石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市右京区梅ヶ畑高雄町 神護寺文覚上人廟所の石造美術

2010-02-20 00:58:49 | 五輪塔

京都府 京都市右京区梅ヶ畑高雄町 神護寺文覚上人廟所の石造美術

神護寺多宝塔の裏手の山道を600m程爪先上がりに登っていくと見晴らしの良い尾根の先端部分に神護寺の中興の祖とされる文覚上人(1139~1203年)の廟所がある。01玉垣の中に壇上積の立派な基壇をしつらえ、その中央に五輪塔がある。02高さは120cm弱の四尺塔である。花崗岩製で表面の風化は進んだ印象。地輪、水輪、火輪、空風輪の4石からなる。各輪とも素面で梵字はみられない。地輪の背は低く安定感があり、水輪は地輪や火輪に比べてやや小さい印象を受ける。横張りが少なく上下のカット面はやや広めにとっているようだが、最大径が下方にあって下ぶくれになっている。あるいは天地を逆に積まれているのかもしれない。05火輪は全体に扁平で屋だるみは緩く伸びやかで四注の照りが顕著でない。軒口はそれ程厚くなく、軒反は全体に緩く反って真反に近い。火輪頂部は狭く、風輪は高さがある深鉢風で空輪との境目はあまりくびれない。空輪はやや球形に近い宝珠形で風輪に比べ小さい。曲線部分に直線的な硬さは感じられない。特に空風輪や火輪の形状は古風で鎌倉時代中期を降らないものと考えられている。04ただ、五輪塔としては決して大きいものではなく、各部のバランスやデザインの完成度という点でいまひとつの感は禁じえない。これを未成熟とみるか退化とみるかで造立年代の評価が分かれるだろう。03_3そういう意味で、なお造立年代の推定には慎重さが求められるように思う。ただし、各地でたくさん見られる同じような大きさの室町時代の五輪塔とは明らかに異なる風格があることだけは確かである。基壇上端面は砂利が敷かれ、四隅近くに4個の礎石が残っている。礎盤風の円形の繰形を設け、直角方向に各2ヶ所、地貫を差し入れたと思われる溝を彫っている。これらの礎石は宝形造の木造建築の四柱を支えたものと考えられ、基壇上に建つ廟堂があったものと推定される。周辺に瓦の破片などは見当たらないので、恐らく桧皮葺のごく小規模な五輪塔の覆堂であったと思われる。この廟堂の屋根に載せられていたと思われる石造露盤が基壇の向かって右側に置いてある。花崗岩製。総高約95cm、05_2露盤本体部分と宝珠部分の2石からなる。幅約77.5cm、側面高約21.5cmの露盤本体は、側面を二区に枠取りした内にそれぞれ格狭間を配し、上端面中央に径約69cm、高さ約13.5cmの平らなドーム状の伏鉢を配し、その上に複弁八葉の反花の宝珠受座を刻み出している。03_2受座中央に径約11cmの枘穴を穿ち、宝珠部分下端の枘を差し込む。宝珠は径約33.5cm、完好な曲線を描くが最大径が下寄りにあって重心が低い。宝珠下方に細い首部を設け、小花付単弁の請花で下端を飾っている。宝珠と首部をあわせた高さは約49cm。小さいお堂には不釣合いなほど立派な石造露盤である。宝珠や伏鉢の描く曲線、受座の複弁反花、側面の格狭間など鎌倉後期の石塔などと共通する意匠様式を示す。02_2露盤は宝形造の建築の屋根の頂部に配され、瓦製や金属製のものがほとんどで石造のものは珍しい。石造の露盤は鎌倉時代を中心にいくつか事例がある04_2が、この石造露盤は遺存状態も良好で意匠・彫技とも優れた白眉といえる。文覚上人の没年は13世紀初頭であるが、五輪塔、石造露盤の造立年代はそこまで遡らせて考えることは難しい。基壇やそこに残された礎石も含め廟堂が建てられた経緯や詳細は謎であるが、廟所は上人没後しばらくたってから、何度かの段階を踏んで整備されたものと考えることができるだろう。なお、文覚上人廟所の東側に隣接して後深草天皇皇子、性仁法親王(1267~1304年)の墓所がある。玉垣内に同様の壇上積基壇と五輪塔がある。五輪塔は文覚塔とほぼ同規模でよく似た印象の花崗岩製のものであるが、火輪の形状などから時代はやや降るものと考えられている。

参考:川勝政太郎新装版「日本石造美術辞典」

      〃    「京都の石造美術」

   服部勝吉・藤原義一「日本石造遺宝」上

   藤沢一夫「石造露盤」-古建築関係資料(1)-『史迹と美術』186号

廟所の玉垣内には立ち入れません。神護寺の復興を直訴して後白河院の逆鱗に触れ、流された伊豆で知り合った頼朝に平家打倒の挙兵を促したとされる胆力と行動力の人、文覚上人が眠る廟所は京を見下ろす日当たりの良い静かなロケーションにありました。明恵上人の師匠のそのまた師匠に当たり、若い頃の明恵上人に特に目をかけていたと伝えられます。露盤の法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。


京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その2)

2009-12-29 11:35:48 | 五輪塔

京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その2)

信西入道の孫にあたる解脱房貞慶上人(1155年~1213年)は興福寺の学僧として期待を集めながら、理想とかけ離れた南都仏教界の現実を嫌って、弥勒信仰の聖地であり、東大寺の良弁や実忠ゆかりの地であるこの地に隠遁した。04時に建久4年(1193年)のこととされる。貞慶上人の止住以来、12世紀末から13世紀初頭にかけて般若台と称される六角堂や本尊である弥勒大磨崖仏の脇に木造の十三重塔が建てられるなど寺観は整備が進んだとされている。01_2その頃の様子は、大和文華館蔵の笠置曼荼羅図からうかがうことができる。貞慶上人は鎌倉期における笠置寺中興の祖といえるだろう。その後の元弘の乱で上人が心血を注いだ当時の伽藍が灰燼に帰したことは惜しみても余りあることである。遁世後も興福寺との関わりが途切れることはなく、勧進の手法を用いて興福寺をはじめとする関係寺院の復興などに力を注いだことが知られ、興福寺の雅縁僧正、東大寺の重源上人などとの交流や後鳥羽院や九条家などとの接点もあったらしい。今も寺の鐘楼に残る梵鐘には、建久6年、南無阿弥陀仏“大和尚こと俊乗坊重源上人から般若台に寄進された旨が刻まれている。梵鐘は駒の爪と呼ばれる口縁部分に切れ込みを設け、下端を六葉に見立てた一風変わった意匠が特長で、重源上人お得意の中国風を取り入れたものと解されている。梵鐘を見上げれば底面に刻まれたこの貴重な刻銘を間近で見ることができる。さて、笠置寺の東側、谷を隔てた尾根上に墓地がある。02その一画に残る立派な五輪塔の立つ場所は、貞慶上人の廟所と伝えられている。板状ないし平らな面を上向きになるようにした石材を径およそ4.5mほどに半円形に敷き詰め、その中央に板状の石を立て並べた対辺径約2.9m、現高約45cmの平面八角形の基壇を設けている。基壇の上端面にも同様に板状の自然石を敷き詰め、基壇中央に台座を設けず地輪を据えている。03この基壇下の敷石や基壇が当初からのものか否かは不詳であるが、そうだとすれば面白い構造である。また、数本の円柱が基壇を取り囲むように敷石の中に立っているがこれらは後補であろう。五輪塔本体は、地輪の下端が少し埋まって確認できないが、現高約165cm、地輪現高約36cm、幅は約63.5~65cm、水輪幅約60cm、高さ約47.5cm、火輪軒幅約64cm、高さ約36.5cm、軒厚は中央で約11.5cm、隅で約13cm、火輪の上端幅約27.5cm。一石作りの空風輪は高さ約44cm、風輪幅約35.5cm、空輪幅約31.5cmである。良質の花崗岩製で、各輪四方に雄渾なタッチで上から、キャ・カ・ラ・バ・アの五輪の梵字を大きく薬研彫している。地輪は低く、水輪は球形に近く、上下のカット面を広めにとって横張りが目立たない。火輪は比較的背が低く、軒口は厚めで中央の水平部分が狭く真反ではないがそれに近い緩い軒反の印象で、軒の厚みの隅増は顕著でない。四柱の照りや屋だるみも緩く感じられる。また、空風輪のくびれは少なく、風輪がやや大きい。空輪の宝珠形は最大径が下寄にあって重心が低く、整った形状で直線的な硬さは微塵も感じさせない。こうした外形的な特長は、いずれも古い五輪塔に見られる様相を示し、すくなくとも鎌倉中期を降るものでないことは確かであろう。この五輪塔を伝承どおり貞慶上人の墓と直ちに断定することは控えなければならないが、上人の示寂は建暦3年(=建保元年、1213年)であるから、没後間もなく建てられたものと仮定すれば鎌倉前期、13世紀前半の造立となる。全体に表面の風化が進んでいるが、大きな欠損は見られず、遺存状態は良好で、古い形態の五輪塔を考えていくうえで貴重な存在である。(続く)

 

木漏れ日の中に静かに佇む五輪塔、雄渾な梵字、清楚で安定感のある姿には、特に印象深いものがあります。戒律を重んじた上人の法灯・遺風はやがて西大寺叡尊や唐招提寺覚盛らに受け継がれ南都仏教復興の礎となっていくということを考える時、立ち去り難い思いに駆られます。隠遁後も活発に活躍された貞慶上人に対して、面会に笠置を訪れた南都系仏教界の一方のエースと目された明恵房高弁上人は笠置寺の盛況を見て、隠遁っていうけどそんなでもないんじゃないの、といささか皮肉めいたことを言って会わずに帰ったそうで、ショックを受けた貞慶上人は笠置を去り、海住山寺に再隠遁されたそうです。また、法然上人の専修念仏を厳しく非難された貞慶上人ですが、法然上人と良好な関係だったと思われている重源上人とは仲が良かったみたいで、なんとも複雑な人間関係ですね。笠置寺からは、舎利殿脇の小道に沿って一度谷に下りてから尾根を登る片道約800mの場所にあります。山道を進むと突然墓地が現れびっくりします。現地は現在も一般の方が使われている墓地の一画です。貞慶塔のコピー五輪塔があります。ごく新しいものですがよく出来ているので間違わないようにしてくださいね。この墓地には他にも注目すべき石造美術がありますので、追ってご紹介いたします。なお、山道沿いには子院跡と思しき平場がいつくかみられ、道脇の岩壁面には地蔵の厚肉彫立像があります。さらに石塔の残欠や箱仏がかなり散見されます。これら山道沿いにみられる石造物はいずれも室町時代以降のものと思われますが、中世墓の存在を予感させます。落ち葉の下に56億7千万年後に弥勒への結縁を願った先祖達が眠っているのかもしれませんね。それから例により文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご諒承ください。


奈良県 宇陀市室生区無山 牟山寺五輪塔ほか

2009-11-06 20:28:15 | 五輪塔

奈良県 宇陀市室生区無山 牟山寺五輪塔ほか

無山から多田に通じる県道西側、無山集落の北端近く、丘陵裾に南面する檜尾山牟山寺。01境内東端の少し高い場所に真新しい層塔と並んで立派な五輪塔が立っている。従前花崗岩製とされているが、黒っぽい色調や多孔質の表面から通常の花崗岩とは明らかに異なり、この地域でよくみかける室生火山岩系の石材で流紋岩質溶結凝灰岩ないし安山岩とすべきと考える。02上下2段の切石基壇をしつらえ反花座をその上に据えて地輪を載せている。反花座下の基壇中央には空間が設けられていることが基壇石材の隙間からうかがえる。下基壇は大小7枚の長方形の板状の切石石材を方形に組み合わせ、約1.3m×約1.43m、高さ約23.5cm、上基壇は大小5枚の石材を組み合わせたもので約0.95×約1.1m、高さ約19cm。反花座は幅約77.5cm、高さ約23cm、側面高約11.5cm。一辺あたり主弁4枚の複弁式で隅弁が小花になる大和系のもの。各蓮弁の彫成は丁寧に仕上げられている。受座部分は高さ約1.5cm、幅は基底部で約59cm、上端で約57.5cm。五輪塔本体は塔高約168cm、地輪は幅約54cm、高さ約42cmとやや背が高く、水輪径は約57cm、最大径がやや上寄りにあるが裾がすぼまる感じはそれ程強くない。05_3火輪は軒幅約51cm、高さ約33.5cm、軒口の厚みは中央で約10.5cm、隅では約14cmと隅にいくに従って厚みを増しながら力強い軒反をみせる。風輪径約33cm、空輪径約32cm。空輪が相対的に大きいのが特長で、宝珠形というよりは球形に近く先端の突起部の突出が割合はっきりしている。水輪や火輪、空風輪の曲線部分はスムーズな弧を描き直線的な硬さはほとんど感じられない。06こうした外形的特長を勘案すれば概ね14世紀中葉頃の造立とみて大過ないものと考えられる。さらに本堂前左手の生垣に隠れるようにして小型の五輪塔が残されている。流紋岩質溶結凝灰岩と思われる灰色の火成岩製で高さ約110cm、反花座を備え、各輪に五輪塔四門の梵字を刻む。正面南側に「實菴如貞大/丙寅十二月二日」の銘がある。年号はないが、丙寅の干支、反花座や五輪塔の形状から恐らく永禄9年(1566年)と推定される。12月2日は命日と推定され、造立はそれから間もない時期であろう。また、境内入口の石段下東側の石垣下に結界石がある。白っぽい火成岩製の板碑型で、現高約65㎝、幅約24.5cm、厚みは約14cm。頂部を低い山形に切って(山形は前後左右を斜めに切り落として先端を尖らせている。扁平な四角錐でピラミッド風or宝形造風というとイメージしてもらえるだろうか…)二段の切り込み条線を正面から両側面にかけて刻んでいる。背面は粗叩きのままとし、平らに成形した正面外縁部を幅約3cm程に枠取りの輪郭として碑面を幅18cmの長方形に浅く彫り沈め、独特の書体とタッチで「大界外相」と大書陰刻している。紀年銘はないが室町時代中期のものと考えられている。用途としてはいわゆる結界石だが形態的には板碑の範疇でとらえられるべきものであろう。

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術 名著出版 1984年

   設楽博己・村木二郎・村木志伸 「奈良県山辺郡・宇陀郡の五輪塔調査」『国立歴史民俗博物館研究報告』第111集 2004年(この文献には「松尾山寺」の五輪塔として登場しています)

この牟山寺に止住したという西念上人は都祁来迎寺の中興四世了尊の弟子といい、室生寺の竜穴に参篭して雨乞いの修験を行なったとされる人物。近世まで日照りになると現在西念堂に安置されている上人像を籠に乗せて室生竜穴神社まで運んで祈雨神事が行なわれていたといいます。この人は恐るべき長寿を保ち(応安元年(1368年)に98歳!(ほんまかいな?)ってことは1270年生まれですか?)、13世紀末から14世紀代にかけてこの地域に多数の石造物を勧進し造立しているようです。東山内の中世石造物を考える上でたいへん興味深い人物ですが詳しいことはわかっていないようです、ハイ。


京都府 京都市左京区大原来迎院町 大原念仏寺五輪塔

2009-05-27 00:18:13 | 五輪塔

京都府 京都市左京区大原来迎院町 大原念仏寺五輪塔

来迎院町の集会所の建物の南側、植え込みの隙間のような狭い場所に立派な五輪塔が立っている。01呂川にかかる橋と三千院に向かう石段のある辻から南に50mもない観光客の人通り多い場所にある。すぐ南にある天台宗大原念仏寺に属しているようだが、現状では集会所の敷地の一画にしか見えない。03来迎院区五輪塔と呼ばれることもありその辺りの事情は判然としない。五輪塔は一見すると各部全て揃っているように見えるが、よく見ると地輪から火輪まで同じ書体の比較的大ぶりな梵字を力強く薬研彫しているのに対し、空風輪の梵字は小さく彫りもごく浅いもので書体、彫り、文字の大きさともに全く異なる。しかも火輪以下は大日如来法身真言(ア・バン・ラン・カン・ケン)と推定されるア・バン・ランを下から上に配しているが、空風輪のは通常の五輪塔四門のキャ・カ・ラ・バ・アのキャ・カのようである。なお、梵字は東面にだけ刻まれている。さらに空風輪は側面のアウトラインが直線的で空輪の重心が高く、空風輪のくびれも華奢で、重厚で安定感のある火輪以下の形状とは釣り合わず、同一のものとは考え難い。こうしたことから元の空風輪は亡失し、現状の空風輪は適当な別物をあつらえた後補と判断できるのである。後補の空風輪を含めた現高約150cm、やや風化が進んでいるが緻密で良質な花崗岩製である。地輪は幅約62cm、現高約30cmだが下端が少し埋まっており、本来はもう少し高くなる。02それでも幅が高さのほぼ倍あって背の低い安定感のあるものであることがわかる。水輪は径約56cm、高さ約45cm、球形に近く、側面の描く曲線は豊かで直線的なところはなく、裾のすぼまりもごくわずかである。火輪の軒幅約52cm、高さは約35cmで火輪の幅が水輪径よりわずかに狭い。軒口は分厚く、軒反自体はそれほど顕著ではないが、軒中央の水平部分が狭く軒全体に重々しく反る感じで、隅に向かって厚みを増す隅増しも目立たない。四柱の屋だるみは全体に緩く湾曲し、火輪全体の背はあまり高くない。地輪の南側、道路側から見て左側面に9行の刻銘があるのが肉眼でも確認できる。肉眼での判読は難しいが「弘安九(1286年)年六丙戌/廿七日/同村合力…/□□乃/法界衆生平/利益造立畢…/塔婆等…/□□…」とあるらしい。弘安九年の紀年銘は、京都の在銘五輪塔では屈指の古いものである。分厚い軒口や全体の雰囲気には、いわゆる整備形式と呼ばれる鎌倉後期様式の五輪塔のスタイルに通じるものがあるが、基礎の低さ、水輪の曲線、火輪の軒反などに古い特徴を色濃く残している。

 

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

   川勝政太郎 佐々木利三「京都古銘聚記」

写真右下:刻銘のある地輪南側面です。写真をクリックしてみてください。少し大きく表示されます。それから、いつものように法量値はコンベクスによる略側値ですので、若干の誤差はお許しください。かなり観光客の人通りの多い場所にありますが、行きかう人は誰も省みません。皆さんコンベクスを当てる小生を横目に通り過ぎていきます。これもマイナー路線のつらいところでしょうか…。かなりすごいモノなんですけどねぇ。さて、このように一見すると揃っているかに見える石塔でも、この五輪塔の空風輪のように後補であると看破される場合がしばしばあります。(この場合、小生が看破したわけではなく先人の記述を現地で確認したに過ぎませんが…)もちろん怪しいものでもなかなか断定できない場合もたくさんあります。後補や寄せ集めの判断には慎重さが必要でしょうが、かといってはじめから何でもかんでも後補や寄せ集めを疑ってかかると、各部が当初から一具であることの実証が全ての前提になってしまい議論がぜんぜん前に進みませんよね。この辺りはとても難しい部分だと思います。やはりそれなりに予備知識を深め、奥行きのある鑑賞態度で詳しく観察することが大切だと知らされます。またしても川勝博士の受け売りでした、ハイ。


京都府 京都市左京区大原来迎院町 来迎院五輪塔

2009-05-26 00:04:55 | 五輪塔

京都府 京都市左京区大原来迎院町 来迎院五輪塔

融通念仏宗の開祖である聖応大師良忍上人(1073年?~1132年)は、慈覚大師円仁が伝えた天台声明を中興大成した人物。01この良忍上人が止住した来迎院は、三千院の南を流れる呂川と呼ばれる谷川筋を東に遡った場所に位置する。三千院を挟んで北西にある勝林院等とともに魚山大原寺の中枢として天台声明の根本道場であった。03天文年間の再建と伝えられる本堂の東側、一段高い場所に鎮守社の小祠がある。その南に隣接して自然石を組んだ2.8m四方、高さ0.5~1mほどの方形の壇があり、中央に立派な五輪塔がある。台座等はみられず直接地面に据えられている。詳しいことはわからないがこの方形壇は廟屋の跡、ないし経塚かもしれない。五輪塔は緻密な花崗岩製で、表面の風化も比較的少なく保存状態は良好。各部欠損なく揃い、高さ約172cmある。表面には梵字や刻銘は認められない。地輪の幅は約68cm、同高さ約41.5cm。水輪径約54cm、同高さ約49.5cm。火輪の軒幅約67cm、高さ約41cm。空風輪の高さ約40cm、風輪径約35cm、空輪径約30cmを測る。一見して火輪の軒が薄いことがわかる。軒厚は中央で約7.5cm、隅で約8cmで軒厚の隅増もほとんどない。軒口は全体に緩く反り、いわゆる真反りに近い。四注も全体に緩い屋だるみを持たせている。火輪全体の高さはそこそこあり、屋根の傾斜はかなり急で火輪頂部は幅約23cmとやや狭い。これには軒を薄くしていることも関係していると思われる。地輪は高過ぎず低からずといったところ。水輪は球形に近く、裾がすぼまったようなところはないものの、逆に左右の張り出しがやや弱く火輪と地輪の幅に比してちょっと小さい感じを受ける。しかし、02石の質感や風化の程度、接合部分などを観察する限り別物とは思えない。風輪は、やや大きく裾がすぼまった感じで上端の傾斜をきつめにとっており、空輪は全体に低く最大径が低い位置にあり全体に押しつぶしたような蕾形を呈する。あまり類例をみない火輪の軒反り、水輪や空風輪の形状は、西大寺奥の院の叡尊塔を典型とする鎌倉後期スタイルの五輪塔とは明らかに一線を画している。こうした来迎院塔の外形的な特長は、鎌倉後期スタイルの五輪塔よりも先行するものと考えられる。ここから程近い来迎院町の会所脇にある大原念仏寺五輪塔は、空風輪が後補の別物であるが、概ね鎌倉後期スタイルに近い形状を呈し、弘安9年(1286年)銘を地輪に刻んでいる。少なくとも13世紀後半には鎌倉後期スタイルに通じる五輪塔が導入されていたものと考えられ、来迎院五輪塔の造立時期は、これよりは古いとみてよいのではないだろうか。風化の少なさや地輪や火輪の背の高さが少し気になるが、火輪の薄い真反りに近い軒反、空風輪の形状を積極的に評価すれば鎌倉中期でも前期に近い時期、13世紀前半代にもっていけるかもしれない。いずれにせよ古風な形状をとどめ、独特の雰囲気を持った注目すべき五輪塔といえる。

参考:川勝政太郎「京都の石造美術」

例により文中法量値はコンベクスによる略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。写真左中:この空風輪の形状をご覧ください。

大原、特に三千院を訪れる観光客は多いですが、大原が注目すべき石造美術がたくさんある所だということはあまり知られていないようです。ほとんどの人が気付かない大原の石造美術の中でも、マイナーな部類に入る?この五輪塔ですが、石造マニアにとっては見落とせないものだと思います。それから石造ではありませんが、金石文関係で梵鐘にも注目してくださいね。なお、鎮守社の傍らに石仏を集めた吹きさらしの小屋があり、中央の非常に彫りの深い地蔵菩薩立像(写真下左)は、市原の小町寺裏の墓地でもよく似た作風のものを見た記憶があります。京都では地蔵石仏は決して多くはありませんが、なかなか出来映えが良く、ひょっとすると14世紀代に遡る可能性があります。また、一番左端の小形の不動明王(写真下右)も中世のものかもしれません。本堂向かって右手を北に行くと谷川を隔てた奥まった場所に良忍上人の廟所があり、軸笠別石で古い形態の石造三重塔が立っています。京都の古い層塔を考えるうえでは欠くことができないものです。この層塔は比較的著名なものです。2008年2月6日の勝林院北墓地の石鳥居以来、久しぶりの大原シリーズ第3段ですが、さらに紹介していきますので請うご期待。01_201_4


京都府 木津川市加茂町大野 西明寺笠塔婆

2009-05-18 21:52:26 | 五輪塔

京都府 木津川市加茂町大野 西明寺笠塔婆

JR加茂駅の西約1km、標高203mの大野山を頂く山塊の東、南北に細長く連なる大野の集落の中央付近、街道西側の一段高い山裾に位置する真言宗西明寺。江戸時代の洪水で平地から現在地に移転したと伝えられる。01本堂の北側、向かって右手の目立たない狭い場所に東面して立派な笠塔婆がある。花崗岩製で、現高約185cm。上端を平らにした自然石の基礎は半は埋まっているため下端は明らかでないが、見えている基礎の幅約135cm。その上に平らな石を縦に据えて塔身とし、平らな笠石を載せている。塔身の幅は下部で約91cm、上部で約95cm、高さは約148cm。笠の軒幅約100cm、笠の奥行き約70cmを測る。塔身は正面を平らに彫成して左右側線は直線に整え、上端隅は丸めている。背面は粗整形のままである。笠の正面と側面は垂直に切り落として軒を作り、隅棟風に稜を設けて左右の軒隅に厚みを持たせて軒反をつくっている。03笠裏は平らにしているが背面及び上面は適当に打ち欠いたままの粗整形である。こうした整形手法は、正面観を優先し、背後や真横から見られることを初めから意識していなかったことを示している。塔身正面は、上端近く中央を高さ約31cm、幅約20cm程の舟形に彫りくぼめ、蓮華座に座す像高約22cmの如来像を半肉彫りしている。面相は風化でよく確認できないが頭頂部に肉髻があることがわかる。右手は肩付近に掲げた施無畏印と思われ、左手は膝上にあり、薬壺を持っていることから薬師如来と考えられる。この寺の本尊が平安後期、永承2年(1047年)銘の薬師如来坐像であることと関係しているものと考えられている。正面の平坦面に占める薬師坐像の面積割合はごく小さく、大部分は刻銘にあてている。像容向かって右の「西明寺/八講田」に始まり「田中垣内、一段皮田、塚本一町、納目二段、蓮塚二段、上野田一段」などの田段を4列にわたり列記している。さらに塔身の側面には、向かって右に「永仁三秊(1295年)卯月十二日」左に「大工橘友安」と刻まれている。西明寺の八講(法華八講を指すものか否か不詳。修法ないし法会に伴う祭典?)のための料田を記載したもので、これだけでも面白い資料であるが、加えて紀年銘と石工名があることで一層その資料的価値を高めている。大工としてその名を刻む橘友安という人物は、ここから南方2Kmばかりのところにある高田、高田寺境内に残る五輪塔残欠(地輪)に同じ永仁3年(1295年)銘と田畑寄進の願文をその名とともに刻んでいる。Photo橘姓の石工は、同じ加茂町、石仏の宝庫として名高い当尾、浄瑠璃寺に程近い東小の通称「藪の地蔵」と呼ばれる弘長2年(1262年)銘の磨崖仏にある橘安縄を初現とし、数名が知られており、伊派、大蔵派のように石工の系列であったとみられている。13世紀末頃に活躍した友安は安縄の次代に相当すると考えられ、奈良県大和郡山城の石垣に組み込まれた巨大な宝篋印塔の基礎などにもその名を刻し、三重県伊賀市の報恩寺の層塔基礎(残欠)には「大工南都友」とあることから、その活動の拠点が奈良にあったと考えられている。南山城が大和の強い影響下にあったことを考えあわせ非常に興味深い。なお、傍らにある五輪塔は、空風輪を失い、現状の火輪もやや小さいことから別物の疑いがあるものの、立派な大和系の反花座は一具のものと思われ、鎌倉末から南北朝前半頃のものと思われる。その東に隣接する層塔は笠6枚を残し上半を失っているが元は十三重と思われ、金剛界四仏を初重軸部に薬研彫し、各笠裏に薄く垂木型を刻む。やはり鎌倉時代末頃の造立とみて大過ないもので、ともに完全ではない点は惜しまれるが、見落とせないものである。

参考:川勝政太郎「新版日本石造美術辞典」

   川勝政太郎「橘派石大工とその作品」『史迹と美術』379号

同じ笠塔婆の範疇に含められるものですが、先の記事にある談山神社の摩尼輪塔とはずいぶん趣きの異なるものです。摩尼輪塔の精緻な出来映えに比べると、文字どおり荒削りなものです。造立の趣旨、意義がそもそも異なるのでその辺の違いが出来映えにも表れるしょうか。摩尼輪塔は参詣者を本院で出迎える晴れがましく威儀を正すべきもの、これはもっと立ち入った内容を刻んだどちらかというと内輪向けのもので造立の背景・性質が異なります。造形的にはそれぞれに持ち味があって、刻銘もさることながら見ごたえのある優品といえるのではないでしょうか。ともに笠塔婆の一般的な造形からは少しはみ出した感のある形状ですが、笠塔婆というのも単純な構造ながらなかなか面白い石造美術だと思ってます。例により文中法量値はコンベクスによる略測値ですので、多少の誤差はご容赦ください、ハイ。


滋賀県 近江八幡市安養寺町 安養寺跡層塔など

2009-03-23 00:44:30 | 五輪塔

滋賀県 近江八幡市安養寺町 安養寺跡層塔など

安養寺町集落の東の外れ、JR東海道本線篠原駅の東南約300m、篠原町との境にある国道477号が南北から東西に向きを変える。道路南側の法面、ガードレール越しに立派な石造層塔が立っているのが見える。05花崗岩製で高さ約4.2m。五重層塔である。基礎は幅は約99.5cm、北側が法面で埋まり、南側も下端が土中にあって明らかでないが高さは53cm以上ある。01埋まって確認できない北側を除く3面は輪郭で枠取りし、輪郭内いっぱいに大きく格狭間を配し、格狭間内に三茎蓮のレリーフで飾る。基礎全体の大きさに比べ輪郭の幅は非常に狭く、束部で約5.5cm、葛部で約5cm程度である。格狭間は大きく左右の差渡しは約82cmもある。側線はスムーズな曲線を描き、上部花頭曲線中央を非常に広くとって左右の2つづつの弧は小さく隅に偏っている。三茎蓮のレリーフは大ぶりで、中央は未開敷蓮花(蕾)と思われ、左右に外向きの蓮の葉の側面観と思しき平らな三角形を縦にしたような図柄をシンメトリに配している。02確認できない北面を除く3側面ともほぼ同様のデザインである。初重軸部塔身は高さ約73cm、幅約62cmと高さが勝る。各側面とも7葉の蓮華座を薄肉彫りした上を舟形背光型に彫り沈め、内に体躯のバランスのよい四方仏坐像を厚肉彫りする。植え込みのツツジの陰に隠れた西面は定印を結ぶことから阿弥陀如来、ほかの面はいずれも右手を胸の辺りに上げる施無畏印、左手は膝の辺りにあって与願印ないし触地印らしい。顕教四仏、釈迦如来、薬師如来、弥勒如来と思われるが風化ではっきりしない。面相は総じて摩滅が激しいが、西面は比較的残りがよく、南面は特に摩滅が激しい。この初重軸部南面に鎌倉時代中期、寛元4年(1246年)の銘があるとされるが、肉眼では確認できない。笠の軒幅は初層約88cm、軒口の厚みは中央で約14cm。二層目軒幅約84.5cm、三層目同約80.5cm、四層目同約76cm(五層目は高くて手が届かず計測しようと思うと脚立が要ります)。笠裏は素面で垂木型などは見られない。最上層の笠は頂上に薄く露盤を刻出している。各層屋根軒口は隅に向かって緩く全体に反り、軒厚の隅増が目立たないこととあいまって古風な趣きを示している。笠と同石の03_2軸部の背が高いのは層数の少なさの影響であろう。注目すべきは5層目軸部を4層目笠と別石としていることで、こうした手法は鎌倉中期以前の古い層塔に多く見られる。本塔のように同石とする手法と別石の手法が混合する構造形式は割合珍しく、文永7年(1270年)銘の松尾寺九重層塔(2008年9月25日記事参照)に例がある。鎌倉前期と推定される日野町猫田の禅林寺塔では、笠軸部が全て別石であり、鎌倉中期頃本塔のような混合形式を経て鎌倉後期には同石式に統合されていく大まかな流れが見て取れるのではないだろうか。04_2もっとも、倒壊するなどして欠損した軸部をはつり取って別石の軸部を後から補った可能性も否定されているわけではないことから、これが本当に当初からのものか否かの判断には、なお慎重さが求められよう。相輪は全体に太く凹凸感に欠け、下請花と相輪最下輪を亡失している。伏鉢は全くの円筒状で、九輪は太く線刻表現で各輪を画し逓減が少ない。上の請花は低く、蓮弁は摩滅して確認できない。先端宝珠の側面は少し直線的である。伏鉢や宝珠は一見退化形状とも思えるが、風化の程度や石材の質感には特に違和感がなく、かえって古拙な印象を与えている。しかし、いちおう相輪は後補を疑う余地は残るだろう。ともあれ、5層と層数が多くない割に高さが4mを超える気宇の大きさと全体に醸し出される古雅な雰囲気は見るものを惹きつけ飽きさせない。しかも基礎にある三茎蓮は、近江式装飾文様の在銘最古例として貴重な存在である。重要文化財指定。五重層塔の周囲は低い土壇状になって石仏、石塔残欠が集められている。西側には笠塔婆と空風輪を欠く五輪塔2基、東側には宝塔の塔身に宝篋印塔の笠を載せた寄集塔と四門の梵字を刻む五輪塔があり、これらも鎌倉時代後期から南北朝時代頃にかけての造立と推定できる立派なもので見逃してはいけない。

参考:滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』

   瀬川欣一 『近江石の文化財』

   平凡社 『滋賀県の地名』 日本歴史地名体系25

写真上右:遠くに見える高架はJR東海道新幹線です。写真下右:画面左の笠塔婆の現高約122cm、画面中央の五輪塔の火輪の軒幅約55cm。写真下左:この五輪塔は地輪を除く現高約137cmといずれも小さいものではありません。創建は奈良時代に遡り、壮大な伽藍を誇った安養寺は、戦国期に兵火で退転したとされ、わずかに北方に今も残る荘厳寺に古い仏像などを伝えるに過ぎません。石造物たちは今は跡形もない安養寺の旧物なのでしょうか。失われた歴史を知る証人として石造物は幾百年の歳月を黙ってそこに立っているのです。こうした石造物たちは、たいてい触れることができる身近な存在です。彼らに問いかけ語ってもらうことができるよう、石造物に対する理解を深めていかなければならないと感じる小生であります、ハイ。


京都府 京都市北区 紫野十二坊町 上品蓮台寺五輪塔

2009-02-18 11:47:34 | 五輪塔

京都府 京都市北区 紫野十二坊町 上品蓮台寺五輪塔

千本通りに面した通称十二坊、真言宗智山派上品蓮台寺。境内の北端に近い場所、子院のひとつ真言院の北側の墓地中央に玉垣に囲まれた立派な五輪塔がある。03_2緻密な良質の花崗岩製で塔高約220余cm、地輪の幅は約80余cmに達する。05二重の切石基壇は当初からのものかどうかわからない。反花座はない。地輪の側面高は約55cmと低すぎず高すぎずといったところ。水輪は整った曲線を示し、その最大径は若干上にあってやや裾すぼまり気味であるが申し分ない。火輪は軒口厚く、隅にいくに従って厚みを増しながら力強く反転する。火輪の屋根の勾配は比較的急で、四注の屋だるみは軒反にあわせて下方で反り上がる感じである。01_2火輪頂部の幅はやや広い。大きめの空風輪はどっしりとして全体のフォルムを引き締めている。鉢形の風輪と空輪先端の尖りまでよく残る完好な宝珠形の空輪の描く曲線はスムーズで硬直化したようなところは微塵も感じさせない。空風輪のくびれも適度で少しも脆弱なところはない。梵字や刻銘はみられず全くの素面である。非のうちどころのない典型的な鎌倉後期スタイルの大形五輪塔で、13世紀終りから14世紀初頭頃の造立とみてまず間違いないだろう。保存状態良好で風化が少ない点も好感が持てる。エッジのきいたシャープな仕上がり、均整のとれた隙のない佇まいは、律宗系の五輪塔によくみられるスタイルである。06間違いなく京都でも最も美しい五輪塔のひとつに数えられよう。千本通りから船岡山にかけては古来葬送の地であったとされており、今日も寺院や墓地が多く見られる。ここの墓地も広大で、いたるところに中世に遡る石仏や小さい五輪塔などが見られる。墓地の一角に無縁の石仏などが集積されており、その質と量には目を見張るものがある。ほとんどが阿弥陀如来で、大半は室町時代以降のものと思われる小さいものだが、ちらほらと混じるやや大きめの石仏の中には、彫りが深く体躯のバランスもよいものが少なくなく、これらは鎌倉時代に遡る可能性を秘めている。川勝博士がおっしゃられたように、京都は阿弥陀の石仏が相対的に多い土地柄であるということが実感される。

参考:元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成6年度調査概要報告 51ページ

      川勝政太郎 『京都の石造美術』

 なお、後から知ったのですが、同寺には平安時代藤原期の仏師として名高いかの「定朝」の墓があるとのこと。初めからわかってればねぇ…またしても不勉強が露呈しました、トホホ…。近くの釘抜き地蔵石像寺の見事な石仏は見てきましたが(別途紹介します)、千本閻魔堂引接寺の至徳銘の変わった層塔は解体修理中で見れなかったので、あわせて改めて見学の機会を持ちたいと思います、ハイ。


京都府 綴喜郡宇治田原町禅定寺 禅定寺五輪塔

2008-10-28 00:40:03 | 五輪塔

京都府 綴喜郡宇治田原町禅定寺 禅定寺五輪塔

宇治田原町が誇る数々の文化財を有する古刹、禅定寺の山門をくぐるとすぐ石段の左上に立派な五輪塔が立っている。03花崗岩製で高さ約192cm。基礎下に反花座を備え、その下には切石の基壇を設けている。反花座は一側面あたり024葉の複弁を主弁とし、それぞれの間に小花(間弁)を挟み、隅が小花になる大和に多くみられるタイプである。先に紹介した岩山の真言院塔では隅が小花とならない。さらに反花蓮弁の彫りは真言院のものに比べると心もち平板な印象でやや抑揚感に欠ける。真言院塔の反花座と比べると側面幅に対する受座の幅が大きく、幅に対して背が高い台座となっていることがわかる。以下真言院塔と比較しながら各部の特長を述べていくと、地輪の幅:高さ比は禅定寺塔の方がやや背が高い。禅定寺塔は水輪の最大径が下にあることから、天地がひっくり返っている可能性がある。したが01って、禅定寺塔の方が若干ながら水輪の裾すぼまり感が強いといえるかもしれない。火輪軒反の力強さは禅定寺塔が勝っているように見える。これは軒下の反りが真言院塔に比べるとはっきりしていることによる視覚効果と思われる。軒先中央の直線部分が広く隅近くで急激に反転する反りの調子には硬さが現れている。空風輪は大きめでその造形は優れているが、禅定寺塔の空風輪には少し直線的なところが出てきている。禅定寺塔では空輪の最大径の位置をやや04 低くくしており、風輪との間のくびれの深さが逆に脆弱な印象を与える結果になっているように思える。空輪先端の突起は禅定寺塔の方がやや大きい。真言院塔との相違点を列記しながら禅定寺塔を紹介したが、これらはいずれもわずかな違いであり、総じて述べれば両者はサイズも意匠表現も非常に似かよった五輪塔といえ、造立年代には大差がないものと考えられる。禅定寺塔の価値を一層高めているのは、地輪南側面の中央に「康永壬午十二月四日」の刻銘がある点である。康永の文字は肉眼でもはっきり確認できる。康永は北朝年号で壬午は元年(1342年)にあたる。川勝博士が指摘されるように、南山城に多く分布する大和系の反花座を持つ五輪塔にあって在銘の稀有な事例であり、南山城の五輪塔を考えていくメルクマルとして極めて貴重である。町指定文化財。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」 149~150ページ

    〃 「禅定寺五輪塔」『史迹と美術』113号

川勝博士が最初に報告された昭和15年の『史迹と美術』113号の報文では康永元年とされていますが、昭和47年の「京都の石造美術」で康永2年となっている点は謎です。壬午と読むと元年、癸未と読むと2年になります。南朝年号では興国3年ないし4年ということになります。小生の拙い表面観察では極めて心許ないわけですが、癸未よりも壬午の方がよいように見えます。なお、当日は実地採寸できませんでした。したがって縷々述べた記述は、肉眼での大雑把な観察による主観的な印象を多々交えており、勘違いがあるかもしれませんがご諒承賜りたい。他日各部の寸法を確かめる機会を期したいと思っています、ハイ。


京都府 綴喜郡宇治田原町岩山字中出 真言院五輪塔

2008-10-25 11:28:26 | 五輪塔

京都府 綴喜郡宇治田原町岩山字中出 真言院五輪塔

宇治田原町の総合文化センターや町立図書館、住民体育館等の公共施設が集まっているところから北東、直線距離にして約500m程の小高い山腹、南側からは尾根に遮られあまり目立たない場所に亀井山真言院がある。03西側すぐのところには宇治田原随一の古社として知られる雙栗神社がある。詳しいことは調べていないが別当寺だったのかもしれない。木々に囲まれた境内は静寂そのもので、南面する本堂の西側、鎮守社のある尾根の斜面に優れた反花座を備えた立派な五輪塔が立っている。00反花座は幅約93cm、高さ約25cm、受け座の幅約63cm、南北方向に直線的な割れめがあり、台座は元々1/3と2/3に2分割されるものであった可能性がある。蓮弁は抑揚感のある複弁式で側面一辺あたり主弁3葉、小花(間弁)4葉、隅が小花にならないタイプである。これは大和で多く見る隅が小花になるタイプの反花座と異なる。蓮弁の彫りに際立ったシャープさは感じられないものの整美な反花といえる。側面幅に比して受け座の幅が小さく、どちらかというと全体に低平でどっしりした台座である。五輪塔は塔高約163cm、地輪幅約58cm、高さ約40cmと高すぎず低すぎず、水輪の球形はよく整い、直線的な硬さや裾がすぼまった感じは受けない。幅約55cm、高さ約43cm。火輪は軒幅約54cm、高さ約35cm。軒口は中央で厚さ約11cm、隅で約14cm。隅にいくに従い厚みを増しながら反転する軒反りはスムーズで、下端より上端の反りが目立つ。01_2空風輪は大きめで、台座も含めた五輪塔全体のバランスを絶妙に引き締める視覚的効果をあげている。風輪幅約32cm、高さ約16cm、空輪は幅、高さとも約28cm。空輪と風輪の間のくびれは深いが脆弱な感じはない。風輪の鉢形の曲面のアウトラインに直線的なところがなくスムーズな曲線を描く一方で上端はきっちりまっすぐに仕上げている。空輪の最大径はやや上方にあるが宝珠形は完好な曲線を描き、直線的な硬さはまったく感じさせない。空輪頂部には小さい突起がよく残っている。花崗岩製で、各部とも素面で梵字などはみられない。表面的な観察からは刻銘は確認できない。総じて細かいところまで手抜きのない堅実な出来映を示し、全体のバランス感覚にも優れているが逆にまとまりすぎてこれといった特長がないといえるかもしれない。造立年代について、川勝博士は鎌倉末期と推定されている。硬さはないが豪健さはややなりを潜め、温和な調子がにじみ出ているようにも見える。こうした全体の印象に加え、火輪の軒反の様子などから川勝博士の推定のとおり、鎌倉後期でもおそらく末期に近い頃、概ね14世紀前半頃の造立と推定できる。町指定文化財。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」 150ページ

静かで緑豊かな木陰、苔むした地面に立つ五輪塔は落ち着いた佇まいを見せ、訪れる我々に、何というか安心感のような感覚を与えてくれます。境内にはこのほかに戦国期頃のものと思われる小形の宝篋印塔や舟形背光五輪塔などの石造物が散在しています。

なお、近くの禅定寺にある五輪塔はやや時代の降る康永2年(1343年)(康永元年説も…)銘があり、こちらは台座は隅が小花になる大和系のものです。同じ地域の近い年代の五輪塔に異なるタイプの反花座が採用されています。反花座を考えていく上で実に興味深いものです。そういえば近くの大宮神社にある宝篋印塔は格狭間内に三茎蓮を持つ近江系のデザインを採用しており、近江、大和、京都の石造文化の交わりを考えていくうえで宇治田原町は実におもしろい場所です、ハイ。