石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 木津川市木津清水 木津惣墓五輪塔

2011-12-15 00:42:56 | 五輪塔

京都府 木津川市木津清水 木津惣墓五輪塔

JR木津駅の西方約400m、国道24号線から西に少し行くと地区の公民館脇のちょとした空地に見上げるような五輪塔が忽然と姿を現す。01何故このような場所に場違いとも思える巨大な五輪塔が建っているのか首を傾げたくなるが、実はこの付近は、かつて木津地域の古い惣墓(共同墓地)があった場所なのである。昭和の初め頃の土地区画整理で駅の東方の山手に墓地は移転した。03昭和5年頃から約2年半をかけて墓地にあった大量の墓標や石塔等を調査され、形態や紀年銘、数量などから墓地の変遷を明らかにされた坪井良平氏の研究で石造物の研究史の上からも名高い場所である。墓標・石塔類は三千基以上あったとされ、調査から漏れた石造物も少なくなかったようである。移転と平行して行なわれたであろう調査ではそれも致し方ない。今でも道路工事などの際に地中から石塔などが出土することがあるという。

その後、辺りは市街化が進み、かつての面影を偲ぶよすがもほとんど無くなってしまったが、惣墓の総供養塔として造立されたと考えられているこの巨大な五輪塔は今も元の場所にその雄姿をとどめているのである。

花崗岩製で地輪下には反花座がある。高さは3.67mとされ、巨大五輪塔として名高い西大寺奥の院の叡尊塔(高さ3.34m)に比肩する規模を誇る。もっとも空風輪は、空輪先端の尖りが大きく、側線が直線的でくびれも大きいことから時代が降る特長が顕著で後補と考えてよさそうである。地輪は幅約119cm、高さ約79cm、水輪の径約123cm、高さ約92cm、火輪の軒幅は約114.5cm、高さ約70.5cm。地輪下端から火輪上端までの高さ241.5cmで、各部の計測値は叡尊塔よりも若干小さい。空風輪の高さは目測で1m程なので、高さ3.67mというのは反花座を含んだ総高かもしれない。仮にそうだとすると塔高は約3.4m余りであろうか。地輪側面には造立銘が陰刻されている。05_3東面に「同七月十五日阿弥陀経/一万遍光明真言□□□/和泉木津僧衆等/廿二人同心合力/勧進五郷甲乙諸/人造立之毎二/季彼岸光明真言/一万反阿弥陀経/四十八巻誦之可/廻向法界衆生/正応五年(1292年)壬辰八月日」とあるのが当初の造立銘だが、最初の二行は文字の大きさや文意から追刻と考えられている。地元の僧22人が協力して勧進し、5つの地域のさまざまな人々からの寄付によって作られたことがわかる。毎年二度の彼岸に光明真言と阿弥陀経を読誦し、衆生を回向せんとする旨も記されている。また、北面には「和泉木津□川廿坪内自/未申角木屋所一段自/□作□以光明真言/本□□之後□分/□者□□畢時正/永仁四年(1296年)八月十九日」の追刻銘があり、回向読経のための寄進地のことなどを刻んであるようである。さらに南面にも追刻銘があり、「永禄五年(1562年)壬戌/妙林禅□/道心禅門/妙心道心/十月廿七日/妙音/善道/妙順/□□/□西」とされる。これはどうやら何らかの原因で失われた空風輪を新補した際の結縁者と考えてよさそうである。水輪は裾のすぼまり感がない球形に近い形状で、どっしりとした安定感がある。西側中央に阿弥陀如来の種子と思われる「キリーク」が薬研彫されている。火輪の軒口は重厚で、隅で力強い反転を見せ、軒の厚みの隅増しが顕著でない。後補の空風輪を除くと各部材とも背が低めで全体に安定感があり、特に火輪の軒や四注の造形はシャープで力がこもっている。また、地輪下の反花座は、現状では下方が埋まって全体を確認できないが、石材に継ぎ目があり、これをよく観察すると、西側には継ぎ目がなく南と北は西寄りに継ぎ目が1ヶ所ある。04_3東側は2ヶ所に継ぎ目があって、大小4つの石材を組み合わせて反花座を作っていることがわかる。継ぎ目のない西面が本来の正面と考えられ、東側中央の一番小さい石材は、塔のバランスを崩さずに取り外すことが可能で、仮に塔下に大甕などを埋け込んだ埋納スペースがあった場合、この一番小さい石材をずらせて火葬骨片などを反復継続して投入することができたと思われる。反花座の蓮弁は隅を除く一辺あたり主弁が四枚、各主弁の間に小花(間弁)を配した複弁で、大和系の反花座の特長である四隅を間弁にするタイプではなく、隅を主弁としている点は注意すべきである。各間弁の根元はかなりの幅をもって受座に達している。五輪塔に伴う反花座としては規模が大きく、古い事例として注目すべきである。ただ、蓮弁の彫成はやや平板な印象を受けるため、この反花座が造立当初から一具のものであったか否かの判断にはなお慎重な検討が求められるだろう。

木津は山城の最南端、大和に近接する場所で、大和の石造文化圏に属する地域と考えられている。大和を中心に鎌倉時代後半から南北朝期頃にかけて、共同墓地の総供養塔として造立されるこうした五輪塔としては最古にして最大のもので、造立銘からも共同墓地全体の供養塔としての性格を裏付けている点で貴重な存在である。

なお、傍らには長谷寺型観音石仏など数点の石造物が残されている。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成四年度調査概要報告

   川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』

 

文中法量値は、高さは『日本石造美術辞典』、その他は『五輪塔の研究』によりますが、便宜上5mm単位に2捨3入しました。

とにかくすごい五輪塔ですが、少しわかりにくい場所にあって初めて訪ねた時には辺りをぐるぐる行ったり来たりを繰り返してようやく見つけた記憶があります。以来何度か来ていますが駐車できるスペースがないので、いつもエンジンをつけたまま道路脇に停めてごく短時間しか見れません。じっくり観察する場合は木津駅から徒歩というのが正解と思います。地輪の上端面には盃状穴と呼ばれる径10㎝内外の穴がたくさんあります。これに限らず石造物にしばしば見られるこの穴はいったい何なのでしょうか…。