岐阜県 養老郡養老町三神町 多岐神社如法経石
多岐神社社殿の背後に径約10m弱、高さ約1m程の不整形な塚状の高まりがある。その上に祀られた小祠の中に経塚の標識と考えられる自然石塔婆がある。材質ははっきりしないが硬砂岩と思われ、高さ約60cm、幅約23cm、奥行き28cmの全体に角の取れた丸い縦長の自然石を特に整形することなくそのまま利用している。上部が山形にみえる比較的平坦な面を正面として造立銘を陰刻している。中央上方に「如法経」と大きく刻み、「□□土佐権守紀明棟/女施主藤原氏/文治五秊(1189年)己酉/八月廿八日乙卯/勧進僧能仁」の造立銘がある。土佐の前にも文字の痕跡が認められるが、石材が欠損しており確認できない。「願主」だろうか?。全体に文字の彫りは浅いが、風化摩滅が少なく残りはよい。また、彫り方が少しぎこちないようにみえる点がかえって古拙な雰囲気を醸し出している。新しいものではないと考えてよさそうである。「如法経」の書体は独特で、年の干支に加え、月日の干支まで記している点は注意したい。西美濃地域では、大垣市を中心に、同じ文治5年銘のよく似た如法経石がこれを含め3点、平安末期の久安4年(1148年)銘のもの1点が知られており、「如法経」の書体、造立銘の書き方などがどれも概ね共通している。如法経とは、定められたやり方(作法、儀礼、つまりマニュアル)に則って造営された経塚に供養された主に法華経をいう。その風習は、平安時代後期、末法思想の浸透に伴って広まった一種の仏教的作善行為とされ、中世を通じて近世まで続いている。この塚状の地形が古墳であるのか経塚であるのか、そしてこの如法経石が当初からの原位置を保っているのか、そのあたりの正確なところはわからない。ただ、延喜式に載る多岐神社は、大塚大社とも称され、中世を通じて地域の信仰を集め、幾多の興廃を経ているものの場所は変わっていないとされている。
参考:川勝政太郎 新版「石造美術」194ページ
田岡香逸 「近江蔵王の石造文化圏2-濃尾の石造美術-」『民俗文化』205号
「岐阜県の地名」平凡社日本歴史地名体系21
文治5年の8月といえば、頼朝の奥州攻めが行なわれていた時分にあたります。鎌倉時代の初頭ですね、残された石文銘としては、かなり古い部類ですね。それから旧暦の8月28日は、今の10月9日にあたるようです。なお、同じ文治5年銘で上石津にあったものは、昭和53年頃、指定文化財になって新聞報道されたとたんに盗難にあって行方不明との由です。嘆かわしくもあり憤りを禁じえません。こうした石造物は、身近にあって親しく祖先の信仰や思いを伝えてくれるかけがえのない地域の宝物です。同じものはひとつとしてないのです。資料的な価値ももちろんですが、いつまでもその場所、その地域で大切にしていくことが今に生きる我々が祖先と子孫に対して負う義務だと信じています。好事家の所有欲を満たし、売買して財貨を得るような対象であってはならない。今からでも遅くはありません。隠匿している人は所有権一切を放棄して速やかに現地に返却すべきです。それにしても、こうした盗人、ブローカー、好事家には、必ずや重い仏罰が下るよう願うばかりです、ハイ。