滋賀県 長浜市西浅井町黒山 黒山道二体地蔵石仏
JR湖西線永原駅の西方約400m、黒山に向かう道路が山裾に沿ってカーブする場所の南側、道路に沿って黒山川がすぐ南を流れる道路脇に幅約250cm×奥行き約110cm、高さ約125cmの不整形な長方形の花崗岩の岩塊が少し唐突な感じで置かれている。この岩塊に注目すべき石仏が彫られている。昭和49年4月、大津市在住の石仏研究家であった川端菊夫氏によって紀年銘が確認され『史迹と美術』に発表されて以来注目を集めることとなった石仏である。岩塊北西側、幅約230cmの広く平らな壁面の中央に、ほぼ同じ大きさ同じ手法で2体の石仏が並んで刻出されている。いずれも舟形光背形を彫り沈めた中に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りしており、向かって右側の舟形光背形は高さ約80cm、最大幅約35cm、同じく左側で高さ約78.5cm、最大幅約37.5cm。像高は右側で約69cm、左側で68.5cmである。舟形光背形の彫り沈めの下側にはそれぞれ蓮華座が刻出されている。ともに太い陰刻線で縁取った蓮弁を浮き出させるような手法であるが蓮弁の形状が左右で若干異なる。向かって左側のものの方が蓮弁を大きく表現しており、右側に比べてふっくらとした印象を受ける。この点は川端氏が指摘されている。右側の蓮弁は幅がやや狭いが描かれる曲線は柔らかい。印相持物も異なっており、右像は合掌、左像は右手に柄の短い錫杖を執り左の掌に宝珠を載せている。それ以外の肉取りや衣文表現などは一致しており、同じ石工により刻まれその時期もほぼ同じと考えてよいだろう。頭部が大き過ぎずスマートな体型で、像容表現は一見すると、ややもすれば稚拙とも感じられるが、袖裾が長くならないで膝下付近にとどまっている点や裳裾から両足にかけての表現に写実的なところを残している点など細部は古調を示している。表面の風化摩滅が進み左像面相は辛うじて眉から目元にかけて痕跡をとどめ右像の面相はほとんど確認できない。右像の舟形光背形の向かって右側に陰刻銘があるのが肉眼でも認められる。川端氏は「…立嘉元二年(1304年)二月十八日」と判読されている(「年」「月」「日」の3文字は伏字)。嘉元二は肉眼でも確認できるが「嘉元二」と「年」の間が少し離れており、干支があったのかもしれない。たが肉眼では「年」は「十」にも見え、川端氏の報文に掲載された拓本を見ても同様である。川勝博士、清水俊明氏ともにこの点には特に触れておられないが、あるいは十二月十八日の可能性もあるように思うがいかがであろうか。いずれにせよ古い在銘の石仏が必ずしも多くはない近江にあって鎌倉時代後期、14世紀初頭の紀年銘は貴重。近江の石仏を考えていくうえでの基準資料として見逃せない石仏である。かけがえのない故郷の遺産としていつまでも後世に守り伝えていってもらいたいものである。また、我々はこの石仏の特長、例えば蓮華座の形状や柄の短い錫杖、裳裾の処理の仕方といった細部をしっかり観察しておくことが大切であろう。
参考:川端菊夫 「湖北黒山道の二体地蔵石仏」『史迹と美術』第444号 1974年
清水俊明 『近江の石仏』 創元社 1976年
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 東京堂出版 1998年
川端報文によれば、地元の人の話として昭和40年代前半頃にそれまで川の土手に転がっていたのを引き上げたとのことです。
ところで広い意味では磨崖仏も石仏の一形態ですが、普通の石仏と磨崖仏の違いは何かというと、動かせるか否かということです。石仏は運搬が可能ですが、岩盤に彫られた磨崖仏は動かせませんよね。つまり動産と不動産みないなものでしょうか。ですから、許されない行為ですが理屈上は岩盤を割ったり刳り抜いて動かせるようにしてしまうと磨崖仏が石仏になってしまいます。この黒山道の地蔵石仏の場合は巨岩の部類に入る岩塊の壁面に彫られているので磨崖仏といえなくもないわけです。しかし容易ではないにせよ移動させることは可能で、現に川から引き上げられていますので川勝博士をはじめ諸先達は磨崖仏とは呼んでおられませんね、ハイ。それから例により文中法量数値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。
なお、川端氏について、この方は本職は小学校の先生で校長先生をなさってみえた由。川勝博士と同年の明治38年のお生まれですが川勝博士に師事され石造の中でも特に石仏に力を入れられたリスペクトすべき近江の石造美術の大先達です。
追伸:
サイトUPを機に再訪したところ、方角が少し違っていましたので修正しました(すみません…)。二体地蔵石仏は岩塊の西側ではなく北西側にあります。 再訪の際、たまたま花を供えにきてみえた地元のご高齢の女性にお話をうかがうことができました。嫁いで来てかれこれ50年以上になるとの由、岩塊が本当に移動されたのかお尋ねしたところ、本当だとのことでした。元は5~10m程下流側の川の対岸の土手にあったとのことで、土地改良か河川工事かの関係で移動させる必要が生じ、「どかた」(工事関係者か)の人達がやっとこさで移動させたとのお話でした。さらに岩塊北側の側面に作りかけのまま放置された石仏の頭部らしいものがあることをこの女性に教えてもらいました(右の写真中央に丸い部分があるのがおわかりいただけますでしょうか…)。周囲を彫り沈め径10cm程の丸い地蔵菩薩の頭部のような部分が刻出されているように見えます。いわれると確かに人為的な感じを受けました。何かの事情で製作途中で放置されたのでしょうが、詳しいことはわかりません。二体地蔵石仏に加えここにも花が供えられています。花を供え石仏にぬかずかれるこの女性のお姿に接し、地元の信仰に厚いほとけ様だということに改めて気付きました。貴重なお話を聞かせていただいたうえに、遠いところからよく訪ねて来てくれたと喜んでいただき恐縮した次第です。謹んで感謝の意を表したいと思います。