滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その2)
観音像の向かって右手前に張り出した岩の斜めになった西側壁面に、上端を山形にした縦長方形の浅い彫り沈めがある。長さは目測2mくらいある。区画の内には刻銘があるのがわかるが肉眼での判読は難しい。川勝博士は「…大乗妙典二聖二天十羅刹女先達…上人…二己酉十月日」と判読され、古くは「応安」の年号もあったとされている。応安二年は1369年である。それではこれが阿弥陀三尊磨崖仏の造立年かといえばどうもそうではないようで、川勝博士によれば、銘文からこれは大乗妙典、つまり法華経信仰に基づくモニュメント的なものであり、浄土信仰との関連性が希薄であることから、阿弥陀三尊との直接の関係はないだろうとのことである。山形にした上端の形状からすると板碑を模して壁面に刻んだ納経碑的なものかもしれない。阿弥陀三尊の造立年代は、雄偉で巧みな像容表現、蓮華座蓮弁や格狭間の形状など14世紀後半に降るとは認めにくく、鎌倉時代中期を降るものではないと考えられている。小生も同感である。現地の案内看板には応安頃の造立と受けとめられるような表現があるので注意を要する。このように石造物には紀年銘がそのまま造立年代に直結しない場合がある。後刻や偽刻が端的なケースで、たいていは時代相応の形や表現に照らして考えれば明白にそれとわかるが、本例のように複雑な背景を考えなければならない場合もある。在銘の石造物を検討する場合、紀年銘だけを検出してよしとするだけでなく、銘文の内容にも踏み込んで考察するとともに、字体や書き方、全体の構造形式や意匠表現なども含めて総合的に検討する必要がある。そうすることで単に造立年代を知るだけでなく、石造物の造立の背後にある5W1Hにも迫ることができるからである。
それから、勢至菩薩の西側の少し低い位置にある不動明王像を忘れるわけにはいかない。刻まれる壁面は阿弥陀三尊の刻まれる壁面より深くなって、あたかも別に区画したかのようになっている。総高は2mばかり、顔と体を阿弥陀三尊の方に向け岩座に立つほぼ等身大の線刻の立像である。右肘をくの字に曲げて腰の辺りで手の甲を正面に向けて三鈷柄の宝剣を構え、左手は下にしてやはり手の甲を見せて羂索を掴む腕には力がこもっている。背光の火焔、裳裾や左手の羂索が吹く風になびいている様子がリアルである。体躯のバランスも見事で衣文にも破綻はない。特に面相が優れ、惜しくも口まわりが剥落しているが、大きく見開いた眼の丸い瞳が慧々として威圧感がある。胸元の瓔珞や手足の環釧など細部も表現されている。全体に迫力があり流麗な筆致は絵画的である。線刻の不動明王磨崖仏としては出色の出来映えで川勝博士、清水俊明氏とも絶賛されている。作風は阿弥陀三尊とやや異なるようだが造立時期はあまり隔たりのない鎌倉時代中期のものと考えられている。ここから東方約4kmにある太神山の山頂にある不動寺は智証大師円珍開基の伝承のある天台修験の聖地であり太神山周辺で不動明王信仰が盛んであったらしいことから、造立の背景には円珍系の天台密教との関連が指摘されている。古い不動明王の立像は有名な園城寺黄不動に代表されるように天台円珍系に多い図像であるらしい。この辺りは瀬田川を遡れば琵琶湖、下れば宇治方面に通じ、信楽川を遡れば信楽に達する。大石から南に向かえば宇治田原や和束を経て笠置方面につながる交通の要衝であり、近江、山城、大和の文化が交錯したであろうことは想像に難くない。静かな山間に作風優れた巨大な磨崖仏が残っている背景には、やはりこうした土地柄があることを考えなければならないだろう。(つづく)
写真左上、右上:ともに大乗妙典の壁面碑、小生の下手な写真ではどこにあるのかちょっとわかりにくいですね。本文にも書きましたが法華経の納経記念碑を板碑風に壁面に彫りつけたものと思われます。川勝博士によると、二聖は釈迦、多宝の二仏、二天は梵天と帝釈天、十羅刹女は法華経を護持する鬼女だそうです(二聖は薬王、勇施の二菩薩、二天は多聞天、持国天との説もあるようです)。写真左下:不動明王の全景、写真が下手ですが左手の肘から拳にかけて非常に力がこもってる感じが伝わりますでしょうか、カーソルを写真に合わせてクリックされると少し大きく表示されます。写真右下:お顔のアップ、どうですか、この恐ろしげな憤怒の表情、それとこのように倶利伽羅剣の身幅が狭く切先で広がらず平行なのは古い不動明王像に多いらしいです。
巨大で独創的な弥陀三尊の圧倒的な存在感の前に不動明王は脇役に徹しておられますが絵画的で格調高い流麗な表現という点ではこちらが数段上です。かっこいいお不動様です。そもそも「耳垂れ不動」、「岩屋山明王寺跡」という呼称からはこちらが主人公であるべきなんですがね…。