京都府 木津川市加茂町大野 西明寺笠塔婆
JR加茂駅の西約1km、標高203mの大野山を頂く山塊の東、南北に細長く連なる大野の集落の中央付近、街道西側の一段高い山裾に位置する真言宗西明寺。江戸時代の洪水で平地から現在地に移転したと伝えられる。本堂の北側、向かって右手の目立たない狭い場所に東面して立派な笠塔婆がある。花崗岩製で、現高約185cm。上端を平らにした自然石の基礎は半は埋まっているため下端は明らかでないが、見えている基礎の幅約135cm。その上に平らな石を縦に据えて塔身とし、平らな笠石を載せている。塔身の幅は下部で約91cm、上部で約95cm、高さは約148cm。笠の軒幅約100cm、笠の奥行き約70cmを測る。塔身は正面を平らに彫成して左右側線は直線に整え、上端隅は丸めている。背面は粗整形のままである。笠の正面と側面は垂直に切り落として軒を作り、隅棟風に稜を設けて左右の軒隅に厚みを持たせて軒反をつくっている。笠裏は平らにしているが背面及び上面は適当に打ち欠いたままの粗整形である。こうした整形手法は、正面観を優先し、背後や真横から見られることを初めから意識していなかったことを示している。塔身正面は、上端近く中央を高さ約31cm、幅約20cm程の舟形に彫りくぼめ、蓮華座に座す像高約22cmの如来像を半肉彫りしている。面相は風化でよく確認できないが頭頂部に肉髻があることがわかる。右手は肩付近に掲げた施無畏印と思われ、左手は膝上にあり、薬壺を持っていることから薬師如来と考えられる。この寺の本尊が平安後期、永承2年(1047年)銘の薬師如来坐像であることと関係しているものと考えられている。正面の平坦面に占める薬師坐像の面積割合はごく小さく、大部分は刻銘にあてている。像容向かって右の「西明寺/八講田」に始まり「田中垣内、一段皮田、塚本一町、納目二段、蓮塚二段、上野田一段」などの田段を4列にわたり列記している。さらに塔身の側面には、向かって右に「永仁三秊(1295年)卯月十二日」左に「大工橘友安」と刻まれている。西明寺の八講(法華八講を指すものか否か不詳。修法ないし法会に伴う祭典?)のための料田を記載したもので、これだけでも面白い資料であるが、加えて紀年銘と石工名があることで一層その資料的価値を高めている。大工としてその名を刻む橘友安という人物は、ここから南方2Kmばかりのところにある高田、高田寺境内に残る五輪塔残欠(地輪)に同じ永仁3年(1295年)銘と田畑寄進の願文をその名とともに刻んでいる。橘姓の石工は、同じ加茂町、石仏の宝庫として名高い当尾、浄瑠璃寺に程近い東小の通称「藪の地蔵」と呼ばれる弘長2年(1262年)銘の磨崖仏にある橘安縄を初現とし、数名が知られており、伊派、大蔵派のように石工の系列であったとみられている。13世紀末頃に活躍した友安は安縄の次代に相当すると考えられ、奈良県大和郡山城の石垣に組み込まれた巨大な宝篋印塔の基礎などにもその名を刻し、三重県伊賀市の報恩寺の層塔基礎(残欠)には「大工南都友安」とあることから、その活動の拠点が奈良にあったと考えられている。南山城が大和の強い影響下にあったことを考えあわせ非常に興味深い。なお、傍らにある五輪塔は、空風輪を失い、現状の火輪もやや小さいことから別物の疑いがあるものの、立派な大和系の反花座は一具のものと思われ、鎌倉末から南北朝前半頃のものと思われる。その東に隣接する層塔は笠6枚を残し上半を失っているが元は十三重と思われ、金剛界四仏を初重軸部に薬研彫し、各笠裏に薄く垂木型を刻む。やはり鎌倉時代末頃の造立とみて大過ないもので、ともに完全ではない点は惜しまれるが、見落とせないものである。
参考:川勝政太郎「新版日本石造美術辞典」
川勝政太郎「橘派石大工とその作品」『史迹と美術』379号
同じ笠塔婆の範疇に含められるものですが、先の記事にある談山神社の摩尼輪塔とはずいぶん趣きの異なるものです。摩尼輪塔の精緻な出来映えに比べると、文字どおり荒削りなものです。造立の趣旨、意義がそもそも異なるのでその辺の違いが出来映えにも表れるしょうか。摩尼輪塔は参詣者を本院で出迎える晴れがましく威儀を正すべきもの、これはもっと立ち入った内容を刻んだどちらかというと内輪向けのもので造立の背景・性質が異なります。造形的にはそれぞれに持ち味があって、刻銘もさることながら見ごたえのある優品といえるのではないでしょうか。ともに笠塔婆の一般的な造形からは少しはみ出した感のある形状ですが、笠塔婆というのも単純な構造ながらなかなか面白い石造美術だと思ってます。例により文中法量値はコンベクスによる略測値ですので、多少の誤差はご容赦ください、ハイ。
たまたま宝篋印塔もどきに出くわし研究する羽目に…。
京都に在住40年にもかかわらず全くと言っていいほど石に興味なく、滋賀のアノウ衆には感慨深いものがあった程度の。
このサイトでは写真付きで良い勉強させていただき、またガイドとして参考にさせていただいていつか訪れてみたいと思います。
ありがとうございます。
コメントを頂戴し有り難うございます。
私事で恐縮ですが、京都は学生時代の4年間を過ごしました。当時はまったくこういったものとは無縁の浮かれた生活で、京都を離れ余暇も見出しづらい現今の境遇から思えば、若さと時間だけは有り余っていたのだから、石造美術をたくさん訪ねていたらと思うと実にもったいない4年間でした。もっとも、当時は後にそんなことになろうとは露知らず、今更どうしょうもありません…。
たまたま石造美術の魅力にとりつかれた無手勝流の駆け出し者、先達諸賢の苦労の上に胡坐をかきながら歩き回っているに過ぎません。なるべくひとりよがりにならないようにしたいなぁとは思っていますが、不勉強・情報不足は如何ともし難く、記事には遺漏や勘違いが少なからずあるはずですので、そのあたりは何卒ご指摘・ご批正をお願いするとともに、今後とも拙サイトご愛顧賜りますれば幸甚に存じます。六郎敬白