滋賀県 近江八幡市浄土寺町 縁切地蔵石仏及び天神社層塔
湖東平野に横たわる独立山塊である雪野山を東西に貫く雪野山トンネルの西側の坑口の約100m程西側から北に折れて200mほど進むと、西側を流れる日野川の高い堤防が山際に取り付くすぐ北側が天神社という神社の参道になっている。雪野山から北西に細長く延びる尾根(安吉山と呼ばれている)の南麓にある浄土寺町の集落側から見れば南東のはずれにあたる。この土手の南側、神社参道側から見て土手のすぐ裏手に杉の巨木が聳えている。その根元に笠石仏が祀られ“縁切地蔵”と呼ばれている。俗世界のしがらみや悪縁を断ち切ってくれるのにご利益があるのだろうか、詳しいことはわからないが周辺はきれいに掃き清められ香華が絶えない様子である。周囲には一石五輪塔や小型の石仏や五輪塔の残欠などが集められている。笠石仏は下端が埋まって確認できないが、宝珠先端までの現状地表高は約160cm。軸部は現状高約110cm、幅約118cmで、最も厚みのある下端付近の厚さ約47cmの平べったい自然石で、その上に別石の笠石と請花宝珠を載せている。地蔵菩薩は西側面に刻まれている。平らな面の中央を高さ約95cm~99cm、幅下方で約62cm、上端で約46cmの縦長のやや不整形な方形に深さ5cm前後の深さに彫りくぼめ、内に蓮弁を線刻した蓮華座上に像高約80cmの立像を半肉彫している。頭部のまわりには径約30cmの頭光円を線刻している。この円光背の上方は彫りくぼめた枠の外側に少しはみだしており、その分だけ彫りくぼめを拡げているのがおもしろい特長である。右手には錫杖を執り、左手に宝珠を乗せた通有の印相で、大きい錫杖頭の中は五輪塔2基を縦に並べたような珍しい意匠になっている。彫成は全体に丁寧で、面相の表現に優れ、親しみのもてる円満童顔の表情が印象的である。蓮華座の蓮弁の形状は悪くないが、体側線の描き方や小さい手足の意匠表現には稚拙感が否めず、衲衣や衣文もやや簡潔に過ぎる。石材は花崗斑岩ないし流紋岩と思われ、自然石のままの表面は茶褐色だが像容も含めた彫りくぼの内側の色調は黒っぽい。笠石は花崗岩で間口が広い宝形造で軒幅約69cm、奥行き約47cm、高さは約21cm。軒口の厚みは約6cm、隅で約7cmとさほど重厚感はなく、緩めの軒反にはあまり力がこもっているとはいえない。笠裏は素面で垂木型は見られない。笠石上端は幅約25cm×20cmの平坦面となり、中央に径約8cmの枘穴がある(枘穴は硬くしまった土で埋まっており深さは不詳)。現在笠上に載る請花宝珠は高さ約29cm、やや大き過ぎの感を禁じえない。また、わざわざ枘を少し削って安定を図って置いているので本来のものではない。五輪の梵字が四方に刻まれており五輪塔の空風輪であろう。元はこれよりひとまわり小さい請花宝珠が載せられていたと思われる。造立時期について、清水俊明氏は南北朝時代末期頃と推定されている。小生も概ねそのくらいで大過ないと考えるが、あるいはもう少し新しいかもしれない。表面の風化が少なく像容の遺存状態は良好で、一具と思われる笠石がセットで残っている点も希少価値が高い。なお、自然石に刻まれた地蔵石仏に笠石を載せた事例は湖南市の少菩提寺跡の地蔵三尊の中尊に見られる。近江でも室町時代以降に多数造立される笠仏や箱仏(石仏龕)のあり方を考えていく上で貴重な存在と言えるだろう。
さて、天神社の鳥居をくぐり、参道を進むと山麓に拝殿があり、さらに山道に続く石段を300mほど登っていくと立派な層塔が忽然と姿を現す。社殿からは一段下がった場所で、基壇などは特に設けられておらず、枯葉の積もるような地面に直接基礎が置かれている。花崗岩製で現高は約3.5m。初重軸部と最上層を除く各笠石は軸部一体式の通有のもので、現状は六重。最上層七重目の笠石だけは傍らに置かれている。相輪は亡失。少し前まで最上部に小型の宝篋印塔の笠石(笠下請花)が相輪の代りのように載せられていたようだが、現在はどこにも見当たらない。基礎は各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配している。格狭間内は珍しく素面で近江式装飾文様は見当たらない。幅は約93cmもあり、高さは約54.5cm。塔身(初重軸部)は高さ約52cm、幅約46cmと高さが勝り、各側面とも線刻の蓮華座上に舟形光背型を彫り沈め、内に四方仏座像を刻出する。薬壺を手にする薬師如来が確認できるので釈迦、阿弥陀、薬師、弥勒の顕教四仏と考えられる。像容表現は優秀で、保存状態も悪くない。弥勒と思われる面の光背外側の左右に「正和二季癸丑三月日/願主藤原氏女」と陰刻されているのが肉眼でも確認できる。正和2年は鎌倉時代後期、西暦1313年である。初重笠石の軒幅は約78cmと基礎の幅に比してやや小さ過ぎることなどから、田岡香逸氏は元は十三重であったのではないかと推定されている。もっとも元々七重、あるいは九重であった可能性も否定はできない。各層とも垂直に切った軒口は重厚である。軒反は上端が力強く下端を水平に近くしている。これは一般的に江戸時代に降る新しい手法とされるが、鎌倉後期にもこういう例があるようである。また、各層とも笠裏は素面で垂木型は認められないが最上層の笠裏だけには垂木型があるらしく、これだけが別物と推定されている。ただしサイズや風化度合い、石の質感に特段の違和感はない。仮に十三重であった場合の高さは6.6mに達したと推定されている。相輪を失い、笠石の欠落や寄せ集めの疑いが提起されてはいるが、小生は元々今のままの七重層塔であったとしてもそれほど不都合はないようにも思うがいかがであろうか。ともあれ湖東における層塔の在銘基準資料として貴重な存在である。
参考:川勝政太郎 『歴史と文化 近江』
田岡香逸 「近江旧蒲生郡の石造美術(前)-近江八幡市と蒲生町-」『民俗文化』183号
清水俊明 『近江の石仏』
近江は層塔もすごいです。その象徴的存在が日本最古とも言われる石塔寺の三重層塔だと思いますが、中世における造立数は大和の比ではなく恐らく日本一ではないかと思います。笠石の残欠をいたるところで見かけますし優品や在銘品も少なくありません。数多い石塔類の中で最も本格で保守本流を行くのが層塔ですが、五輪塔や宝篋印塔などに比べると意外に基礎的な調査や研究が遅れているように思われます。それと近江には古い石灯篭もかなりの数があります。大和には四角型の超宝庫である春日大社があるので、まぁ四角型を除くならば中世の石灯篭の残存数もたぶん近江が日本一だと思います。その象徴的な存在は河桁御河辺神社のものになるのでしょうか…。石灯籠は作るのに手間がかかるという点(つまり美術的要素が強くしたがって高価なんでしょうねたぶん…)で石造の中でもトップクラスだと思いますが、やはり近江では基礎的な調査や研究の面で層塔と同様に遅れているような印象があります。じつにもったいないことです。
たまたま現地で地元の方から聞いたところによると、縁切地蔵の周囲に集められた小石仏や五輪塔は近くの田んぼの中から出たとのことです。また、天神社のある付近から浄土寺集落の間の山手には古い寺院があったらしく、山林中に火葬のための大きい穴(詳細不明)があるとのこと。その付近には五輪塔や石仏が地中にゴロゴロしているらしいとのことでたいへん興味深いお話でした。地名の元になった寺院がそれなのか、詳しいことはわからないそうです。天神社には立派な鎌倉後期の石造層塔が残されていることから、やはり中世寺院がこの付近のどこかにあったのは疑いないでしょうね。汗を拭き拭き石段を登り、夕暮れ迫る木陰に忽然と勇姿を現した層塔を見た時は感動的でしたが、まぁ蚊が激しく早々に退散せざるをえませんでした。石造探訪には防虫対策は必須、この時期の基本ですね、ハイ。それにしても、かつて載せられていた宝篋印塔の笠はいったいどこへ行ったんでしょうか?雪野山の山頂には有名な雪野山古墳があり、同古墳への上り口のすぐ近くなので、車は古墳見学者用の駐車場にとめておけます。