あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。六郎敬白
南郷山王神社大日石仏(奈良県(永治2年))…ナウマクサンマンダボダナンアビラウンケン…
右志者為/法界衆生/平等利益也/平成卅戊戌秊正月/願主六郎敬白
滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その3)
三重層塔を取り囲むように集積された無数の石造物について、これまでに誰か数えた人がいるだろうか、埋もれたものや若干の増減もあるだろうから、本当に正確な数字を出すのは至難の業だろう。ざっと見た限りでも千の単位ではなく万をもって数えるべき数量に思われる。
つらつら見ていていくつか気付いた点を述べたい。総数は数万基と推定されるが、その9割方は小型の四石五輪塔と小型の石仏で占める。一石五輪塔と火輪以上と水輪以下を分けるスタイルの三石五輪塔で1割程、そのほか宝篋印塔、宝塔、層塔なども若干あるが合計しても1%に未たないだろう。五輪塔をはじめ複数の部材からなる石塔の大部分は寄せ集めである。組み合わせを原形に戻すのは天文学的なパターンのパズルである。
五輪塔の空風輪や火輪の残欠の形状が一様でない。低平で軒の薄い火輪、重心の低い空輪も見られ、鎌倉時代でもかなり古い時期のものだろう。逆に軒口の上方の反りが大きく下端が水平な火輪や宝珠の先端の尖りが妙に大きい空風輪などは近世にさしかかる頃のものだろう。玉石混交状態である。ちょっと見は似ているが古いものと新しいものの間には4~5百年くらいの開きがある。
一石五輪塔は概して粗製で地輪の長いものが目立つ。小型の五輪塔の空風輪には枘があり火輪上端に枘穴があるが、なぜか水輪に枘がない。したがって地輪上端と火輪下端に枘穴がない。水輪の上下は平らにカットしたままで、作る手間はかからないが枘がない分安定を欠き倒壊の確率が高い。三石五輪塔も同様に枘がない。大和などでは小型の五輪塔でもたいていは枘があるのと異なる。
三石五輪塔の火輪の四注が短くにえ詰まったような感じは一石五輪塔のそれに共通する。量産化・簡素化の一端を示す手法であろう。石仏龕の屋根にもこれと共通する意匠を見て取れるものがある。
石仏も多種多様だが、石仏龕タイプが目立つ。阿弥陀座像を刻むものが多いが、三尊像や五輪塔や宝篋印塔をレリーフするものもある。笠石は別石としたり作り付けたりで、屋根の形状も多様である。
意匠表現に優れた大型の優品から量産される小型の粗製品への移行は、石造物が一部の貴顕や高僧だけのものから庶民層のものに近づいた結果であり、量産される小型の粗製品の実態を解明することが往時の社会や人々の生活を紐解くことに直結するはずである。今後詳細な調査と分析検討が進むことに期待したい。
なお、石塔寺にある大量の石造物の集積について、昭和2年~6年、宗教団体の福田海が主導し、地元の協力も得ながら石塔寺周辺から石塔や石仏が集積されたとのことである。地元では石仏奉賛少年団まで組織されたという。福田海は宇治浮島大層塔の復元でも知られる。丘陵斜面の松林などで地面を金棒で細心の注意を払って探索し、金棒にコツコツ当れば勇躍して掘り出したという。深さは30㎝から深いものでは2m余も掘ったという。一列横隊に約100m、一か所に5・6個から10個程度、六文銭も出たらしい。こうした作業が昭和6年まで断続的に3次にわたって繰り返され、石塔寺に石塔石仏がうず高く集積されたニュースを伝える当時の新聞記事もあるらしい。(当時きちんと県の許可を得たとのことですが、今なら組織的な中世墓の破壊盗掘に他ならない気がします…)
層塔の背後にある地蔵菩薩像の台石には、福田海が竣工記念として昭和6年に造立した旨が刻まれている。八万四千結願とあるから、本当に数えたのかもしれない。
石塔寺は、中世以前の様子はハッキリしないが、江戸時代の初め、慶安元年に朱印状をもらっていることから、江戸時代以降名の知られたお寺であったことがわかる。それは江戸時代の紀年銘を持つ奉納された石灯籠や石段などからも伺うことができる。幕末の蘭学者、司馬江漢は、寛政2年(1790)に当地を訪ね、石塔村の集落や周辺至るところに石塔の残欠が見られる旨、また、寺の石段や三重層塔の周囲にもたくさんの石塔がある旨を旅日記の『西遊旅譚』に記しているという。福田海の集積事業以前の大正時代刊行『近江蒲生郡志』に掲載された写真では、層塔の周囲は石柵で囲まれ、今日とは様子が異なっている。しかし、既に小型石仏などが取り囲んでいる様子がうかがえる。幕末頃既に層塔の周辺にはある程度小型石仏や石塔が集積されていたところに、福田海が寺や集落周辺に散在していたものや丘陵斜面などの中世墓跡から大量に運び、整然と並べ置いて今日の景観が出来たのであろう。おそらくその後も近在で工事や耕作のたび石仏などが出土するとここに運び込まれてきたのであろう。
【参考】田岡香逸「続近江蒲生町の石造美術」(前)(中)(後)『民俗文化』第177~179号1978年
野村 隆「近江石塔寺三重石塔の造立年代」『史迹と美術』第558号1985年
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』東京堂出版1998年
蒲生町国際親善協会編『石塔寺三重石塔のルーツを探る』サンライズ出版2000年
池内順一郎『近江の石造遺品』(上)サンライズ出版2006年
見渡す限りの石仏、石仏、石仏…
こちらは五輪塔、五輪塔、五輪塔…
火輪と空風輪がくっついた三石五輪塔。近江ではちょくちょく見かけるが、よそではあまり見ない…
層塔背後の地蔵菩薩像。昭和6年福田海の結願記念と知られる。
三尊石仏龕。大日、阿弥陀、釈迦だろうか…?屋根が変わっています。推定室町…
石仏龕タイプの五輪塔レリーフ。水輪に金剛界大日の種子「バン」が絶妙なアクセント。推定室町…
石仏龕タイプの六字名号とダブル五輪塔レリーフ。下端が未成形で埋け込み式と知られる。推定戦国期…
小型の石仏。いい表情されておられます。シンプルな作りですがこういうのが意外と古い。推定鎌倉…
地輪に二体の像容を刻む一石五輪塔。変わり種。推定戦国期…
枘穴がない(地輪)。
枘穴がない(三石五輪塔)。
石塔寺は言うまでもない近江石造美術の雄、今更何をか言わんやの感も否めませんね。石段を上がると一面に広がる無数の五輪塔と石仏、そして巨大な三重層塔の威容に圧倒されます。五輪塔や石仏は大部分が高さ60㎝~90㎝程度の小型のもので、いくつかのブロックごとによく似たサイズ、同じような形状のものを集めてあります。五輪塔は五輪塔、石仏は石仏ばかりでまとめてある感じです。このほか八十八ヵ所巡礼コースが設けてあり、立派な石造毘沙門天像や巡礼寺院の本尊と弘法大師を並置したと見られる半肉彫り石仏が点在しています。これらは近世以降のものと思われます。いずれにせよ石造ファンにとって石塔寺はまさに聖地…ですね。
それでは皆様、どうか良いお年をお迎えください。六郎敬白
滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その2)
三重層塔の東側の少し高くなった勅使墓と呼ばれる場所に、二基の大型の五輪塔と立派な宝塔が据えられている。宝塔は、壇上積式基礎の各側面に格狭間を入れ、三方の格狭間内には近江式装飾文の開花蓮のレリーフを刻む。格狭間内を素面にした面の束部左右に「奉造立之/大工平景吉」、格狭間内に「大願主/正安四年(1302)壬寅十月日/阿闍梨□□」の陰刻銘がある。塔身四方に扉型、首部には勾欄型を刻み、笠石の重厚な軒口、笠裏の二重垂木型や露盤と隅降棟の造作に抜かりない近江の石造宝塔の一典型である。残念ながら相輪を失って別の小さい残欠が載せてある。後補の相輪を除く高さ約139㎝、花崗岩製。平景吉は甲良町西明寺の石造宝塔(嘉元2年(1304))の作者と同じ人である。重要文化財指定。
宝塔の東側に南北に並ぶ五輪塔も重要文化財指定。北側の五輪塔は高さ約135㎝、花崗岩製。地輪の一面中央に一行「嘉元二(1304)甲辰九月五日」の刻銘がある。力強い軒反りを見せる火輪は地輪と一具と見て特段支障ないように見えるが、空風輪と水輪は小さ過ぎ別モノと思われる。水輪にだけ梵字があるのも不審である。南側の五輪塔は、高さ約140㎝。花崗岩製、地輪のアの面に「貞和五年(1349)巳丑/八月廿九日」「大森之廿五三昧/一結衆」と刻まれている。「大森」は石塔寺の北東方にある現在の大森町のことだろう。紀年銘とともに地名と葬送に関係する講衆による造立と知られる点で貴重な刻銘である。従前こちらは寄せ集めではないとされるが、よく見ると、どうもこちらも水輪がやや小さいし、各部に刻まれた梵字の大きさや刻み方に不揃い感がある。寄せ集めの可能性が否定できないと思われる。
無数の小型五輪塔・石仏に混じって注目すべき石造物が散見される。主だったところは田岡香逸氏や池内順一郎氏らが紹介されているが、いくつか紹介する。
三重層塔の北側、一番奥まったところにある層塔の残欠は、六字名号を刻んだ五輪塔の地輪と思しい部分を初層軸部に見立て、笠石4枚分を積み重ねたもの。笠石は一具と思われ、風化が進んでいるが花崗岩製で、軸笠別石の構造形式や薄目の軒口と緩い軒反の様子などから鎌倉時代前期に遡るものと推定されている。
層塔エリアの北西隅付近にある宝篋印塔は、相輪上端を欠き現高約110㎝。ちょっと見ると各部揃っているように見えるが、似たサイズの部材をうまく寄せ集めたものと先学の意見はだいたい一致している。無銘だが、特色ある遺品である。笠は上5段下2段で二弧輪郭の隅飾の近江ではよく見るものだが、塔身の金剛界四仏の種子のうちなぜかウーンにだけ月輪を有している。また、基礎上小花付単弁の壇上積式で、側面格狭間内に、孔雀、宝瓶三茎の未開敷蓮(蕾)、変形三茎開花蓮、花托と散蓮という各面ごとに異なる近江式装飾文様のレリーフを刻む。非常に装飾的な意匠である。寄せ集めだが、だいたい14世紀中葉頃前後のものと考えられる。
そのすぐ近くにある宝篋印塔は塔身の代わりに五輪塔の水輪を入れている寄せ集め。上5段下2段の笠石は、隅飾二弧輪郭内には蓮座円相を入れ、各面とも円相内に地蔵菩薩と思われる「カ」の種子を刻んでいる。
丘陵麓、本堂前庭の南東隅にある小石祠の台石に転用されている宝篋印塔の基礎は上反花式で、側面は輪郭格狭間、開花蓮のレリーフで装飾され、束部分に「右志者為二/親聖霊并法/界衆生平等/利益也/建武四年(1337)/八月廿四日/孝子敬白」の刻銘がある。
ほかにもいくつか注意すべきものもあるが、きりがないのであとは先学の報文を参照されたい。(続く)
大層塔の背後側の一画。ここは一石五輪塔が多い。奥の方に小さく層塔(残欠)が見えます。
重文の宝塔。平景吉さん、いい仕事してます。
重文の五輪塔。寄せ集めの匂いがプンプンします…
一見違和感はないですがこれも寄せ集めです。しかし基礎の意匠が素晴らしい。
笠の隅飾に注意。これもまったくの寄せ集めだけど見た目は何となく収まりはいい感じ。
建武銘の宝篋印塔の基礎