りの高台に文殊塔と呼ばれる三重塔(木造:江戸初期)が建ち、周辺には広大な墓地が広がる。01墓地の東端近く、生垣に囲まれたT家墓地の一角に古風な五輪塔が立っている。一見して近畿で一般的に見かける五輪塔とは一線を画するものであることがわかる。台座や基壇は見当たらず直接地面に据えられている。地輪下端は少し地表下に埋まっている。凝灰岩製。表面の風化が少なく保存状態は悪くない。福澤邦夫氏のレポートによる法量値は、塔高180.3cm。地輪幅51.5cm、高さ45.6cm。水輪最大径59.2cm、高さ51.6cm、火輪軒幅64.8cm、高さ41.7cm、軒厚は中央で6.5cm、隅で9cm。空風輪高さ41.4cm、風輪径29.4cm、空輪径29.5cm。各部とも四面に陰刻月輪を描き、月輪内に下から「ア」・「バン」・「ラン」・「カン」・「ケン」の大日如来法身真言を薬研彫りしている。梵字には墨の痕跡がある。火輪の軒口はあまり厚くなく、軒反は所謂真反りに近い。水輪は曲面彫成が完全とは言えず若干角張って見える。空輪は最大径が低い位置にあって押しつぶしたような蕾状を呈する。02総じて古風な造形を示す水輪以上に比べ地輪が相対的に小さいのが印象的で、幅に対する高さもある。ただし福澤氏によれば地輪の下端6cm程は表面彫成が粗く、地面に埋け込んでいたか台座の受け座に嵌め込んでいたと推定されており、その分は高さから差し引いて考える必要がある。04周囲は近世以降の墓標、石塔等がところ狭しと林立しているが、中世前期に遡るような石造物はまったくといっていいほど見かけない。現在も連綿と墓地として利用されていることから推測するに、度重なる墓地整理を受けた結果、古い石塔類が姿を消してしまった可能性は高い。しかし、その中でこの五輪塔だけがこのように良好な保存状態で元の場所で残されているとは少し考えにくく、他にも同様の石塔や何らかの残欠等が少しくらい残されていて然るべきであるが見当たらないのは不自然である。また、故Tさんが業者を通じて購入したとの話もあることから、この五輪塔が原位置をとどめているかは甚だ怪しく、石材がこの付近にはないもので、九州阿蘇石系の凝灰岩との見方もあることから、ここから遠くない場所にあったかも非常に疑わしい。加えて寄せ集めの可能性についても考慮する必要があるが、福澤氏によればいちおう一具のものと考えて支障ないとのことである。地輪東面、向かって右上に小さい文字で「天永元年/三月□□」の刻銘がある。天永元年は12世紀初め、西暦1110年である。平安時代後期、鳥羽天皇の御宇である。しかし、この紀年銘には従前から疑義が示されている。業者から購入したという経緯、文字の彫り方がやや不自然で小さいことなどから偽銘・後刻の疑念が払拭されない。福澤氏は各地の古式五輪塔との比較を試みられ平安後期に遡る可能性を排除はされていないものの造立時期については名言を避けてみえる。ちなみに天永元年は改元が天仁3年7月で、天永元年に3月は元々存在しない。形状は古風であるが造立時期についてはやはり謎とするほかない。強いて言えば鎌倉時代中期頃とみるのが穏当のようにも思うが、とにかく何ともいえない。原位置を離れ、業者を通じて取引されるような場合、商品価値を上げるために意図的な改変を受けないという保障はどこにもない。まして経緯や出自が明らかにされないモノは、えたいのしれないモノとして資料的価値がまったく失われてしまうに等しいのである。石造物にとってこれほど不幸なことはない。

 

参考:福澤邦夫 「金戒光明寺の天永元年在銘石造五輪塔-その刻銘の真偽について-

   『史迹と美術』第636号

   片岡長治 第626回例会報告「聖護院・黒谷方面」『史迹と美術』第536号

 

従前から在銘最古とされる平泉の仁安塔より遡ること59年、いちおう最古の在銘五輪塔ということになりますが…???。

天永じゃはなく文永元年くらいが適当じゃないかとも思いますがそれも怪しいです。まぁ大永はないと思いますが…。売り買いされ出自や経緯が明らかにされていないと、このように疑われてほとんど相手にされない。たいへん悲しいことです。こういうことはあってはならないことです。本来あるべき場所にあって保存・活用がはかられてこそ、その価値が最大限に発揮されると信じています。

ところで金戒光明寺の伽藍の中心である御影堂は昭和のはじめに焼失し昭和19年に再建されたもので、川勝政太郎博士の師匠であった天沼俊一博士の設計による本格的な木造建築です。なるほど優れたデザインの蟇股がいっぱい付いてます。当初は火災に強いコンクリートにすべきという意見があったのに対し天沼博士は断固木造とすることを主張され、信頼される当代一流の大工さんを起用され木材の選定からこだわってプロデュースされたとの由です。


滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その1)

2012-03-26 23:13:04 | 五輪塔

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その1)

琵琶湖から流れ出る唯一のアウトレットである瀬田川は、下流で宇治川となり桂川や木津川などと合流しながらやがて淀川となって最終的には大阪湾に注いでいく。01石山寺はその瀬田川右岸に位置する名刹、湖国が誇る有数の観光寺院である。境内の見所は枚挙に暇がないので見過ごされがちになるのはやむを得ないが、実は見るべき石造美術もいくつか残されている。近江八景「石山の秋月」としても知られ、02山号は石光山、西国三十三箇所観音霊場第十三番札所で東寺真言宗(総本山は東寺すなわち教王護国寺)の大本山である。本尊は如意輪観音。創建は奈良時代に遡り、聖武天皇勅願、良弁僧正の開基とされる。東大寺への用材を運搬する水運の拠点であったとも言われており、古くは南都との関わりが深かった。木芯部分だけになった塑像の蔵王権現など貴重な仏像も多数残っており、いち早く密教を導入していたことが知られる。また、平安時代初め頃には醍醐寺との関係が深かったようである。平安貴族による石山詣が流行し、「和泉式部日記」、「枕草子」、「蜻蛉日記」、「更級日記」などにも登場する。かの紫式部も参篭中に「源氏物語」の着想を得たと伝えられる。本堂は、滋賀県では現存最古の木造建築で平安時代、永長元年(1096年)に再建されたもの(外陣は桃山時代末頃の補加)。03_2多宝塔は鎌倉時代初期、建久五年(1194年)に建てられたことが判明しており、建築時期の確実な多宝塔では現存最古のもので、源頼朝の寄進とも伝えられる。ともに国宝。山門(東大門)と鐘楼も鎌倉時代の建築とされる。04また、尾根の斜面に露出する巨大な珪灰石の岩盤が奇観を呈し、国の天然記念物に指定されている。

場所的には琵琶湖の南端、湖岸沿いの平野部が瀬田川に沿って狭まり、この付近で川の両岸間近まで迫る丘陵で遮断されるような地形になっている。05つまり水陸を問わず瀬田川沿いに南下しようとすれば必ず門前を通らなければならない交通の要に当たる点は注意しておきたい。

本堂と多宝塔の中間、本堂より少し上った所、校倉造の経蔵の脇に珍しい三重の宝篋印塔がある。寺伝では紫式部供養塔とされるが、我国の石造宝篋印塔で平安時代にまで遡るものはない。花崗岩製。相輪は亡失。代わりに五輪塔の空風輪が載せられている。この空風輪を除く高さは約239cm。基礎は幅約75cm、高さ約66cm、側面高約50.5cmとやや背が高いが、下端が少し不整形なので元は台座や基壇を伴わず、下方を地面に埋め込んでいたものと思われる。基礎各側面は素面で、基礎上二段。三重の宝篋印塔なので通常1つづつの塔身(軸部)と笠石はそれぞれ3つづつある。とりあえず下の笠、中の塔身、上の笠というふうに呼ぶ。下の塔身は高さ約35.5cm、幅約32.5cmと幅に比して高さが勝る。また、基礎に比べると少し小さめである。つまり基礎側面からの入りが大きい。各側面は舟形光背形に彫り沈め、内に蓮華座に座す像高約21cmの四方仏を厚肉彫にする。01_2風化で面相や印相ははっきりしないが、田岡香逸氏の報文によれば定印の阿弥陀に加え薬壺を持つ薬師があるというから顕教四仏と考えられる。中と上の塔身は、ともに四方素面で中の塔身は幅約31cm、高さ約20.5cm、上の塔身が幅約29.5cm、高さ約17cm。笠石のうち下と中の笠は、ほぼ同形でいずれも上下とも2段、下の笠は軒幅約60.5cm、高さ約33.5cm、軒の厚みは約9㎝。中の笠は軒幅約59.5cm、高さ約30cm、軒の厚み約8cm。02_2上の笠は上三段下二段で軒幅約56cm、高さ約37.5cm、軒口の厚みは約6.5㎝。普通相輪と一体になっている伏鉢部分が上の笠石の上端面に同一石材で作り付けられている。都合12個ある隅飾はいずれも小さく、軒と同一面でほぼ垂直に立ち上がる一弧素面。三重宝篋印塔は非常に珍しく、県内では他に野洲市内にあるくらいで、全国的にも大阪や奈良などに数基程度が知られるのみである。寄せ集めの可能性も疑うべきであるが、本例は笠石のサイズや手法に共通点が多いことから明らかに当初から一具のものと考えられる。無銘であるが田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半、正安頃(西暦1300年)のものと推定されている。概ね妥当な年代と思う。あるいは古式の隅飾を積極的に評価するともう少し古いのかもしれないが、それでも13世紀末頃を大きく遡ることはないと思う。また、伏鉢が笠石と一石彫成になっているのは珍しい手法で、米原市朝妻筑摩の朝妻神社塔や奈良県天理市三十八柱神社塔に類例がある。重要文化財指定。

 本堂の西側、子育観音への参道の途中、棕櫚の木の下の岩の上に載せられた石仏がある。石材はちょっとよくわからないが砂岩質であろうか。03_3 高さ約77cm、幅約44cm、厚さ約22cmほどの平らな石材の表面に像高約41cmの如来坐像を厚肉彫りする。全体に表面の風化が進み、衣文や面相はほとんど摩滅しているが頭頂には肉髻がある。やや頭が大きく像容としてはあまり洗練されているとは言えない。印相も肉眼でははっきり確認できない。定印のように見えるが薬壺を持っている可能性も排除できない。蓮華座を伴うようだが風化摩滅のせいで蓮弁もはっきりしない。無銘。これだけでは特に取り上げるに足らない見慣れた石仏のひとつと言えるかもしれないが、背面に注目してほしい。平らに粗く整えた背面に五輪塔を刻出しているのである。線刻と薄肉彫りを交えたような表現で、塔高は約34cm。火輪の重厚な軒反も表現され、水輪は球形に近く地輪の背がかなり低い。像容の背面に五輪塔を刻む両面石仏はあまり例のない珍しいものである。瀬田川を下り、信楽に抜ける街道沿いに信楽川を遡った富川磨崖仏にもよく似た両面石仏があるが、あるいはこの付近の地域的特色なのかもしれない。造立時期の特定は難しいが、五輪塔の形は古風ながら像容はどちらかというと稚拙でそれほど古いものとは思えない。室町時代前半頃のものであろうか。(続く)

 

写真左上から二番目:ちょっとわかりにくいですが笠上に一体彫成された伏鉢です。

写真左最下:石仏背面の五輪塔のアップです。五輪塔の形は鎌倉時代風なのでもっと古く考える余地もあるかもしれません。

 

参考:綾村宏編『石山寺の信仰と歴史』

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸 「近江石山寺の石造美術」()『民俗文化』第143号

 

三重宝篋印塔は古くから著名なもので今更小生がご紹介するまでもない名品ですね。流石に人目が憚られコンベクス計測はできませんでしたので計測値は田岡香逸氏の報文に拠りました。ただし、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めさせていただきました。両面石仏はこの日たまたま目にしたもので、浅学の管見にはこれまで紹介した記事等を知りませんが珍しいものです。

追伸:五輪塔レリーフを背面に刻む如来石仏について

清水俊明先生が『近江の石仏』(1976年 創元社)において写真入りで取り上げられていました。それによると薬壺を手にした薬師如来で、「おそらく室町末期の造立であろう」と述べておられます。ただ、背面の五輪塔レリーフには特に言及されていません。
一方、故・瀬川欣一先生も『近江 石のほとけたち』(1994年 かもがわ出版)の中で、愛東町(現・愛荘町)引接寺に「弥陀如来坐像の裏側に五輪塔を刻むという、大変珍しい石仏があります。こうした形式の石仏は石山寺にも大津市富川の磨崖仏参道にもあり…(後略)」と触れておられました。簡単に触れておられるだけで尊格について明言されていませんが、文脈からは阿弥陀如来と考えておられるように読めます。
ともあれ流石にリスペクトする大先達、よく見ておられるのには今更ながら頭が下がります。一方、こうした先学の記事を見落としていた小生は勉強が足りませんでした。(2012年10月2日追伸)


京都府 木津川市木津清水 木津惣墓五輪塔

2011-12-15 00:42:56 | 五輪塔

京都府 木津川市木津清水 木津惣墓五輪塔

JR木津駅の西方約400m、国道24号線から西に少し行くと地区の公民館脇のちょとした空地に見上げるような五輪塔が忽然と姿を現す。01何故このような場所に場違いとも思える巨大な五輪塔が建っているのか首を傾げたくなるが、実はこの付近は、かつて木津地域の古い惣墓(共同墓地)があった場所なのである。昭和の初め頃の土地区画整理で駅の東方の山手に墓地は移転した。03昭和5年頃から約2年半をかけて墓地にあった大量の墓標や石塔等を調査され、形態や紀年銘、数量などから墓地の変遷を明らかにされた坪井良平氏の研究で石造物の研究史の上からも名高い場所である。墓標・石塔類は三千基以上あったとされ、調査から漏れた石造物も少なくなかったようである。移転と平行して行なわれたであろう調査ではそれも致し方ない。今でも道路工事などの際に地中から石塔などが出土することがあるという。

その後、辺りは市街化が進み、かつての面影を偲ぶよすがもほとんど無くなってしまったが、惣墓の総供養塔として造立されたと考えられているこの巨大な五輪塔は今も元の場所にその雄姿をとどめているのである。

花崗岩製で地輪下には反花座がある。高さは3.67mとされ、巨大五輪塔として名高い西大寺奥の院の叡尊塔(高さ3.34m)に比肩する規模を誇る。もっとも空風輪は、空輪先端の尖りが大きく、側線が直線的でくびれも大きいことから時代が降る特長が顕著で後補と考えてよさそうである。地輪は幅約119cm、高さ約79cm、水輪の径約123cm、高さ約92cm、火輪の軒幅は約114.5cm、高さ約70.5cm。地輪下端から火輪上端までの高さ241.5cmで、各部の計測値は叡尊塔よりも若干小さい。空風輪の高さは目測で1m程なので、高さ3.67mというのは反花座を含んだ総高かもしれない。仮にそうだとすると塔高は約3.4m余りであろうか。地輪側面には造立銘が陰刻されている。05_3東面に「同七月十五日阿弥陀経/一万遍光明真言□□□/和泉木津僧衆等/廿二人同心合力/勧進五郷甲乙諸/人造立之毎二/季彼岸光明真言/一万反阿弥陀経/四十八巻誦之可/廻向法界衆生/正応五年(1292年)壬辰八月日」とあるのが当初の造立銘だが、最初の二行は文字の大きさや文意から追刻と考えられている。地元の僧22人が協力して勧進し、5つの地域のさまざまな人々からの寄付によって作られたことがわかる。毎年二度の彼岸に光明真言と阿弥陀経を読誦し、衆生を回向せんとする旨も記されている。また、北面には「和泉木津□川廿坪内自/未申角木屋所一段自/□作□以光明真言/本□□之後□分/□者□□畢時正/永仁四年(1296年)八月十九日」の追刻銘があり、回向読経のための寄進地のことなどを刻んであるようである。さらに南面にも追刻銘があり、「永禄五年(1562年)壬戌/妙林禅□/道心禅門/妙心道心/十月廿七日/妙音/善道/妙順/□□/□西」とされる。これはどうやら何らかの原因で失われた空風輪を新補した際の結縁者と考えてよさそうである。水輪は裾のすぼまり感がない球形に近い形状で、どっしりとした安定感がある。西側中央に阿弥陀如来の種子と思われる「キリーク」が薬研彫されている。火輪の軒口は重厚で、隅で力強い反転を見せ、軒の厚みの隅増しが顕著でない。後補の空風輪を除くと各部材とも背が低めで全体に安定感があり、特に火輪の軒や四注の造形はシャープで力がこもっている。また、地輪下の反花座は、現状では下方が埋まって全体を確認できないが、石材に継ぎ目があり、これをよく観察すると、西側には継ぎ目がなく南と北は西寄りに継ぎ目が1ヶ所ある。04_3東側は2ヶ所に継ぎ目があって、大小4つの石材を組み合わせて反花座を作っていることがわかる。継ぎ目のない西面が本来の正面と考えられ、東側中央の一番小さい石材は、塔のバランスを崩さずに取り外すことが可能で、仮に塔下に大甕などを埋け込んだ埋納スペースがあった場合、この一番小さい石材をずらせて火葬骨片などを反復継続して投入することができたと思われる。反花座の蓮弁は隅を除く一辺あたり主弁が四枚、各主弁の間に小花(間弁)を配した複弁で、大和系の反花座の特長である四隅を間弁にするタイプではなく、隅を主弁としている点は注意すべきである。各間弁の根元はかなりの幅をもって受座に達している。五輪塔に伴う反花座としては規模が大きく、古い事例として注目すべきである。ただ、蓮弁の彫成はやや平板な印象を受けるため、この反花座が造立当初から一具のものであったか否かの判断にはなお慎重な検討が求められるだろう。

木津は山城の最南端、大和に近接する場所で、大和の石造文化圏に属する地域と考えられている。大和を中心に鎌倉時代後半から南北朝期頃にかけて、共同墓地の総供養塔として造立されるこうした五輪塔としては最古にして最大のもので、造立銘からも共同墓地全体の供養塔としての性格を裏付けている点で貴重な存在である。

なお、傍らには長谷寺型観音石仏など数点の石造物が残されている。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成四年度調査概要報告

   川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』

 

文中法量値は、高さは『日本石造美術辞典』、その他は『五輪塔の研究』によりますが、便宜上5mm単位に2捨3入しました。

とにかくすごい五輪塔ですが、少しわかりにくい場所にあって初めて訪ねた時には辺りをぐるぐる行ったり来たりを繰り返してようやく見つけた記憶があります。以来何度か来ていますが駐車できるスペースがないので、いつもエンジンをつけたまま道路脇に停めてごく短時間しか見れません。じっくり観察する場合は木津駅から徒歩というのが正解と思います。地輪の上端面には盃状穴と呼ばれる径10㎝内外の穴がたくさんあります。これに限らず石造物にしばしば見られるこの穴はいったい何なのでしょうか…。


滋賀県 長浜市西浅井町黒山町 東光院五輪塔

2011-11-13 23:16:15 | 五輪塔

滋賀県 長浜市西浅井町黒山町 東光院五輪塔

JR湖西線永原駅の西方約1km、黒山集落の東寄りに東光院がある。慶長年間の開基(中興)で真言宗智山派、本尊は薬師如来とのことだが、現在は無住の小堂があるだけの侘しい佇まいである。しかし境内には多数の小石仏や小型の五輪塔が賑々しく集積されて祀られており、01黒山石仏群と呼ばれている。04たくさんの石仏には夫々に赤い前掛けが付けられ香華も絶えない様子で、寺は廃れても地元の篤い信仰が息づいている。一説に賎ヶ岳合戦の柴田軍の菩提を弔う石仏群と伝えられるようだが伝承の域を出ず不詳。また、近くの神社境内にあったものが明治初期の廃仏棄釈の折、別の場所に移され埋められていたといい、その後の開墾で出土して現在の場所に運ばれて来たとも伝えられる。真相は不詳だがいずれにせよ原初の位置をとどめているとは考えにくく、付近から集められてきたと考えるべきなのだろう。大部分は小石仏と小型の五輪塔で占められるが、中には層塔、宝篋印塔、宝塔、規模の大きい五輪塔の残欠や寄集めが見られる。その中で唯一各部材が揃った整美な姿をとどめている五輪塔が注目される。現状では基壇や台座は見られず直接地面に据えられている。花崗岩製。塔高は約178cmで六尺塔として作られたものと考えれる。地輪は、幅約75.5cmに対し高さは約34cmとかなり低平である。水輪は最大径約69cm、高さ約57cmで、その形状は球形に近く最大径がほぼ中央付近にあって横張や裾の窄まりは感じられない。02_3火輪の軒幅約68.5cmに対して上端の幅がやや小さく約22.5cm。高さは約42.5cm。03軒口の厚みは中央で約11.5cm、隅で約13cmとそれほど分厚いという感じは受けない。軒口の隅増しも少なく、軒反もどちらかといえば緩い。空風輪は一石彫成で高さ約45cm、風輪径約32.5cmに対して空輪径約29.5cmで風輪の径がやや大きい。風輪は深鉢状で空輪との境のくびれは少なく、空輪はやや腰高で球形に近い。空輪先端の尖りは欠損しているが残存する尖りの基底部はやや大きめである。各部とも四方に梵字を薬研彫りしている。火輪以上の梵字は風化摩滅が進み判読しづらいが五輪四門の梵字であろう。05_2大ぶりだがやや線が細い梵字である。地輪と水輪の梵字の方角が揃っていないので積み直されている可能性が高い。06各部のサイズ、風化の程度や石材の質感などから一具のものと考えてよいと思うが、似た大きさの古い五輪塔の残欠が他にも数基分見られることから寄集めの可能性も完全には排除することができない。もっとも各部の特長、低平な地輪、水輪の形状や火輪の軒反など総じて古風を示すと見てよく、全体の統一感は保たれているように見える。無銘。造立時期について、田岡香逸氏は1300年頃と推定されている。あるいはもう少し遡らせてもいいように思うが、それでも概ね13世紀後半頃だろうか。程近い場所にある大浦観音堂五輪塔(2010年9月30日記事参照)と高島市今津町酒波寺五輪塔(2008年10月3日記事参照)の中間に位置づけることが可能な特長を示すように思われる。この外、境内にある層塔、宝塔、宝篋印塔も不完全な残欠や寄集めになっている点は惜しまれるが(中には見立物にでもするためだろうか、部材を抜き取って粗悪な後補品に入替えてあるようなものもある)、作風優秀で規模の大きいものも複数確認できる。これらについて詳しく述べることは割愛するが、鎌倉時代から南北朝時代の年代が想定できる。また、多数の小石仏や小型の五輪塔もほとんどが中世に遡るものである。

 

田岡香逸 「近江伊香郡の石造美術―西浅井町黒山・大浦と木之本町木之本―」

     『民俗文化』第104号

瀬川欣一 『近江 石の文化財』

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はお許しください。

写真左中と右中:五輪塔の隣には不完全ながら層塔が3基、宝塔が3基あります。写真左下:奥まった巨木の下には立派な宝篋印塔の笠が多数集積されています。写真右下:ずらりと並べられた小石仏と小型の五輪塔群です。よく見ると一石五輪塔や板碑も交じります。写真の手前に写っている一見すると五輪塔の火輪のように見えるのは露盤があるのでたぶん層塔の笠石です。これだけの石造物が集められているのは石塔寺や引接寺を除くとそうなかなかありませんね。しかも数だけでなく質的にも詳しく調査されて然るべき濃ーいものがあります。本文中にある大浦観音堂五輪塔も近く、嘉元2年銘の黒山道地蔵石仏(2010年10月9日記事参照)がすぐ近くにあるのであわせて訪ねられることをお薦めします。


奈良県 奈良市川上町 伴墓五輪塔

2011-10-15 09:07:12 | 五輪塔

奈良県 奈良市川上町 伴墓五輪塔

若草山から北西方向に伸びる尾根の西側斜面に共同墓地公園の三笠霊園がある。山腹の斜面を段々に整形し、棚田状になった平坦面に近現代の墓標がたくさん立ち並んでいる。01霊園の一番上から少し下がった場所に一際古そうな石塔が立ち並ぶ一画がある。03標高は150mくらいあって、たいへん見晴らし良いロケーションである。この場所は伴墓(トモバカと読む、一説にトンボバカ)と呼ばれている。この地には往昔、永隆寺という寺院があったとされる。奈良時代、八世紀初め頃、大納言大伴安麻呂(大伴旅人の父、家持の祖父)がこの近くに創建し、没後しばらくしてこの地に移されたと伝えられる。大伴氏の氏寺で伴寺と呼ばれたという。02それがやがて東大寺の末寺となり、いつの頃か廃絶して東大寺の墓所となった。さらに郷墓に発展したようで、あるいは先に郷墓があってその一画に東大寺の墓所が出来たのかもしれないが、その辺りの事情は不詳。今回紹介する五輪塔が江戸時代に東大寺の境内から移されてきた頃には既に東大寺の墓所になっていたと思われる。五輪塔はこの墓所の東寄りにあり、傍らに槙の木があるのですぐ目に付く。元禄16年(1703年)、東大寺俊乗堂付近にあったものをここに移建したと伝えられている。直接地面に据えられており基壇や台座は見当たらない。地輪下端は地面下にあって確認できない。キメの粗い花崗岩製で表面の風化が進み、細かい欠損が多い。総高約173cm、地輪は上半に比べ下半に細かい欠損が目立つ。地輪幅は約76cm、高さは約46.5cm。地輪上端面はほぼ水平で各側面中央に梵字「ア」を大きく薬研彫りする。水輪は幅約62cm、高さ約45.5cm、横張が少なく上下のカット面、つまり地輪や火輪との接合面が大きい。四方には地輪と同様の手法で「バン」を刻む。火輪は通常の五輪塔では平面(垂直投影の形)が方形になるが、これは平面三角形を呈する。この特異な形状こそ三角五輪塔と呼ばれる所以である。05火輪の軒の隅付近は少し欠損しているが、平面三角の各辺長は約78cmに復元できるという。高さは約38cm。軒先線のアウトラインは直線にならず中央で外に膨らませている。06軒端は垂直に切らず、屋根の勾配がそのまま火輪下端面に交わり軒厚がない。軒反も認められず火輪下端面は平坦で、隅降棟はむくり気味になっている。また、現状では火輪上端面に欠損による凹凸が目立つことなどから、狭川真一氏は上端面の側辺が下方に弧を描き、降棟の稜線上端が三角錐状になって風輪を抱くように上に伸びていたと推定されている。火輪上端が風輪下方にくい込むように見えるこうした形状は、噛合式と呼ばれ、古い五輪塔の特長とされる。火輪の各屋根面三方には、やはり同様に「ラン」を刻んでいる。四角形であれば各部四隅を合わせるが火輪だけが三角形なので本来火輪の隅がどこにあったのかが問題になるが、重源上人創建とされる三重県伊賀市新大仏寺に伝わる小型の水晶製三角五輪塔では火輪以下が一石彫成され、火輪の三角の隅のひとつを地輪の隅に合わせるようになっていることから、それが本来の位置だった可能性が高いことが指摘されている。この五輪塔でも現状ではそのようになっている。04_2空風輪は高さ約43cm、風輪はやや腰高で高さのある深鉢状を呈し、空輪は重心が低く押しつぶしたような蕾形でいずれも古い形状を示す。四方に梵字が認められるが風化摩滅がきつい。火輪以下に鑑み「カン」、「ケン」と思われ、各部に刻まれた梵字は大日如来法身真言「ア・バン・ラン・カン・ケン」である。三角五輪塔は俊乗房重源上人(1121年~1206年)に縁のある東大寺別所や寺院等に金属製や水晶製の舎利容器などさまざまな形で残されている。その後は何故かほとんど普及しなかったために重源上人の代名詞、専売特許のように語られることが多い。本例も重源上人自身、ないし上人にごく近しい関係者が関与して造立された何らかの供養塔、あるいは上人没後さほど間をおかずに作られた上人の墓塔と考えられている。紀年銘こそないが、重源上人との関係を考慮すれば、造立時期は自ずと鎌倉時代前期と推定され、古風な各部の形状はそれを裏付けている。重源上人の事跡、そして五輪塔を考える上で見逃せない貴重な資料である。重要文化財指定。なお、近くにある寄集め塔に積まれた段形状の部分は各部別石の宝篋印塔の部材のように見える。複数あったと思われ、どれも元はかなり巨大なものだったと推定される。その外にも伴墓には中世前期に遡るような石塔残欠が多数みられる。これらの中にも鐘楼丘付近から運ばれてきた可能性が高いものが含まれるだろう。

 

文中法量値は狭川氏の報告によります。勝手ながら便宜上数値は5mm単位で2捨3入,7捨8入としました。氏はこの五輪塔をミリ単位で実測され詳細に観察並びに検討しておられますので、詳しく知りたい方はぜひ氏の報告をご覧ください。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   藤澤典彦 「重源と三角五輪塔の周辺」『重源のみた中世-中世前半期の特質-』

        シンポジウム「重源のみた中世」実行委員会

   狭川真一 「伴墓三角五輪塔実測記」『元興寺文化財研究所 研究報告2004』

    〃   「噛合式五輪塔考」『日引』第6号 石造物研究会

 

三角五輪塔は、重源上人以降、何故かほとんど普及しなかったようです。ほとんどは近世以降の古制追従例で伴墓にも模倣品がいくつか残されています。教義上、五輪塔の火輪は本来三角形で、この形こそが五輪塔の本格だということもできるわけです。若い頃、醍醐寺で真言密教を学んだ上人の信仰、思いがこの形に表れていると考えられています。醍醐寺には上人以前から三角五輪塔の伝統があったようです。通常のように平面四角で宝形造にした火輪に比べ、見る角度によって落着きがないように思います。石の節理も考慮すると作りにくいということもあったかもしれません。この辺に三角五輪塔があまり普及しなかった原因があるような気がしますが、どうなんでしょうか。

現在の大仏殿が再興される以前の東大寺の古い境内を描いた絵図を見ると、大仏殿東方、鐘楼のある高台にいくつか石塔が描かれています。このエリアは鐘楼丘と呼ばれ、重源上人を祀る俊乗堂もここにあります。俊乗堂の傍らには今も古い凝灰岩製の層塔の残欠が残されています。現在、鐘楼丘にこの三角五輪塔があったことを示す痕跡は何も残されていません。また、源頼朝の供養塔なるものもこの辺りにあったと伝えられるそうですが、あるいは伴墓にバラバラに残された宝篋印塔がそうなのかもしれません。重源上人が建てた浄土堂は戦国期の兵火で焼失し、その故地に公慶上人によって建てられたのが今の俊乗堂ですので、その際にでも付近の石塔をまとめて伴墓に移したのかもしれませんね。その辺りの経緯には実に興味深いものがありますが、あいにく不勉強で詳しくは承知しておりません。ちなみにすぐ近くには「嶋左近尉」の名を刻んだ背光五輪板碑があり有名な戦国武将の墓塔といわれていますが、よくわかりません。

 

 

 

17世紀中葉頃に描かれた東大寺「寺中寺外惣絵図」を見ると、「俊乗石廟」という五輪塔らしき石塔が、浄土堂跡の西側、天狗社の南、高台の斜面かと思われる場所に描かれ、その東側、浄土堂跡との間に「源義朝公」、「源朝臣頼朝公」と注記のある宝篋印塔らしいものが2基描かれています。さらに浄土堂跡の東には層塔が2基描かれています。浄土堂跡にその後建てられたのが今の俊乗堂なので、これらが伴墓にある石塔であるならば、そのおおまかな当時の場所は見当がつくと思われます。「寺中寺外惣絵図」は大仏が露座に描かれ、当時の境内の様子がかなり忠実に描かれています。こうした古い絵図に描かれた石塔などをあれこれと考えるのも実におもしろいですね。

 

嶋左近は大和の人といわれています。石田三成の重臣として関が原の戦いで戦死したようです(行方不明説も)。背光五輪板碑に紀年銘はありませんが、刻まれた干支は関が原の戦いのあった慶長5年と一致し、9月15日というのもばっちりです。背光五輪板碑としての形状も概ねこの頃にものとして問題ないように思います。ただ、五輪塔の正面に、このように大きく俗名を刻むというのはあまり例がないように思いますが、どうなんでしょうか…、わかりません。興味深いですが真偽も含め後考を俟つほかありません。


奈良県 奈良市北御門町 五劫院地蔵石仏

2011-10-10 14:45:42 | 五輪塔

奈良県 奈良市北御門町 五劫院地蔵石仏

奈良東大寺の北方に近接する五劫院は思惟山と号し、東大寺末の華厳宗の寺院。本尊は五劫思惟の阿弥陀座像(木造)。10_4俊乗房重源上人が宋から将来したと伝わる鎌倉時代初期の重要文化財。02_4四十八願を成就し西方極楽浄土の教主となる以前の阿弥陀如来(=法蔵菩薩)が成道に際して五劫という長時間、瞑想思惟しその間に螺髪が伸びて大きく膨らんだ様子を表した珍しい像である。

ちなみに"劫"というのは途方もなく長い時間を表し、四十里四方の山より大きい岩盤を天女の羽衣で三年(一説に百年)に一度づつだけふわっと撫でる。それを延々と繰り返し、ついに岩盤が磨減してなくなるまでに要する時間よりも長い時間だということが『大智度論』にあるという。01その五倍が五劫でそれは一説に216億年とも言われる。03

境内北側の裏手に墓地が広がる。本堂向かって右手、墓地の入口の覆屋内に二体の石造地蔵菩薩立像が納められている。いずれも南面し、下端は土中に埋まって確認できないが、現状高で約2mはある。西側の地蔵は見返り地蔵と称される。像高約152cmのほぼ等身大で、石材は凝灰岩質とされるが、黒色で硬そうな感じを受ける。黒っぽい溶結凝灰岩ないし安山岩と思われる。下端には蓮華座を刻むようだがはっきり確認できない。舟形に整形した光背面に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りしている。お顔を左に向けてふり返り、体全体はやや右斜めに向って歩を踏み出している様子が裳裾からのぞいた足先から見て取れる。07_2これは極楽に向かう途中、引接する衆生が遅れていないか、漏らさず付いて来ているか確認のためにふり返っている姿だとされる。珍しさでは本尊五劫思惟の阿弥陀像と負けず劣らずのものである。市内では他に伝香寺に小さいものがあるという。持物は右手に錫杖、左手に宝珠の通有のもので、左手は腹の辺りに添え掌上に宝珠を載せる普通の表現だが、右腕は下ろして手を下に向けて錫杖を執り、錫杖の上半を右肩に軽く担ぐようにしている。09頭部は大き過ぎず身幅のある体躯は堂々として全体のプロポーションは均衡良く、衣文表現も含め概ね写実的で、衣裾がなびく様子などは的確に表現されている。面相はごく近くで見るとやや歪んでいるが、拝する側から見て温和に見えるようにきちんとデザインされているように見受けられる。手先や足先の表現にも抜かりはなく、作者の行き届いた配慮には目を見張るものがある。光背面の左右に細く浅い刻銘が小さい文字で刻まれている。摩滅が進み不完全だが、向かって右は「右意趣者東大寺花厳恵順…/御菩提、奉造立供養者也…」と二行、左が「永正十三…」と部分的に判読されている。08東大寺関係者による造立と知られる。永正13年は西暦1516年。石造物が粗製乱造の時期を迎える16世紀前半の作とは到底思えない素晴らしい出来映えで、太田古朴氏が後刻を疑っておられるのも首肯できる。04ただ、大和にはこのように作風優秀で時代の様式観を超越したような出来を示す例も稀に見られることから、この地蔵石仏もそうしたもののひとつに数えられるのであろう。

東側の地蔵は花崗岩製。像高約152cm。下端には剣状にした覆輪付単弁を並べた蓮華座を刻み、舟形光背に地蔵菩薩を厚肉彫りする。光背上端近くの中央に阿弥陀如来の種子「キリーク」を薬研彫りし、極楽引接の願いを込めた地蔵菩薩のお姿と推察される。右手に錫杖、左手に宝珠の通有の持物。やや頭が大きく、撫肩、痩身のすらりとした体型で、衣文表現は線刻を交えた平板な感じで写実性にはやや欠ける。姿態にも見返り地蔵のような動きやダイナミックさがなく、定型的な意匠で面白みに欠ける。ただ面相は優れ、切れ長のきりりと涼しい眼を浅く彫り沈め、端正で若々しい表情には流石に石工のクラフトマンシップ=魂がこもっているように感じられる。こうした目元の表現は、大和の石仏の手法として戦国時代以降受け継がれていく。06また、左手の宝珠に小さい蓮華座が表現されている点は面白い。紀年銘はないが、光背面左右に刻銘がある。05向かって右に「三界万霊」、左に「念仏講中」と大きい文字で陰刻され、下方には左右ともに小さい文字で結縁者の名前がたくさん刻まれている。室町時代の紀年銘を持つ他の石仏にも通有に認められる定型化した意匠表現が目立つが、細部には優れた部分も認められ、造立時期は見返り地蔵とあまり隔たりのない頃と考えられている。独創性は少ないが、仕上げは丁重で保存状態も良好である。ほぼ同大で同時期の地蔵菩薩が左右に並ぶが、一方は時代にそぐわない独創的な異形の作品、一方は典型的な室町時代の作風で、両者の違いをはっきり体感できる好材料と言える。

このほか墓地内には六字名号板碑など中世に遡る石造物が多く残されている。中でも無縁塚中央にある地蔵十王石仏は注目すべきもので、像容の風化が進み細部が失われているが等身大の立派な石仏である。鎌倉後期説、室町後期説、江戸初期説と造立時期について専門家の意見が分かれる。錫杖頭の大きいこと、整ったプロポーションなどから小生は少なくとも室町中期を降ることはないと思う。

また、墓地の一画には江戸時代に東大寺の大勧進として大仏並びに大仏殿の再興に生涯を捧げた公慶上人をはじめ東大寺関連の廟所がある。一際目を引く五輪塔が公慶上人の墓塔である。よく見ると細部には江戸時代の特徴が現れているが、壇上積基壇の上に複弁反花座を設け、各部四方には大日如来の法身真言「ア・バン・ラン・カン・ケン」の梵字を深く薬研彫りしている。五輪塔としては最高の荘厳がなされ、たいへん立派なものである。さらに墓地の入口には石造鳥居があり、「妙覚門」と刻まれた額が面白い。所謂「墓鳥居」で、「妙覚」とは、談山神社の摩尼輪塔に見るごとく(2009年5月10日記事参照)仏果の至高位を示すものと思われ、恐らく東大寺廟所に伴うものだろう。現在の額は新補で、古い額は見返り地蔵の足元に置かれている。

 

 

 

 

 

 

 

写真左上:神社でもないのに何故か鳥居が…これは墓鳥居というやつです。鳥居右手の覆屋の中にお地蔵さん達がいらっしゃいます。写真右上:お地蔵さん同士が話し合っているふうにも見えます。右上二番目:少し見上げかげんのアングルにすると一層頼もしい感じが増します。左上三番目:たいへんハンサムなお顔です。左最下:無縁塚の地蔵十王石仏。全体長方形で厚肉彫りの地蔵菩薩立像の左右に薄肉彫りの十王像があります。風化摩滅が激しいですがお地蔵さんのアウトラインから受ける感じは古そうです。この時はあまり時間がなかったので改めて詳しく観察する必要がありそうです。右最下:公慶上人の墓塔です。復古調の五輪塔で、梵字は五輪四門かと思いきや大日法身真言でした。

 

 

 

参考:太田古朴  『美の石仏』

   清水俊明  『奈良県史』第7巻石造美術

   川勝政太郎 『石の奈良』

    〃    新装版『日本石造美術辞典』

   望月友善編 『日本の石仏』4近畿篇

 

 

 

 

 

見返り地蔵、あるいは見返し地蔵とも言いますが、お顔は童顔温和ながら体躯はどっしりして頼もしく、写実性と動きのあるダイナミックな表現で鎌倉時代なんじゃないかと思ってしまいます。永正じゃなくて永仁でも不思議でないような出来映えですが、衣文には少々ざっくりしたような粗いところもあり、うーん正直混乱しますね。こういうのは特異な事例として埒外に置いておくほかないのでしょうか…。いずれにせよ素晴らしい作品だということだけは確かです。なんか隣の地蔵さんの方を気にしているような位置関係が面白いですね。


奈良県 奈良市菖蒲池町 称名寺五輪塔ほか

2011-02-18 01:41:14 | 五輪塔

奈良県 奈良市菖蒲池町 称名寺五輪塔ほか

近鉄奈良駅の北西、約300mにある日輪山称名寺は、浄土宗西山派に属し、茶祖・村田珠光に縁深い寺として有名である。07文永二年(1265年)興福寺の念仏道場として開かれ、興福寺の別院として、浄土、法相、天台、律の四宗を兼ね、興北寺とも称されたという。05本堂の東側から北側にかけて境内墓地が広がり、東側の塀沿いには大量の小石仏や石塔が集積されて一大偉観を呈する。一説に松永久秀が多聞山城の壁材として使ったもので、城の破却後、散乱していたものを集めたというが、確かなことはわからない。その数は約二千体といわれる。ざっと見渡したところ、最も多いのは箱仏(石仏龕)で、小型の五輪塔、板碑、小型の通常石仏、背光五輪塔などが見られる。06_2ほとんどが室町時代以降のもので、これだけたくさんの石仏・石塔が集められているにもかかわらず、一石五輪塔を見かけないのは奈良の地域色であろう。墓地の入口に近い小屋内には大型の石仏四体が並ぶ。全て花崗岩製で、向かって右端は、舟形光背の頭光円に蓮弁を刻む来迎印の阿弥陀如来立像で、等身大のすらりとしたプロポーションの非常に丁寧な作風。04_3室町時代後半という説もあるが、もっと古いかもしれない。その右はオーソドクスなスタイルの地蔵菩薩立像で、舟形光背の上部に阿弥陀の種子「キリーク」を陰刻する。大永七年(1527年)の紀年銘が肉眼でも読め、大勢の結縁者名が下方に刻まれている。01_2その左は破損の激しい地蔵菩薩立像で、向かって左脇光背面に線刻の観音菩薩立像が残る。尋常でない破損状態は火中したためと思われる。面相部は剥落し、ところどころ黒ずんで、いくつかに折れたものをセメントで接いだお姿が痛ましいが、観音の線刻を伴うのは非常に珍しい意匠で、諸所に優れた作風の痕が見て取れる。室町時代前半のものと考えられている。02左端の地蔵菩薩立像はやや小さく、二つに折れたのを接合してあるが、頭部と胴部の色調や風化の程度がずいぶん異なる。このほか、石仏・石塔群の北寄りには、数体のやや大型の箱仏が並べられ、中央に弘治二年(1556年)銘の地蔵菩薩立像が立っている。舟形光背の上部にキリークを刻むのは大永銘のものと同じである。ずらりと並べられた小石仏や箱仏の多くは錫杖を持つ地蔵菩薩で、阿弥陀はほとんど見当たらない。京都ではこの逆の現象が見られるが、これも奈良の特色とされている。

最も注目されるのは、墓地の東寄りの一画にある立派な五輪塔である。数枚の延石を方形に並べた基壇上に反花座を置き、その上に各部完存の五輪塔を据えている。総高約210.5cm、塔高約180.5cmの6尺塔である。総花崗岩製で、地輪の幅は約65.5cmで高さ約46.5cm。水輪の径約60cm。火輪の軒幅約61cm、高さ約37.5cm。風輪の幅約37cm、空輪幅約34.5cm。03複弁反花座は幅約92.5cmで、四隅が間弁、一辺あたり主弁4枚の典型的な大和系のものである。西側の地輪下端中央と接する反花座上端に小穴があって深く奥につながっている様子である。これは細かく砕いた火葬骨片を挿入した納骨穴と思われ、原位置を保っているか否かは不明だが、恐らく塔下に骨瓶なりが埋け込まれていたのだろう。塔下に骨を納めることにより、五輪塔の功徳にあやかるべく墓地の惣供養塔として造立されたものと考えられる。各部とも全くの無地で無銘。空輪先端の尖りがほんの少し欠ける以外は欠損が見られず、反花座も一具のもので保存状態は極めて良好。全体によく洗練され整美な印象で、豪放感よりも温雅な雰囲気がある。地輪がやや高めで、空風輪のくびれが大きく、軒口は重厚だが軒反が少し隅に寄り過ぎて力強さが若干足りないこと、あるいは反花座の蓮弁の様子などから、造立時期は恐らく鎌倉末から南北朝初め頃、概ね14世紀前半頃と推定して大過ないだろう。反花座を備えた典型的な大和系の五輪塔で、梵字等を全く刻まないのは律宗系のスタイルともいわれる。

 

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術

      元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成四年度調査概要報告

 

 

五輪塔はもちろんですが、大量に集積された箱仏群は一見の価値があります。これだけあっても在銘品はほとんどないそうです。それにしてもさまざまな石仏・石塔のオンパレード、よく見ると名号板碑や笠塔婆、南北朝は降らないだろう宝篋印塔の笠石、梵字を彫った低い地輪残欠、像容板碑などもあって、一様ではありません。奈良の中世、特に室町時代以降の石仏・石塔の様相を端的に知ることができる場所として、石造マニアにとっては非常に興味深いスポットといえるんじゃないでしょうかね、ハイ。


滋賀県 長浜市西浅井町大浦 大浦観音堂五輪塔ほか

2010-09-30 23:13:42 | 五輪塔

滋賀県 長浜市西浅井町大浦 大浦観音堂五輪塔ほか

琵琶湖の最北端、南に向かって細長く突き出した葛篭尾半島の付け根の西側に位置する大浦。現在は市町村合併で長浜市になっているが以前は伊香郡西浅井町。古来、湖北水上交通の要衝として知られ塩津、海津と並ぶ湖北三湊のひとつに数えられた。05_2その歴史は古く万葉集にも詠われている。また、中世の大浦庄に比定され、半島先端付近にある菅浦地区に残された「菅浦文書」と呼ばれる古文書(重文)には鎌倉時代から室町時代にかけてくり広げられた相論の相手方として登場する。大浦観音堂は集落北東の山裾に位置し、天台宗に属する。別名「腹帯観音」と呼ばれ安産の祈願所として知られる。04以前は東方の八幡宮の別当寺のような存在だったようで、明治期に神社から分離され現位置に移されたという。お堂前の広場は小公園になり、ほとんど廃寺同然になっている遍照寺という時宗のお寺と境内を分け合っているような状態である。02お堂のすぐ南東側、石造物が集められている一画に際立って立派な五輪塔がある。花崗岩製。直接地面に置かれているようで台座や基壇は認められない。地輪下端は埋まって確認できないが現状塔高約192cm。地輪の上端幅は約90cmある。昭和47年3月、地輪下端を掘り出して調査された田岡香逸氏の報文によれば総高は196cmとあるから5cmほど地面に埋まっているようである。同報文によれば地輪幅は下端で約96.2cm、地輪の高さは右(南)側で40.2cm、左(北)側で49.3cmというから下端が不整形で、高さは幅の半分程度しかなく地輪の背が低くく裾拡がりの形状であることがわかる。水輪は高さ約55.5cm、最大幅約77cm、上下のカット面が大きく横張が少ない球形に近い形状を呈する。火輪は軒幅約77.5cm、上端幅約33.5cm、高さ約39.5cm。軒口はあまり厚くなく中央で厚さ約10cm、隅で約12cm03火輪は全体に低平で下端面は平らに仕上げ、軒反は隅近くで軽く反転する程度。屋根の勾配は緩く屋だるみはほとんどみられず、四注の描く線はおおむね直線的である。空風輪は一石で彫成し、高さ約52cm、風輪は背が高く深鉢状を呈し、最大径約38cm、くびれ部分の径は約28cm、空輪の最大径は約36cmで中心よりやや低い位置に最大径がある。各輪には五輪塔四門、すなわち上から「キャ、カ、ラ、バ、ア」の四門展開の梵字を各輪に配しているが、その構成や展開の仕方が通常と異なり変則的なものとなっている。彫りが浅く風化も進行して空風輪の梵字は肉眼では確認しづらい。水輪は北側と南側はバン、東側バー?(涅槃点のようなものが左側にあるように見える)で、西側は舟形光背を彫り沈めて胎蔵界大日如来ないし阿弥陀如来と思われる定印を結んだ座像を半肉彫りしている。地輪は西側アン、南側アーク、東側アーンクで北側は左にウーン、右にシリキエンを並記している。川勝政太郎博士はこのウーンとシリキエンについて釈迦如来の脇侍である文殊、普賢の二菩薩ではないかと推定されている。いずれの梵字も独特の書体で大きく浅く薬研彫される。以上述べてきた特長をおさらいすると、①地輪が低平、②地輪が裾拡がり、③水輪の上下のカット面が広い、④水輪が横張の少ない球形、⑤火輪が低平、⑥軒口が厚くない、⑦軒反が顕著でない、⑧風輪の背が高めで深鉢状、⑨空輪の重心が低い、⑩浅く大きい梵字の薬研彫、⑪変則的な梵字の配置といったところであろうか。紀年銘は認められないがこうした各部、細部の特長、さらには安定感のある塔姿全体から醸し出される古雅な雰囲気を総合的に考慮すればこの五輪塔が非常に古いものであることがわかる。造立時期について、田岡香逸氏、川勝政太郎博士ともに鎌倉時代中期、それも前期に近い頃のものと推定されている。五輪塔としては近畿でも屈指の古塔に数えられ、近江では最も古い様式を示す五輪塔として極めて注目すべき優品である。ただ、地輪が南側に少し傾いてきており、水輪から上が不安定でグラグラと動く状態になっているのが気にかかる。このままでは遠からず倒壊のおそれがあり早急な保存措置が望まれる。01_2

また、すぐ傍らには珍しい双身の板碑が数基ある。板状の花崗岩で上部を山形に整形した2基がくっついたような形状を呈する。保存状態のよい中央のもので現高約80cm、幅は下端近くで約54cm、上方で約51cm。厚さは約13~14.5cmである。中央上部に諸尊通有の種子「ア」を陰刻する以外は何も刻まれていない。碑面は平らで二条線や額部は省略されたものか表現されない。種子の出来もいまひとつであることから、室町時代でも後半に降るものと推定される。あまり類例のない貴重なものである。このほかにも小型の五輪塔や宝篋印塔の残欠、一石五輪塔や石仏が見られる。いずれも中世に遡る石造物である。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸 「近江伊香郡の石造美術」-西浅井郡黒山・大浦と木之本町木之本-

        『民俗文化』第104号

 

湖北もこのあたりまでくると広々とした湖水の量感が違いますね。道路もよく整備され、かつ自然豊かで風光明媚な景色が車窓に流れていきます。実に快適なドライブです。もっとも陸上交通が今日のような姿になったのは近代以降で、それまでは湖上水運がメインでした。大浦も若狭、越前方面と近江、さらには大和・京都などを結ぶ水上交通の要衝、つまり人と物が集まる場所だったわけで、古い歴史を秘めた土地柄といえます。そしてそこに古い石造物が残っている。いろいろと考えさせられるものがありますね、ハイ。ここの五輪塔は小生の最もお気に入りの五輪塔の一つです。2m近い大きさがあってどっしりとした安定感があり、古色然とした雅な雰囲気に魅せられます。水輪の像容がデザインのポイントになっていますよね。これまでに何度か来ていますがいつも立ち去り難い気分にさせられます。ちなみに観音堂の脇から裏山に向かう小道を少し登っていくと石造物が集積された一画があります。裏山は現在砂防工事が行なわれており、工事に伴ってあたりにあった石造物を集めたとのことです。実はここにも最近発見された極めて注目すべき遺品がありますがこれは改めてご紹介します。


滋賀県 東近江市瓜生津町 弘誓寺五輪塔

2010-08-13 00:07:43 | 五輪塔

滋賀県 東近江市瓜生津町 弘誓寺五輪塔

金剛山弘誓寺は瓜生津町集落の西寄りにあり、国道307号線のすぐ東側に本堂の屋根が見える。02那須与一の子孫が建てたという近江七弘誓寺の一つに数えられる。浄土真宗本願寺派。茅葺の古風な山門が何ともいえず印象的である。本堂の南、最近新調され白壁が眩しい土塀沿いに立派な五輪塔が立っている。06つい数年前までは大きい切株の傍らにあって雑木や草に囲まれていたのがずいぶんすっきりして見やすくなった。玉石敷の区画内に置かれている。現状では台座は見られないが一見して大和系の様式を示す五輪塔であることがわかる。花崗岩製。地輪下端は埋まって確認できないが現状の地表高約183cm。地輪は幅約72cm、高さは37cm以上ある。地輪上端面に約48.5cm×約37cmの長方形の穴が開いている。西側の側面に穿孔されているので、過去に手水鉢に改変されたものと考えられる。05水輪は径約62.5cm、高さ約51cmだが水輪下端が地輪上端面の手水鉢の穴にはまり込んでいるので本来の高さは幾分高かったと思われる。重心がやや上寄りにあるが裾のすぼまり感は少ない。火輪は軒幅約65cm、軒口の厚さは約13cm、隅で約17.5cm、垂直に切り落とした分厚い軒口と隅増しがあまり顕著でない軒反りはなかなか力強い。四注の屋だるみも適度で風格がある。空風輪は高さ約51cm、空輪径約33cm、風輪径約35.5cm。空輪先端の尖りもよく残っている。03_3水輪や空風輪の曲面の描く曲線もまずまずで直線的な硬さはそれほど感じさせない。各部とも素面で梵字や刻銘は認められない。無銘ながら上記の特長から造立時期は鎌倉時代後期、14世紀前半頃に遡るものと考えられる。さらにこの五輪塔の東南側に細長い五輪塔婆が立っているのを見落としてはならない。これは半裁五輪塔、板状五輪塔などと称される類の塔婆の一種で、大和や京都でしばしば見かけるが近江ではあまり見かけない。花崗岩製で一石彫成され、下端は埋まって確認できないが地表高約115cm、幅は地輪下方で約25cm、火輪と風輪の間の狭いところで約12.5cm。厚みは17~18cmで空輪の背は丸くして正面に擦り付けている。04背面は粗く彫成したままで断面かまぼこ状を呈し、下端近くは太く残して根を作り地面に埋め込んでいたことがわかる。正面のみ平らに整形し、側面は各輪の境目を彫成した切れ込みが及んでいる。地輪部は下端から65cmほどあって「南無阿弥陀佛」の名号が大きく陰刻してある。地輪上端線の下26cmほどのところで折れたのを接いでいる。各輪の間は浅く線刻して区画し、梵字は見られない。地輪の左右側面に刻銘があるのがわかる。01肉眼では判読が難しいが、向かって右は「比丘尼専心尼貞和二年二月一三日」、左が「同五月十二日施主寂聖…」とのことである。南北朝時代初めの貞和二年(1346年)の造立であることがわかる。この種の五輪塔婆の紀年銘としてはかなり古い部類に属し、六字名号を刻む五輪塔としても古い例になり注目される。近江ではこの時期の石塔としては宝篋印塔や宝塔が圧倒的であるが、その真っ只中にまぎれもない大和系の様式を示す大型の五輪塔と古い紀年銘を持つ半裁五輪塔が存在する点は見過ごせない。弘誓寺は浄土真宗の古刹であるが、東側に隣接する慈眼寺(曹洞宗、現在は会所と児童公園になっている)に観音菩薩の金銅仏(奈良時代、重文)が伝来していることも考え合わせると、前身となる何らかの大和の影響を受けた寺院があった可能性を示しているのではないだろうか。また、瓜生津町から程近い大森町の極楽寺にも反花座を備えた大型の五輪塔がある点も興味深い。

参考:元興寺文化財研究所「五輪塔の研究」平成4年度調査概要報告

   〃  〃  平成6年度調査概要報告

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

文中法量値はコンベクスによる実地略測によりますので多少の誤差はご容赦ください。

写真左上:現在の様子、写真右下:数年前の様子。基本的には変わってませんが…周囲が変わると見え方も違って見えますよね。写真左下:半裁五輪塔の後ろ姿です。弘誓寺は存覚上人との関係が取り沙汰される由緒ある真宗寺院だそうですが、写真でもお分かりかと思いますがいわゆる律宗系とか西大寺様式などと呼ばれる五輪塔とお見受けします。一般的に浄土真宗は石塔に関してはあまりご縁がないんですがどういうわけなんでしょうか…。また、いうまでもなく近江は比叡山のお膝元、しかもこの付近は得珍保など比叡山の荘園も多い場所です。当然その影響が強かったことは想像に難くないわけですが律宗の教線ものびていたんでしょうかね?いずれにせよ金太郎飴のようにどこもかしこも天台一色と割り切れない複雑な状況が何となく見え隠れする気がします。逆に考えると昔の人は宗旨的なことに存外おおらかだったのかもしれませんね、そういえば八宗兼学という言葉もあるようです。いろいろと興味は尽きません、ハイ。


滋賀県 東近江市五個荘川並町 乾徳寺宝篋印塔ほか

2010-07-24 01:29:18 | 五輪塔

滋賀県 東近江市五個荘川並町 乾徳寺宝篋印塔ほか

臨済宗浄光山乾徳寺は観音寺山(繖山)の東麓、山頂付近にある観音正寺のちょうど真東、直線距離で約1㎞の場所に位置する。01お寺のある山麓周辺は楓の木が多く紅葉公園として親しまれており、楓と苔が静寂な風情を醸し出す趣きのあるの境内である。02石段を登り山門をくぐると正面に本堂があり、向かって左手、鐘楼の南に境内墓地がある。墓地の東端に宝篋印塔が立つ。これが昭和45年、佐野知三郎氏が『史迹と美術』407号に公表され世に知られるようになった著名な宝篋印塔である。相輪を失い空風輪と火輪を一石で作った小型の五輪塔が代わりに載せてある。表面に苔があまり見られず白っぽい花崗岩の石肌が鮮やかな印象を受ける。笠上までの現存高約118cm、相輪があれば約180cm程の6尺塔と推定される。基礎は平面正方形でなく南面と北面で幅約58cm、西面と東面で幅約61cm、側面高約38cmと割合背が高い。しかし佐野氏の発表の翌年に発行された『民俗文化』88号の田岡香逸氏の報文によれば下端から約6cmは未整形で地表下に埋める前提であったと思われ、幅に対する側面高としては6cm差し引いて考えるべきとの見解が示されている。したがって初めから台座などは伴わず直接地面に基礎下端を少し埋け込んで据えられていたと推定することができる。03_2上端は二段式で各段とも比較的高くしっかり彫られている。基礎側面は方形に枠取りした輪郭内に格狭間を入れ、格狭間内を各面ともよく似た意匠の三茎蓮のレリーフで飾っている。格狭間は花頭部分が水平方向によく伸び側辺の曲線もスムーズで古調を示している。南面の左右の束に「右為慈父沙弥西仏」、「永仁五年(1297年)丁酉七十三□□/□□」の刻銘があるとされる。永仁五は肉眼でも確認できるが下方は確認しづらい。七十三は月日を略した表現で、7月13日である。三茎蓮の図案はいずれも左右ほぼシンメトリで茎が大きく湾曲して葉が下を向き中央茎は未開敷蓮花、つまり蕾としている。輪郭、格狭間ともに彫りが浅い。塔身は舟形光背を彫り沈め四方仏座像を半肉彫する。像容はやや上方に偏って光背上端に頭がつっかえる程だが下方に蓮華座は確認できない。西側に定印の阿弥陀像があるのが確認できる。高さ約29.5cm、幅約29cm。笠は上六段下二段。笠下の二段は笠上の六段に比べ薄い。軒幅約54cm、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がる隅飾は三弧輪郭式。8面とも輪郭内に円相を平板陽刻した中に通有種子のアを陰刻する。あるいは胎蔵界大日如来であろうか。相輪の亡失が惜しまれるが、各部のバランスがよく、意匠表現も丁重で手堅い手法を示す。また、石材の特性かもしれないが全体に表面調整はやや粗い感じがあり白っぽい色調とあいまって独特の趣きがある。04さらに墓地の南端には宝篋印塔の基礎の上に五輪塔の水輪を積み、さらに宝塔の笠を載せた寄集塔がある。最上部には小さい五輪塔の火輪以上を載せている。三種類の石塔のハイブリットながら何となく全体に釣り合って見えるのは面白い。いずれも花崗岩製でよく見ると風化の度合いが違う。宝篋印塔の基礎は幅約68cm、側面高約34cm。上二段で永仁塔よりひとまわり大きく、幅に対する高さが低い。各側面は輪郭格狭間式で格狭間内は素面。彫りが浅いのは永仁塔と同様で、左右の束の幅がかなり広い。こうした特長は永仁塔と同時期かむしろ古調を示すものである。05下端はやはり不整形で台座などを伴わなかったものと推定できる。五輪塔の水輪は高さ約48cm、径約55.5cmでやや裾すぼまり感があるが背が低く側線はスムーズで四方に「バ」の四転、「バ、バー、バン、バク」の梵字を浅く大きめに薬研彫している。これらの特長は、近くにある金堂馬場の五輪塔(正安二年(1300年)銘で近江在銘最古の五輪塔)よりも古調を示す。宝塔の笠は軒幅約56.5cm、高さ約38cm。頂部に露盤と四注の隅棟の突帯を刻出し、笠裏に二段の垂木型ないし斗拱部を表現する段形が見られる。軒口がやや薄く少し隅増しのある軒反で温雅な雰囲気があり、鎌倉時代末から南北朝初め頃、概ね14世紀第2四半期頃のものと思われる。さらに墓地の北西隅にも宝篋印塔の基礎がある。側面は壇上積式で四面とも格狭間内に開敷蓮花のレリーフを入れる。幅約42.5cm、下端がコンクリートで固められ確認できないが地表高現状で約28cm。上二段で羽目と格狭間の彫りが深く、その分開敷蓮花の突出が目立つ。また、上端面にあるべき枘穴があるようには見えない。佐野、田岡両氏の報文の写真では昭和45年当時、寄集塔の宝篋印塔基礎と五輪塔水輪の間に挟んであったようである。だいたい宝塔の笠と同じ頃のものではないだろうか。これらはどれも寄せ集めや残欠であるが、それぞれに古い特長や優れた手法を示す注目すべき遺品である。この墓地、あるいはここからそう遠くない場所に少なくとも13世紀末から14世紀中葉頃にかけての宝篋印塔が永仁塔の外に2基、さらに五輪塔と宝塔が1基づつ存在したことを示している。

参考:佐野知三郎「近江の二、三の石塔」『史迹と美術』407号

   田岡香逸「近江川並の乾徳寺の石造美術」『民俗文化』88号

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   池内順一郎『近江の石造遺品』(上)

佐野知三郎氏も指摘されるように、旧八日市の永仁三年(1295年)銘の妙法寺薬師堂塔とは年代的にも地理的にも近く、規模もよく似ているにもかかわらず、隅飾や基礎の格狭間などの意匠表現に際立った相違点があり、両者を比較検討することは13世紀末頃におけるこの地域の宝篋印塔のあり方を考えるうえで興味深いことですよね。これに対し、田岡香逸氏は報文中で佐野氏を厳しく非難し「一体全体、何が興味深いのか読者に理解できるだろうか。こんなあいまいな主観的表現は、無意味というだけでなく、百害あっても一利なしというべきである。もっと具体的で、客観性の豊かな表現に努め誰でもが安心して利用できる資料を紹介すべきであろう。」と書かれています。情熱の裏返しだと思うのですが田岡氏にはしばしばこのての過激な非難癖があり、せっかくの業績に疵を残す結果になっていることは残念なことだと思います。池内順一郎氏も田岡氏のこの「悪癖」について、わざわざ1ページを裂いて列記され「次のことばを戒めとして書き留めおく。登高使人心曠、臨流使人意遠(菜根譚 後集百十三)、多言は敗多し(孔子家語 観周)」と締めくくっておられます。蓋し名言です、ハイ。