石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 御所市冨田 天満宮前五輪塔

2008-10-05 11:40:37 | 五輪塔

奈良県 御所市冨田 天満宮前五輪塔

室大墓と呼ばれる著名な巨大前方後円墳、宮山古墳の北側を通り東西に走る国道309号線が冨田集落の南西で大きく南に折れ、大口峠に向かう曲がり角の南東、直線距離にして約200mのところに天満宮社がある。北東約300mには三白鳥陵のひとつ日本武尊陵がある。現在の国道の東側に平行する旧道を少し南に進むと三叉路になったところ、道と倉庫に挟まれた狭い一画に立派な五輪塔が立っている。東面する天満宮の参道南側にあたる。元は南の大口峠にあり、峠道開鑿の際にこの地に移建されたという。01 そうだとすれば、こうした石塔が交通の要衝などに建てられた一種のモニュメントという側面を持つという説を補完する事例になるのかもしれない。

五輪塔は直接地面に置かれているように見えるが、板石を敷いた基壇が地輪下に埋まっているらしい。12基壇と地輪の間に反花座は見られない。元々なかったのか移建時など後に失われたのか今となっては確かめようがない。塔高約251cmと大きい。緻密で良質の花崗岩製。表面の風化摩滅も少なく火輪の軒の一部を少し欠損するだけで概ね遺存状態は良好。梵字は見られず、地輪北側に大きめの文字で「大念仏衆/奉造立之/正和四年(1315年)乙卯/十一月日敬白」の4行の刻銘がある。光線の加減もあり肉眼では判読しづらいが、刻銘があるのはハッキリ確認できる。念仏を起縁とする結衆による造立であることが知られる。清水俊明氏によると、南の山向う、高野山口の紀ノ川沿いに「大念仏」の刻銘を有する五輪塔や板碑が分布してるとされ、非常に興味深い。地輪は幅80.5cm、高さ約58cmと高すぎず低すぎず、水輪は径84cmと比較的大きく、重心つまり最大径をやや上に置くが曲線が割合ふくよかなので裾がすぼまっていく感じは強くない。08火輪は軒幅76.5cm、軒口がぶ厚く、軒反も力強く整っている。四注の屋だるみはどちらかというと、まっすぐで軒反に13あわせて隅近くで少し外反する。空風輪はやや大きめで、風輪の側線はやや直線的で上端面は少し外側に傾斜している。空輪は特に大きく、先端には突起が見られる。側線にやや直線的な硬さが出ているが重心が低いため、くびれ部に脆弱な感じは受けない。火輪や空風輪に硬い感じが出ているが、全体として鎌倉時代後期の石造五輪塔の典型的な特長を備えている。反花座を持たないことや、地輪と火輪に比べ水輪と空輪が相対的に大きいせいか規模の割に大きさを感じさせないフォルムであることによるものか、律宗系の五輪塔の厳しさすら感じる趣きとは少し違った印象を受ける。周囲ののどかな環境や倉庫の脇というシチュエーションも加わってか逆に親しみやすさを感じる。全体の風化が少なく彫成のシャープさと苔や地衣類のほとんどない石材の白さが特に印象深い。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 468ページ

   (財)元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成四年度調査概要報告

   (文中法量は同報告による。)

   平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 211~212ページ

移建されたとの話ですが遺存状態良好で各部揃い、鎌倉在銘の奈良県内でも指折りの巨塔、マニアの間で知られる存在を越えて、もっともっとその価値を世に喧伝されて然るべき優品です。写真でもわかると思いますが、ちょっとどうなのというロケーションにあって冷や飯を食っている観のある気の毒な五輪塔ですが香華が手向けられ地元では大切にされているようです。


滋賀県 高島市今津町酒波 酒波寺五輪塔・宝塔

2008-10-03 00:01:25 | 五輪塔

滋賀県 高島市今津町酒波 酒波寺五輪塔・宝塔

青蓮山酒波寺(真言宗智山派)は酒波集落の北方の山腹にある。旧天台宗で、高島七ヶ寺のひとつに数えられる古刹。「興福寺官務牒疏」には僧坊56宇を数えたと伝える。かつての広い寺地を描いた古絵図も残るが元亀年間、織田信澄に焼かれるなどして退転、江戸時代に再興された。本堂に向かう石段に向かってまっすぐ伸びる参道の西側、道路に近い境内の入口近くに近世の常夜灯と並んで立派な五輪塔がある。15自然石の石積みを長方形に並べて囲い込んだ低い土壇を設え常夜灯と五輪塔が並んでいる。この土壇は一部コンクリートで固めてあるので古いものではない。佐野知三郎氏の報文によると、以前は小川を挟んだ対岸にある日置神社側にあり、地元で「大腹(だいばら)さん」と呼ばれているという。14台座や基壇は見らず直接地面に地輪を据えている。高さ約190cm、白っぽい花崗岩製で表面の風化はやや進行しているが概ね保存状態は良好。地輪は低く安定感がある。水輪は左右の横張りが小さくほぼ球形に近いが上下のカット面があまり広くないせいもあってか背が高く感じる。最大径がやや低い位置にあるようにも見えるので天地が逆になっている可能性もある。火輪は軒幅に比して高さがあり底面に比べ頂面は小さい。四注は適度な屋だるみをみせ、軒口は厚く隅に向かって力強く反転する。空風輪は大きめで、特に風輪が高く大きい。空輪と風輪の間のくびれが少なく、風輪の上端は水平にせず外側に傾斜している。空輪も高さがあって宝珠形というより球形に近いが最大径は低い位置にある。先端には小さいが突起がある。梵字や刻銘は確認できない。各部のバランスがいまひとつで整美なプロポーションとはいえず地輪を除くと全体に背が高い印象でどこか垢抜けない。造立時期の推定は難しいが、規模が大きく、軒反の力強さや低い地輪、くびれの少ない大きい空風輪、横張りの少ない球形に近い水輪など各部の特長を、概ね古調を示していると評価し、鎌倉時代後期、13世紀末から14世紀初め頃のものと推定しておきたい。03参道を進み長い石段を登り山門をくぐると正面に本堂がある。本堂右手に庫裏があり、庫裏の東側にある庭池のほとりに石造宝塔が立っている。花崗岩製で現存高約155cm、基礎幅約53cm、笠の軒幅約51cm。基礎下には自然石を並べて敷いてあるがこれは当初からのものとは思えない。側面は3面輪郭をとって格狭間を配し、正面西側のみ格狭間内に開敷蓮花のレリーフがある。02 輪郭、格狭間ともに彫りは浅く、各格狭間内は平らに仕上げている。正面の開敷蓮花のレリーフは非常に薄く彫られ風化も手伝って肉眼では確認しづらい程である。一方東側は素面のままとしている。輪郭の幅は狭く、上下の地覆、葛部分より左右の束の幅が若干ながら広い。格狭間は概ね整った形状を示すが、側線の膨らみと花頭外側の弧が下がり気味になっている点はやや新しい特長といえる。塔身は軸部、縁板(框座)、匂欄部、首部から構成されている。軸部は下すぼまりで重心が高く、塔身全体が宝瓶形を呈する。扉型などは見られず素面。縁板は薄く、軸部の最大径がある肩付近に比べるとその径が小さいので控えめな感じを受ける。縁板上端面からは匂欄部、首部と径を減じていく段形になっている。また、笠裏は2段に斗拱型を刻みだしている。軒口は比較的薄く隅近くで反転する軒反に力強さは感じられない。屋根の勾配は比較的急で四注の照りむくりが目立つ。断面凸形の隅降棟は露盤下で消失し左右が連結していないように見える。露盤は比較的高くしっかり刻みだしてある。相輪は九輪の9輪目以上を亡失している。伏鉢が円筒状に近く、下請花とのくびれが小さい。下請花は風化ではっきりしないが複弁と思われる。また、九輪の凹凸は小さい。以上総じて温和で丁寧な作風だが、豪放感や力強さは感じられず、こじんまりとまとまった印象を受ける。石材の感じや作風は先に紹介した今津町日置前の正覚寺塔(2008年5月12日記事参照)、西浅井町下塩津神社塔(2008年8月19日記事参照)に似ており、基礎の格狭間、笠の特長、塔身の形状などから造立年代は南北朝時代、14世紀中葉から後半頃のものと推定したい。この庭には他に室町時代のものと思われる小形の層塔の笠や五輪塔の残欠、小形の宝篋印塔の笠を積み上げた寄せ集め塔が2基ある。

参考:佐野知三郎 「近江の二、三の石塔」 『史迹と美術』407号

    〃 「近江石塔の新史料」(三) 『史迹と美術』421号

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』190~191ページ

   平凡社 『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 1080ページ

酒波("さなみ"と読みます)を訪ねた時は蕎麦の花が一面に咲いていて感心しました。また、酒波寺は紹介しました石造美術もさることながら、ヒガンザクラの名所で、琵琶湖の眺望も素晴らしく静かで非常に雰囲気のある佇まいのお寺です。お薦めです、ハイ。


京都府 京都市上京区北野 北野天満宮石鳥居及び東向観音寺五輪塔ほか

2008-09-29 23:05:48 | 五輪塔

京都府 京都市上京区北野 北野天満宮石鳥居及び東向観音寺五輪塔ほか

北野天満宮の参道左手、西側に東面するのが東向観音寺(真言宗泉涌寺派)である。文字どおり東面するため東向というらしく、古くは参道の反対側にも西向のお寺もあったと伝えられるが早く廃絶して今はその正確な位置さえ定かではない。03本堂南側のやや奥まった場所に巨大な五輪塔が見える。築山の上に建ち、一条七本松付近にあった源頼光が退治した土蜘蛛が住んだ塚から明治時代に出土したという六地蔵石幢の龕部と思しき残欠のほか、中型の五輪塔数基が築山のすぐ脇に並んでいる。菅原道真公の母堂、伴氏の供養塔と伝えられ、昔から京の人が忌明にこの大きい五輪塔に詣でる風習があったという。道真公は平安時代中頃の人なので五輪塔の年代を考えるとちょっと古すぎる。元は少し離れた北野天満宮参道の西側にある伴氏社の小祠があるところにあったものが02明治時代初めの神仏分離によって現在の場所に移された。それ以前は北野天満宮の名物として有名だったらしく天満宮を描いた古い絵には必ず鳥居と五輪塔が描かれているという。川勝政太郎博士によれば、鷲尾隆康という公家の日記『二水記』に大永2年(1522年)四十九日に当たる9月8日に北野の石塔を拝んだことが記されているという。01「北野の石塔」がこの五輪塔であることはまず疑いないだろう。そして鷲尾隆康は、この塔が菅公の御母の墓で、世間の人が忌明に必ずこの塔に詣でるいわれは判らないと述べているという。室町後期には既に菅公の母堂の供養塔とされていたことや忌明参りの風習が定着しており、武家や庶民に比べ有職故実に詳しいはずの公家でさえそのいわれに関する知識があやふやになっていたことを示している。このことから、忌明参りの風習が室町時代後期よりかなり遡る頃からのものであることが推測できる。本来死や葬送に伴う穢れを嫌う神社の境内になぜ忌明塔があったのかは判らないが、神仏習合や別当寺の関係、そして何らかの「結縁」が謎解きのキーワードになるだろう。そして忌明の風習のルーツには惣供養塔など個人の墓塔ではない、供養(作善)のための石塔に対する信仰のパターンが見え隠れしているように思う。五輪塔は高さ1.5mほどの築山の上に立っていることも加わってまさに見上げるばかりの巨塔である。花崗岩製で高さ約4.5m。梵字や刻銘は見られず素面。全体に空風輪が大き過ぎる観があり、しかも空輪のくびれが目立ってやや不出来な印象を受ける。鉢形の風輪はまずまずだが、空輪の重心が高いことと先端の尖りが気になる。離れた場所からの表面的な観察では石材の色調や質感に違和感はないものの、いちおう空風輪は後補の疑いをぬぐいきれないだろう。この点は後考を俟つしかない。地輪は植え込みに隠れ確認しづらいが、低くどっしりしたもので上端幅より下端幅が広く安定感のある古調を示し、下端付近は不整形で土中に埋め込む前提であったことがわかる。水輪は左右のふくらみに欠けやや背の高い印象ながら上下のカット面が大きくこれも古調を示している。01_4火輪は全体に低く、軒反は緩く真反りに近い。軒口の厚みも適度で、軒口の厚みが隅に向かって増していく隅増しがほとんど見られない。底面に比べ頂部が小さいこともあって屋根の勾配はあまり強くない。また四注の屋だるみも顕著でないので伸びやかな印象を与えている。これらも古い特長といえる。空風輪、特に空輪に違和感があり全体のバランスを悪くしているが、総じて古い特長を示しており、鎌倉時代中期、13世紀中葉頃に遡るものと見てよいと考えられる。

元この五輪塔があった伴氏社前の石鳥居も忘れてはならない。花崗岩製で高さ約2.7mの小さいものだが、左右の柱が太く転びが小さいのでどっしりとしている。02_2貫は外側に貫通せず、島木と笠木は反りが緩く、隅増しも小さい。こうした特長は先に紹介した大原勝林院墓地の石鳥居(2008年2月6日記事参照)にも共通するもので造立が中世に遡る可能性を示している。また、額束が島木に割り込む手法は珍しいとされている。注目して欲しいのが柱の台石である。自然石の上面に柱受座を削りだしたもので、受座に単弁反花が見られる。間弁(小花)が大きく蓮弁は高く抑揚感があるが、南北朝期以降に石塔の台座や宝篋印塔の基礎上などに多々見られるようになる複弁で「むくり」が目立つ反花とは一線を画する意匠である。川勝博士は鎌倉時代の作風を示すものとされて03_2おり、なるほどおっしゃるように、先に紹介した滋賀県野洲市の御上神社本殿の縁束石(2008年3月30日記事参照、建武4年(1337年)銘)などに比べると、反花が定型化に至っていない意匠であることが観取される。また、川勝博士によると、北野天満宮を描いた古い絵図のうち、観応2年(1351年)に描かれた西本願寺所蔵の絵巻物『慕帰絵詞』巻六に五輪塔の前にある鳥居が見られるそうで、これは木造のようであるとのこと。もし絵が実物の写生であれば、石鳥居はそれ以降のものと考えなければならないことから、台石と鳥居本体の石材の色調や質感の違いを考え合わせ、初めは木造の鳥居が柱の台石上に建てられ、室町時代に耐久性のある石製のものに取り替えられたのではないかと推測されている。したがって鳥居が当初から五輪塔とワンセットのものであったと仮定するならば、この台石も五輪塔と同じ鎌倉中期頃のものということになる。石塔と石鳥居が共存する例がまれにあるが、こうした石鳥居のあり方を考えていくうえからも貴重なものといえる。なお、北野天満宮にはこのほかにも石燈籠の古いものがある。社殿前の向かって右手、回廊前の柵の中にある石燈籠がそれで、六角型、花崗岩製だが風化が激しく基礎の蓮弁が辛うじて認識できる程度である。高さ約1.8mと小形で、宝珠と請花は小さ過ぎるので別物と思われる。笠の勾配が緩やかで中台が薄く瀟洒な感じを受ける。宝珠と請花を除くと全体のバランスがよく、古来茶人や庭園家の間で模造品の手本「本歌」として珍重されてきたもののひとつ。北野天満宮の摂社白太夫社の名を冠する「白太夫型」燈籠と呼ばれるもののモデルになったものである。川勝博士は香川県白峯寺の文永4年(1267年)銘の石燈籠に類似することから、同じ鎌倉時代中期末頃のものと推定されている。

   参考:川勝政太郎『京都の石造美術』141~144、216、236~237ページ

      竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 100~105ページ

川勝博士の博識にはいつもながら舌を巻きます。大きい五輪塔は不出来な空風輪が全体の印象を損なっていますが、それ以外はよく見ると笠置の解脱上人塔や生駒の鳴川墓地塔など古いタイプの五輪塔と似ています。石燈籠の写真はピンボケ&手ブレで掲載できるようなものが撮れませんでした。すいません。この石燈籠には、まつわる伝説があって、渡辺綱が一条戻橋に出没する女鬼に空中に拉致され格闘の末にその腕を切って脱出、墜落したところが北野天満宮の回廊の屋根で命拾いしたお礼にこの石燈籠を奉納したというもの。渡辺綱は嵯峨源氏の出で源頼光四天王の筆頭として知られる豪傑。10世紀後半から11世紀初め頃の人なので石燈籠より約250年程も前の人物で時代があいません。したがって所詮は根拠のない付会でしょうが、そういって否定するのみではつまらない。そこは割り切って伝説はあくまで伝説として大切にする奥行きのある鑑賞態度が必要かと考えます。石鳥居の写真もどうもイマイチですので、なるべく近いうちに撮り直してきたいと思っています、ハイ。

補遺:大きい五輪塔の法量について、元興寺文化財研究所「五輪塔の研究」平成6年度調査概要報告の51ページ、京都府分の補遺に数値を記載していただいておりました。ご紹介いたしますと、塔高403cm、地輪幅159.5cm、同高73㎝、水輪幅182cm、(132cmの誤植か?)同高123cm、火輪幅147.5cmとのこと、火輪の高さ、空風輪の数値がありませんが、大きいので登らないと計測できなかったのかもしれません。従前から人口に膾炙している高さ4.5mという数値よりは高さがやや低いようです。それとやはり地輪が低いことがわかります。採寸実測したという話を知らないないので、この数値は非常に貴重です。元興寺文化財研究所様の学恩に深く感謝するものです。


滋賀県 高島市今津町浜分 願海寺宝塔ほか

2008-09-02 01:18:20 | 五輪塔

滋賀県 高島市今津町浜分 願海寺宝塔ほか

今津町浜分の南端、東から西に向かって流れる石田川と南北に走る県道海津今津線が交わる地点から北東側すぐに宝船山願海寺(曹洞宗)がある。湖岸に程近く東側には日吉神社が隣接している。本堂向かって左手、境内の南端近く松の木のそばに2基の石塔が立っている。04東側は石造宝塔、西側は五輪塔のように見える。しかし、このうち五輪塔と見えたのは、寄せ集めで、水輪と火輪、空風輪は五輪塔のものであるが、地輪の代わりに石造宝塔か層塔の基礎を流用している。水輪はかなり大きく、下すぼまり気味で重心がやや高い。火輪は水輪に比べるとやや小さく大きさの釣り合いが取れていない。空風輪はさらに小さく、こうして見てみると各部すべて別物の寄せ集めと判断し得る。水輪、火輪ともにきめの粗い花崗岩で風化が激しいが、空風輪は緻密な石材で風化の度合いが違う。06地輪に代わる基礎は、幅約75cm、高さは下端が埋まりはっきりしないが40cmに少し足りない程度と思われ、幅に比してかなり高さが低い。側面は四面とも輪郭を巻いて格狭間を配し、三茎蓮花のレリーフを刻んでいる。輪郭は束がかなり広い。格狭間はやや肩が下がり気味ながらも側線に直線的ところはなく、かつあまり膨らむものではない。脚間が狭い。茶色っぽい斑紋の交じる花崗岩製で、上に載っている五輪塔の水輪のようにきめの粗いざらついたものではない。03幅:高さ比の低さ、束部の広い輪郭は、しっかりとした三茎蓮花の表現とあいまって古調を示す特徴と思われ、特色ある格狭間の形状は、退化と見るよりは意匠表現が完成するまでの試行錯誤の過程、定型化以前の形状と判断できそうである。造立時期は概ね13世紀後半~末頃として大過ないものと思われる。後述する永仁2年(1294年)銘の宝塔基礎よりも少し古いのではないかと思われる。一方、宝塔は、相輪を亡失して代わりに五輪塔の空風輪で補っている以外は基礎、塔身、笠と揃っている。空風輪を除く高さ約160cm余。塔身と基礎は大きさの釣り合いが取れているが、笠は少し小さいことから別物の可能性が高い。12基礎は幅約76cm、高さ約50cm、側面3方を輪郭で巻いて格狭間を配し、格狭間内は三茎蓮花のレリーフで飾っている。南側のみ切り離しの素面とし、6行ほどにわたって大きい文字で刻銘がある。中央少し右寄りに「永仁弐甲午」(1294年)の文字は肉眼でもはっきり確認できる。左上部には剥離部分もあり、拓本でもとらないと判読できないが、最後は敬白で終わっているようである。格狭間は花頭中央部分、それに隣接する左右の内側の弧の幅が極端に小さく、外側の弧が異様に広い奇異な形状で、側線下方が少し角張っている。塔身は高さ約69cm、軸部と2段の首部からなり、軸部は上下がすぼまり気味の円筒形で北側を舟形光背を彫りくぼめ、蓮華座に坐す如来像を半肉彫りしている。お顔から右膝にかけて剥落して、面相や印をうかがうことができない。首部は軸部との間に匂欄部に相当する段形を有する。笠は幅約61cm、高さ約43cmで笠下に斗拱型をぶ厚く2段に削りだし、軒口は厚く、隅に向かって厚みを増しながら力強い反りを見せている。屋根は低く、勾配は緩い。屋だるみをもたせた四注には隅降棟を表現している。隅降棟の突帯は比較的高い露盤の下で連結する。笠裏の段形と軒口の厚さに比べて屋根の高さが低く、軒先の伸びやかさがなくやや寸詰まりな印象を受ける独特の形状である。07大きさのバランスに難があるが、笠の造立時期は基礎とほぼ同じ頃か若干新しいのではないだろうか。基礎と塔身は一具のものと認めてよい。ただし、寄せ集めの五輪塔の基礎もこの塔身と大きさや年代にさほど齟齬がないと思われ、組み合わせの適否については慎重にならざるを得ない。基礎、塔身、笠ともに石材は隣の寄せ集め五輪塔の基礎と同じ茶色っぽい斑紋の交じる白く緻密な花崗岩で、風化の程度や質感もほぼ同様のものである。表面の茶色の斑紋は鉄分が表面に滲み出たか、染み付いたような感じで、苔や地衣類もほとんど見られないことから、これらの石塔部材が最近まで土に埋まっていた可能性が高いと思われる。なお、境内東側の小祠内にいくつかの箱仏類に交じって中央に祀られている阿弥陀如来坐像と思われる石仏は、像容がしっかり彫り出されたかなり優れた作風のもので、中世でも室町時代前半以前に遡る可能性がある。このほかにも境内の片隅に五輪塔の残欠が集積されている。

参考:今津町史編纂委員会 『今津町史』第4巻 477~478ページ

法量数値はコンベクスによる実地略測ですので、多少の誤差はご勘弁ください。

あえて苦言:今津町史によると「総じて摩滅が著しいが「永仁二甲午二月十七日」という紀年銘が判読できる…」とありますが、それ以外の銘文の記述はありません。写真を見ていただければわかるように、「孝子」や「敬白」など肉眼でも何とか読めなくもない文字もあり、剥落部分を除けば判読が困難なほど摩滅が著しいとはいえない表面状態です。拓本などの手段を講じれば銘文はそこそこわかるはずです。先祖の思いを伝えるかけがえのない銘文です。紀年銘だけが判ればよしとするにとどまらず、将来の風化摩滅の進行や万一の盗難などに備える記録保存とその価値を情報発信する意味からも、もう少し詳細な調査と記述によって町史はその責任を果たしてほしかった。小生のような個人的なマニアの忘備メモなどとは違って公的な町史なんですから、拓本もお寺や檀家の理解が得やすいはずですし、公的責任においても得るべきです。自分達の故郷の歴史を後世に残すための町史が貴重な銘文を採録しないでいったい誰がするのですか!とあえて申し上げたい。別途どなたかの史料紹介があったのかもしれませんが、だとしても町史が銘文を採録しない理由にはなりません。ちょっと言い過ぎたかもしれませんがあえて苦言、関係者の方、もしご覧になられていたらご免なさい、お許しください。


奈良県 宇陀市大宇陀区岩清水 栖光寺跡五輪塔

2008-05-02 00:58:34 | 五輪塔

奈良県 宇陀市大宇陀区岩清水 栖光寺跡五輪塔

岩清水の集落を過ぎ、谷筋の水田を右に見て300メートル程北上すると、東側の奥まった目立たない尾根裾に六柱神社がある。18_2神社の南、尾根上に向かう小道を登っていくとすぐにちょっとした平坦地に出る。ここに半ば埋まって巨大な五輪塔の部材がある。19六孫王経基の墓塔との伝承があるという。(この人は清和天皇の孫で、多田満仲の父にあたる清和源氏の祖。生没年不詳ながら10世紀前半の活躍が確認され、五輪塔の年代とは数百年の開きがある。)この付近が栖光寺跡と伝えられるが、どのような寺院だったのか詳しくない。このような巨大な石材を尾根上に上げるには、かなりの労力を要したであろう。また、後からあえてこのような場所に巨石を移すことも考えにくいので、概ね原位置にあるとみてよいと思われる。地元の信仰が厚いようで、今も香華が手向けられている。現在確認できるのは火輪、水輪、空輪のみで、地輪、風輪は見当たらない。空輪と一石彫成されているはずの風輪は空輪の地下に埋まっているのだろうか。東から火輪、水輪、空輪の順に並んでいる。花崗岩製で全体に鑿跡がくっきり残24る。火輪は、背面が大きく欠損し、残存するのは半分程度である。軒幅約151cm、東側軒隅が少し欠けており推定復元幅約156cm。軒上端の最も低いところからの高さ約60cm、頂部幅約63cm、頂部西側も少し欠けているので復元すると約66cm。現地表からの高さ約70cmである。軒口は上方を残し少なくとも5cm以上は埋まっており、厚みや軒反の様子はハッキリしないが、軒上端の隅に向かって見せる反りにあまり硬さは感じられない。屋だるみもさほど顕著でない。頂部は中20央に直径約16cm、深さ約7cmの枘穴がある。水輪はやや上下に押しつぶした感じで、直線的なところはなく、スムーズな曲線を描く。直径約155cm、地表高約75cm、上端は直径約87cmの平坦面となり、中央に16cm×13cm、深さ約7cmの長方形の穴がある。枘穴か奉籠孔か判断できない。空輪は直径約86cm、地表高約60cm、頂には径約10cm、高さ4cmほどの突起があり、全体が桃実状を呈する。やはり曲線はスムーズで、直線的なところはない。五輪塔は、これらの部材を復元すると塔高5mに達するとされる。10仮に水輪径117cm、火輪幅124cmで塔高336cmの西大寺叡尊塔を例に、単純比で塔高を復元すると、水輪比で塔高約445cm、火輪比では約423cm程になる。5mはちょっとオーバーで、恐らく4.5mほどであろうか。それにしても大きい。造立年代について、清水俊明氏は「南北朝後期の説もあるが、火輪の軒反りの形式などからは、もう少し下げてよいと考える」と述べられており、元興寺文化財研究所の報告では南北朝とされている。埋まっている部分があってハッキリしないが、空輪、水輪の曲線がスムーズで、火輪の軒反りも上端のみだが、それほど硬い感じを受けないことから、従前言われているよりも、案外古いものかもしれない。残念ながら倒壊し残欠状態ではあるが、古い五輪塔では、石清水八幡宮五輪塔に次ぐ大きさで、神戸市の敦盛塚塔などよりも大きい。大和では叡尊塔を遥かに凌駕し最大。謎の多い五輪塔だが、もっと注目されてしかるべきものである。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 501~502ページ

   元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

   平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 778ページ

写真左中:火輪、右下:水輪、左下:空輪

6mの超巨大五輪塔があるのも石清水ですが、ここも岩清水です。イワシミズつながり。何か妙に示唆に富んでる偶然です・・・。なお、法量数値はコンベクスによる大まかな実地計測値なので多少の誤差はご勘弁ください。特に高さについては、すべて現在の地表面からの高さですので、埋まっている部分はみてませんので悪しからず。


奈良県 奈良市須川町 神宮寺宝篋印塔

2008-04-30 23:29:57 | 五輪塔

奈良県 奈良市須川町 神宮寺宝篋印塔

須川町は奈良市北東部の山間の集落で、北に向かって谷筋を下っていけば笠置に出る。南北に長い須川貯水池の最上流部にある相和小学校の南南西約300m、尾根上に天竜山神宮寺(真言宗御室派)がある。01県道の西側、尾根のピークに隠れて県道側からは少々目立たない場所にある。04 明治初期に近くの戸隠神社の別当寺であった神宮寺、羽林寺、丸尾寺、妙蓮寺、薬師寺が統廃合、羽林寺の跡に改めて新たに神宮寺としてできたといわれており、宝篋印塔も別の場所から移されたともいう。本堂の向かって左に建つ一際存在感のある大柄な宝篋印塔が目に入る。花崗岩製、現在高約230cm。軒幅は約1mもある。後補の石積壇の上に立つ。非常に低い側面無地の基礎の上に別石作りの2段を置き、幅に比べやや高さが勝る比較的大きい塔身には、狭めに輪郭を巻き、内側いっぱいに月輪を描く。月輪内には雄渾なタッチで金剛界四仏の種子を大きく薬研彫する。笠は、軒と笠下2段、笠上段形部分がそれぞれ別石造りになっている。さらに笠上3段目以上は通常と異なり屋蓋四注形となる。四注はゆるく反り、頂には露盤を削りだしている。隅飾は二弧素面で、やはり軒と別石で、笠上段形と同石彫成になっている。ほぼ垂直に立ち上がり、長大とまではいえないが、笠全体に比して少し大きく感じる。相輪は九輪の中ほどが残るのみだが、凹凸のはっきりした逓減の少ないタイプで、当初のものの残欠とみて間違いないだろう。17この宝篋印塔の最大の特長は、笠上の屋蓋四注形で、14屋だるみや露盤まで表現するのは、大和では他に例がなく、日本最古の宝篋印塔との呼び声も高い京都の鶴の塔こと旧妙真寺塔にも通じる手の込んだ意匠表現である。さらに各部別石造りとする構造形式は、高山寺式宝篋印塔の系譜を引くと考えられる京都の宝篋印塔に多く見られる。特に、別石の各部構成は、大和最古とも目される唐招提寺開山廟塔(覚盛上人墓塔か?)と同じである。こうした点に加え、塔身種子が雄渾なタッチの浅い薬研彫であること、塔身が背高で大きいこと、基礎が極めて低いことなど、総じて非常に古い特長を示している。以上のことから、造立時期については、鎌倉中期、13世紀中頃まで遡らせて捉えることも可能ではないかと思われる。なお、川勝博士は中期末頃、清水俊明氏は鎌倉中期とされ、案内看板には13世紀から14世紀初期(※英語表示部分)とある。一方、太田古朴氏は鎌倉末期と推定されている。いずれにせよ、無銘であり推定の域を出ない。全体に優れた出来ばえを示すシャープな彫成と、風化の少ない緻密で良質な石材の清浄な質感がよく陽に映えて、見る者に爽快感を与える素晴らしい宝篋印塔である。境内には他にも近世の大きな宝篋印塔や無銘ながら反花座に立つ鎌倉末仕様の立派な五輪塔(花崗岩製、高さ約150cmの五尺塔)、光背を半ば欠くが天文年間の銘のある石仏(施無畏・与願印の如来立像)、小石仏、一石五輪塔、名号碑等が見られる。

 

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 137ページ

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 293ページ

   平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 654ページ

   太田古朴 『大和の石仏鑑賞』 87ページ、122ページ


京都府 京都市東山区新橋通東大路東入林下町 知恩院五輪塔

2008-03-30 22:38:22 | 五輪塔

京都府 京都市東山区新橋通東大路東入林下町 知恩院五輪塔

知恩院04の御影堂から西の阿弥陀堂へと続く高い渡り廊下の北側、収蔵庫との間の目立たない場所に立派な五輪塔がある。さすがに浄土宗総本山だけあって参詣者も多いが、この五輪塔を気に止める人はまずいない。しかし、かつては北野東向観音寺塔や革堂行願寺塔などとともに忌明塔として知られたもののひとつであったという。06知恩院は法然上人が吉水の一画に草庵を結んだのが発端となり、最初は、今の勢至堂付近だけのもっと規模の小さかったものが、慶長年間に寺域を拡大、今日の大伽藍となったという。五輪塔は台座は見られず、直接地面に据えられ、細長い切石を井桁に組んで地輪の周りを囲んでいる。地輪は比較的背が低く、水輪は適度な横張があって曲線に硬さはない。ただ最大径が下方にあって重心が低い。あるいは上下逆に積まれている可能性がある。火輪の垂直に切った軒口はぶ厚く、隅に向かって反転する軒反は力強い。四注の屋だるみはさほど顕著でない。空風輪の曲線はスムーズで、ややくびれは強いがとりわけ07_2空輪の完好な宝珠形は申し分ない。各輪とも素面で種子、紀年銘等は見られない。高さ約277cm、地輪幅約104cm、同高約79cm、火輪幅約101cm、規模も大きく、各部のバランスも素晴らしい。緻密で良質な花崗岩製。各部素面、梵字も無く、銘も確認できない。しかし、表面の風化も少なく、遺存状態は極めて良好、エッジの利いた鋭い彫成をよく今に伝えている。かつてこの地には西大寺末寺の律宗寺院の速成就院があったとされ、この五輪塔はその旧物だということである。なるほど律宗系寺院などによくみる鎌倉後期様式の完成された典型的な大型五輪塔である。造立は恐らく13世紀末ごろと思われる。真偽のほどは怪しいが忍性の墓塔との伝承もあるらしい。いずれにせよ京都でも有数の見るべき五輪塔である。

参考:川勝政太郎 『京都の石造美術』 145ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 50~51ページ

   (財)元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告


奈良県 生駒郡平群町鳴川 千光寺宝塔

2008-03-19 00:08:58 | 五輪塔

奈良県 生駒郡平群町鳴川 千光寺宝塔

千光寺は役小角が大峰山に移る前に修業したと伝える山岳霊場で、元山上と呼ばれる。真言宗醍醐派。07本堂裏の一段高いところに近世の五輪塔と並んでこの宝塔がある。高さ133cm、花崗岩製。宝塔といっても一見したところでは五輪塔に見える。五輪塔と呼んでも差し支えない。03あえて宝塔とするのは、塔身に首部が設けられていること、笠頂部に露盤が見られることによる。非常に低い基礎、塔身は横張りが弱く樽型で上端に高さ2.5cm程の段を付けて低い首部を削りだしている。笠は全体に高く、軒口は薄く全体に緩く反る“真反り”に近く、四注の屋だるみも緩い。軒口は心なしか内斜気味に切ってあるようにも見える。笠裏に垂木形は見られない。上端を広めにとっているせいか屋根の傾斜がきつく見える。笠頂部に低い一段を設けて露盤を表現している。通常の宝塔では相輪とするところを伏鉢と宝珠としている。伏鉢も塔身に似て樽型で押しつぶしたように上下に短い。宝珠との境に頸部を設けるのも古い手法。宝珠は全体になだらかなカーブを描きながら先端を尖らせ下端を水平気味にそろえて最大径を下にもってくる。川勝博士いわく「蓮の蕾の下方を切りとったような」形状を呈し古風な宝珠の意匠表現である。02_2各部素面で刻銘、種子等は見られない。造立年代は鎌倉初期とされている。こうした珍しい形状は他に比較する材料が少ないため、確かなことはいえないが、笠がやや高い点を除けば平安末期とされる当麻北墓の五輪塔(2007年3月3日記事参照)と全体のプロポーションに通じるものがあるように思う。むしろ五輪塔の祖形が宝塔にあるとの考え方に立てば、千光寺塔がより古いとの見方も成り立ちうる。09一方、当麻北墓塔の石材は凝灰岩、千光寺塔は花崗岩である。凝灰岩は平安期の石塔に多く採用され、花崗岩の採用が一般化するのは東大寺再建に伴い来日した伊派をはじめとした宋人石工の活躍により石材加工技術が発展するようになる鎌倉時代初期以降とされている。もっとも凝灰岩は鎌倉期にも見られるし、鎌倉以前の花崗岩製品がないわけではないが、大きな流れとして捉えるならば凝灰岩は古く花崗岩は新しいとの考えは概ね正しいと思われる。原始的な形態をとどめているとはいえ、宝珠や塔身の曲線、四注の屋だるみや軒反など千光寺塔の造形は一定レベルに達した花崗岩加工技術がなければ彫成しえない可能性が高いと思われる。このように考えてくると千光寺塔の造立年代は13世紀初めごろとして大過ないと思われる。なお、寺蔵の梵鐘に「大和国平群郡千光寺 元仁2年(1225年)乙酉四月日」の銘があり、これはそのころ千光寺の何らかの施設整備が行なわれた可能性を示すもので、このあたりもヒントになるだろう。すぐそばに鎌倉後期と思われる十三重層塔がある。壇上積の基壇を備え、低い基礎は側面素面、雄渾な金剛界四仏の種子を塔身側面月輪内に薬研彫し、厚めの軒口と適度な軒反と各層の逓減も美しいが惜しくも相輪先端を欠く。花崗岩製で高さ約3.5m。鎌倉時代後期半ば頃のものと思われる。

 

左下写真:最も古い形態の”五輪塔”と江戸時代前期と思われる新しい五輪塔が仲良く並んでいます。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 149ページ

   元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 428~429ページ

   平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 65~66ページ

 

 

この他にも鳴川には優れた磨崖仏や弘安4年銘のゆるぎ地蔵など見るべき石造美術が多いので、また別途紹介します。

 


奈良県 生駒郡平群町鳴川 鳴川墓地五輪塔

2008-03-16 09:15:14 | 五輪塔

奈良県 生駒郡平群町鳴川 鳴川墓地五輪塔

山深い鳴川の一番奥にある古刹千光寺からさらに奥に山道を登っていくと行き止まりに共同墓地がある。04尾根斜面の雑木林は段々に整地され墓塔が立ち並び、墓地入口には小形の五輪塔や一石五輪塔、箱仏などが集められている。09この尾根のピークを低い土壇状に整形し、中央に角張った自然石を不整形に組み並べた上に五輪塔が立っている。花崗岩製で高さ約195cm。全体に表面の風化が進んでいる。地輪、水輪、火輪の四方側面に大きくア・バ・ラの五大の種子を雄渾かつ端正なタッチで刻む。四面とも東方発心門のようである。幅広くで彫りの浅い薬研彫で、空風輪にあるべきキャ・カの種子が風化のせいか見られない。全体的なバランスとしてもやや小さいので空風輪は別物の可能性が残る。地輪は低く安定感があり、水輪は小さめで横張り感は少なく、裾のすぼまりがなく上下に押しつぶしたような形状。種子の向きが斜めにずれている。火輪は全体に低く、軒口はそれ程厚くなく、隅増しのあまりない反り、四注の屋だるみともに緩く伸びやかな印象を与えている。鎌倉後期の大和系五輪塔に通有する反花座は見られない。こうした特長は、文永10年(1273年)銘の生駒市興融寺五輪塔、笠木寺解脱(貞慶)上人五輪塔などと概ね共通する古い意匠表現で、鎌倉後期様式が定型化する以前の古調を示す。造立時期は鎌倉中期、13世紀中頃まで遡らせて考えることが可能である。古い墓地の惣供養塔であろう。規模も大きく、雄大な種子が印象に残る優美な五輪塔である。いつまでも静かに墓地を見守っていてほしいものである。

先に紹介した不退寺裏山墓地五輪塔(2008年2月記事参照)の写真と見比べてみればよくわかると思いますが、ここの五輪塔は、律宗系の五輪塔の厳しさすら感じさせる剛健な力強さとは明らかに趣きを異にしています。何というか伸び伸びとしてどことなく神秘的です。品があって優雅で、とてもいい感じです。なお、千光寺の石造宝塔等をはじめ付近には見るべき石造美術がいくつかありますが、これらは改めて別途紹介します。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 428ページ

   元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

妄言:実測による数値や形式分類といった客観的合理性を伴う学問的アプローチで石塔などの相違や変遷を追及していくことは保存保護を考える上からも重要ですが、意匠表現が視覚的に与える効果など、なかなか数値で測りにくいところもあります。価値を価値として認識するのは結局のところ一人ひとりの人間ですので、いいものはいいんですといえる感覚を醸成していくことがまずは第一歩になると考えています。静かな木漏れ日の下でこうした優れた五輪塔の持つ雰囲気や趣きをじっくり味わうことも実はとても大切なことだと思います。


京都府 木津川市加茂町美浪 西光寺墓地五輪塔

2008-03-11 00:26:17 | 五輪塔

京都府 木津川市加茂町美浪 西光寺墓地五輪塔

区画整理と開発が進む加茂駅周辺を見下ろす丘陵斜面に広がる共同墓地がある。入口に無縁石塔が大量に集積され、中世末期から近世初めの小形の五輪塔や背光五輪塔などが多数みられるほか、相撲取のものと思われる近世の石塔が何基かあって興味深い。墓地の北側に西光寺がある。さほど大きくない境内は、広い墓域に囲まれ墓寺の観がある。境内南隅に立派な五輪塔3基が、切石を長方形に組んだ基壇状の区画内に南北に並んでいる。02いずれも良質な花崗岩製、各輪素面で梵字は見られない。便宜上北塔、中央塔、南塔と呼ぶ。北塔は繰形座上に立ち、高さ約146cmと3基の中では一番小さい。01地輪は高すぎず低すぎず、水輪はやや重心が高く裾すぼまり感が強い。火輪は全体に低めで軒口は厚く軒反はやや力が抜け下端より上端の反りがやや勝る。空風輪は完好な曲線を描く。全体的なバランスも整い総じて温雅な雰囲気がある。中央塔は大和系の反花座を備え、高さ約165cm。地輪の比高はやや大きい。水輪は北塔よりも裾すぼまり感が小さく、03美しい曲線を描く。火輪は3基中で最も軒厚く、軒反に力があり、その分屋だるみも強い。一方、風輪の曲線はやや硬く、空輪は大きく重心が高いので球形に近く、くびれも強い。南塔は高さ約155cmで台座がなく、代わりに平らな長方形の切石2枚を基壇状にして地輪下に敷いている。地輪と水輪は中央塔とほぼ同一規格だが、やや地輪の比高が低い。火輪の軒反は力強いが軒口の厚みは中央塔に及ばない。空風輪の曲線は硬く、空輪先端の尖りが3基の中では顕著である。3基ともよく似た規模で、各部の特長、新旧の要素に混乱があって各部が入れ替わっている可能性は残る。鎌倉後期から南北朝時代にかけて相前後して造立されたものと考えられる。また、北塔の繰形座は、叡尊塔をはじめ西大寺流の高僧墓に多く見られることから注目してよい。さらに、墓地の中央付近、近・現代の墓塔に混じって一際立派な五輪塔があるのが見える。花崗岩製、高さ約185cm、西光寺境内の3基に比べると表面の風化がやや進行している。最近補加された真新しい切石が地輪下に見られるが、台座は見られない。各輪に五輪塔四門の梵字を大きく薬研彫し、書体は雄渾かつ端正。ただし方角は各輪バラバラのようである。地輪は高すぎず低すぎず、水輪はやや小さめで裾すぼまり感のない整った球形で古調を示す。火輪の軒は厚く軒反は全体に緩く反る感じである。空風輪のくびれは強いが曲線はスムーズで空輪の重心は低い。火輪の軒や水輪、各輪の雄大な梵字など随所に古調をとどめるが、空風輪の形状、線が細めで彫りの深い薬研彫の手法を鎌倉中期にまで遡らせるには若干躊躇を感じる。鎌倉後期形式が定型化する直前、鎌倉中期末~後期初頭ごろの造立とみたいがいかがであろうか。旧加茂町を含む南山城地域は見るべき石造美術が集中する一大メッカ。川勝博士が指摘されるように、京都とはいっても石造美術の文化圏としては大和に属する。

参考:元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

   川勝政太郎 『京都の石造美術』

写真上:右が北塔、写真中:手前が北塔、写真下:墓地塔(写真下だけは撮影日時が異なります。)

ひとつの場所で4基も見ごたえのある五輪塔が揃う例はそうそうないのでお勧めです。