滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その1)
琵琶湖から流れ出る唯一のアウトレットである瀬田川は、下流で宇治川となり桂川や木津川などと合流しながらやがて淀川となって最終的には大阪湾に注いでいく。石山寺はその瀬田川右岸に位置する名刹、湖国が誇る有数の観光寺院である。境内の見所は枚挙に暇がないので見過ごされがちになるのはやむを得ないが、実は見るべき石造美術もいくつか残されている。近江八景「石山の秋月」としても知られ、山号は石光山、西国三十三箇所観音霊場第十三番札所で東寺真言宗(総本山は東寺すなわち教王護国寺)の大本山である。本尊は如意輪観音。創建は奈良時代に遡り、聖武天皇勅願、良弁僧正の開基とされる。東大寺への用材を運搬する水運の拠点であったとも言われており、古くは南都との関わりが深かった。木芯部分だけになった塑像の蔵王権現など貴重な仏像も多数残っており、いち早く密教を導入していたことが知られる。また、平安時代初め頃には醍醐寺との関係が深かったようである。平安貴族による石山詣が流行し、「和泉式部日記」、「枕草子」、「蜻蛉日記」、「更級日記」などにも登場する。かの紫式部も参篭中に「源氏物語」の着想を得たと伝えられる。本堂は、滋賀県では現存最古の木造建築で平安時代、永長元年(1096年)に再建されたもの(外陣は桃山時代末頃の補加)。多宝塔は鎌倉時代初期、建久五年(1194年)に建てられたことが判明しており、建築時期の確実な多宝塔では現存最古のもので、源頼朝の寄進とも伝えられる。ともに国宝。山門(東大門)と鐘楼も鎌倉時代の建築とされる。また、尾根の斜面に露出する巨大な珪灰石の岩盤が奇観を呈し、国の天然記念物に指定されている。
場所的には琵琶湖の南端、湖岸沿いの平野部が瀬田川に沿って狭まり、この付近で川の両岸間近まで迫る丘陵で遮断されるような地形になっている。つまり水陸を問わず瀬田川沿いに南下しようとすれば必ず門前を通らなければならない交通の要に当たる点は注意しておきたい。
本堂と多宝塔の中間、本堂より少し上った所、校倉造の経蔵の脇に珍しい三重の宝篋印塔がある。寺伝では紫式部供養塔とされるが、我国の石造宝篋印塔で平安時代にまで遡るものはない。花崗岩製。相輪は亡失。代わりに五輪塔の空風輪が載せられている。この空風輪を除く高さは約239cm。基礎は幅約75cm、高さ約66cm、側面高約50.5cmとやや背が高いが、下端が少し不整形なので元は台座や基壇を伴わず、下方を地面に埋め込んでいたものと思われる。基礎各側面は素面で、基礎上二段。三重の宝篋印塔なので通常1つづつの塔身(軸部)と笠石はそれぞれ3つづつある。とりあえず下の笠、中の塔身、上の笠というふうに呼ぶ。下の塔身は高さ約35.5cm、幅約32.5cmと幅に比して高さが勝る。また、基礎に比べると少し小さめである。つまり基礎側面からの入りが大きい。各側面は舟形光背形に彫り沈め、内に蓮華座に座す像高約21cmの四方仏を厚肉彫にする。風化で面相や印相ははっきりしないが、田岡香逸氏の報文によれば定印の阿弥陀に加え薬壺を持つ薬師があるというから顕教四仏と考えられる。中と上の塔身は、ともに四方素面で中の塔身は幅約31cm、高さ約20.5cm、上の塔身が幅約29.5cm、高さ約17cm。笠石のうち下と中の笠は、ほぼ同形でいずれも上下とも2段、下の笠は軒幅約60.5cm、高さ約33.5cm、軒の厚みは約9㎝。中の笠は軒幅約59.5cm、高さ約30cm、軒の厚み約8cm。上の笠は上三段下二段で軒幅約56cm、高さ約37.5cm、軒口の厚みは約6.5㎝。普通相輪と一体になっている伏鉢部分が上の笠石の上端面に同一石材で作り付けられている。都合12個ある隅飾はいずれも小さく、軒と同一面でほぼ垂直に立ち上がる一弧素面。三重宝篋印塔は非常に珍しく、県内では他に野洲市内にあるくらいで、全国的にも大阪や奈良などに数基程度が知られるのみである。寄せ集めの可能性も疑うべきであるが、本例は笠石のサイズや手法に共通点が多いことから明らかに当初から一具のものと考えられる。無銘であるが田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半、正安頃(西暦1300年)のものと推定されている。概ね妥当な年代と思う。あるいは古式の隅飾を積極的に評価するともう少し古いのかもしれないが、それでも13世紀末頃を大きく遡ることはないと思う。また、伏鉢が笠石と一石彫成になっているのは珍しい手法で、米原市朝妻筑摩の朝妻神社塔や奈良県天理市三十八柱神社塔に類例がある。重要文化財指定。
本堂の西側、子育観音への参道の途中、棕櫚の木の下の岩の上に載せられた石仏がある。石材はちょっとよくわからないが砂岩質であろうか。 高さ約77cm、幅約44cm、厚さ約22cmほどの平らな石材の表面に像高約41cmの如来坐像を厚肉彫りする。全体に表面の風化が進み、衣文や面相はほとんど摩滅しているが頭頂には肉髻がある。やや頭が大きく像容としてはあまり洗練されているとは言えない。印相も肉眼でははっきり確認できない。定印のように見えるが薬壺を持っている可能性も排除できない。蓮華座を伴うようだが風化摩滅のせいで蓮弁もはっきりしない。無銘。これだけでは特に取り上げるに足らない見慣れた石仏のひとつと言えるかもしれないが、背面に注目してほしい。平らに粗く整えた背面に五輪塔を刻出しているのである。線刻と薄肉彫りを交えたような表現で、塔高は約34cm。火輪の重厚な軒反も表現され、水輪は球形に近く地輪の背がかなり低い。像容の背面に五輪塔を刻む両面石仏はあまり例のない珍しいものである。瀬田川を下り、信楽に抜ける街道沿いに信楽川を遡った富川磨崖仏にもよく似た両面石仏があるが、あるいはこの付近の地域的特色なのかもしれない。造立時期の特定は難しいが、五輪塔の形は古風ながら像容はどちらかというと稚拙でそれほど古いものとは思えない。室町時代前半頃のものであろうか。(続く)
写真左上から二番目:ちょっとわかりにくいですが笠上に一体彫成された伏鉢です。
写真左最下:石仏背面の五輪塔のアップです。五輪塔の形は鎌倉時代風なのでもっと古く考える余地もあるかもしれません。
参考:綾村宏編『石山寺の信仰と歴史』
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
田岡香逸 「近江石山寺の石造美術」(前)『民俗文化』第143号
三重宝篋印塔は古くから著名なもので今更小生がご紹介するまでもない名品ですね。流石に人目が憚られコンベクス計測はできませんでしたので計測値は田岡香逸氏の報文に拠りました。ただし、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めさせていただきました。両面石仏はこの日たまたま目にしたもので、浅学の管見にはこれまで紹介した記事等を知りませんが珍しいものです。
追伸:五輪塔レリーフを背面に刻む如来石仏について
清水俊明先生が『近江の石仏』(1976年 創元社)において写真入りで取り上げられていました。それによると薬壺を手にした薬師如来で、「おそらく室町末期の造立であろう」と述べておられます。ただ、背面の五輪塔レリーフには特に言及されていません。
一方、故・瀬川欣一先生も『近江 石のほとけたち』(1994年 かもがわ出版)の中で、愛東町(現・愛荘町)引接寺に「弥陀如来坐像の裏側に五輪塔を刻むという、大変珍しい石仏があります。こうした形式の石仏は石山寺にも大津市富川の磨崖仏参道にもあり…(後略)」と触れておられました。簡単に触れておられるだけで尊格について明言されていませんが、文脈からは阿弥陀如来と考えておられるように読めます。
ともあれ流石にリスペクトする大先達、よく見ておられるのには今更ながら頭が下がります。一方、こうした先学の記事を見落としていた小生は勉強が足りませんでした。(2012年10月2日追伸)