宝篋印塔について(その3)
この宝篋印陀羅尼経と銭弘俶が作らせた金属製小塔を結びつけるものとして道喜という僧侶が康保2年(965年)に書いたとされる「宝篋印経記」をあげなければならない。これは経典ではなく体験談的なエピソード記録文で原文漢文体。扶桑略記に記載があり、京都栂尾高山寺や河内長野の金剛寺など各地に伝わる宝篋印陀羅尼経の本文に付属してワンセットで書写されたものが残されているようで、薮田嘉一郎氏はこれらを元に定本化を試みられている。それによると「去応和元年、遊右扶風、干時肥前国刺史称唐物出一基銅塔示我。高九寸余、四面鋳鏤仏菩薩像、徳宇四角、上有龕形如馬耳、内亦有仏菩薩像、大如棗核。捧持瞻視之頃、自塔中一嚢落、開見有一経、其端紙注云。天下都元帥呉越国王銭弘俶国王揩本宝篋印経八万四千巻之内安宝塔之中供養廻向已畢顕徳三年丙辰歳記也。文字小細老眼難見、即雇一僧令写大字一往視之。文字落誤不足眈読、然亦粗見経趣。…中略…問弘俶意。於是刺史答曰、由无願文其意難知、但当州沙門日延、天慶中入唐、天暦の杪帰来、即称唐物付嘱其塔之次談云。…中略…爰有一僧告云。汝願造塔書宝篋印経安其中供養香華、…中略…于時弘俶思阿育王昔事、鋳八万四千塔、揩比経毎塔入之。是其一本也云々。…後略」とあり、応和元年(961年)に今の佐賀県で、中国からの招来品という銅製の塔を国守から見せられた時の記録であることがわかる。戦いに明け暮れ残虐行為にも手を染めた銭弘俶が心身耗弱状態に陥り、僧の勧めに従い阿育王の故事に倣って宝篋印経を納めた八万四千の塔を鋳造、功徳により救われたというエピソードとともに、天暦年間の終わりごろ(957年ごろ)中国から帰った日延なる僧がその塔の一部を招来し、国守がもらったのだというのである。四角い屋蓋部に馬耳の如き龕形があるという旨の記述の内、隅飾を示すものと思われる「如馬耳」という言葉が早くも使用されていることは実におもしろい。(続く)