奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川共同墓地五輪塔ほか
中ノ川(なかのかわ)町は、奈良市東郊の山手に位置し、北方はすぐ京都府の旧加茂町(現木津川市加茂町)に接する。つまり山向うは浄瑠璃寺や岩船寺で著名な当尾の里である。いうまでもなく当尾は石造美術の聖地でもある。中ノ川集落の北西の山林中には実範律師が開いた中川成身院の跡がある。実範(?~1144)は平安時代後期の高僧で、後に解脱上人貞慶を経て唐招提寺覚盛、西大寺叡尊らにつながる戒律復興の種をまいた人物である。中川成身院は中近世を通じて興福寺の末寺として法灯を繋いできたが明治初期に廃滅したとされ、仏像や梵鐘など優れた文化財が各方面に流出している。寺跡には子院跡を示す小字が残っているらしく、尾根や斜面などに平坦地や石組などの遺構が残っているようだが現地は鬱蒼たる笹、小竹、雑木に覆われ到底進入困難で確認できない。寺跡の一画には実範上人の供養塔とされる立派な五輪塔が残されている。五輪塔は今も興福寺の管理下にあって供養が続けられているそうである。そうした土地柄を裏付けるように集落とその周辺には古い石造物もたくさん残されている。
集落北方の山林中に地区の共同墓地がある。墓地は南北に細長い尾根上にあり、ほの暗い木立の中に近現代の墓標に交じって中世に遡るような古い石塔や石仏が多く残されている。奥まった北側に進むと尾根のピークは埋墓(さんまい)であろう、朽ちかけた木製の卒塔婆が林立するその中央に非常に立派な五輪塔が建っている。花崗岩製。半ば地面に埋もれかけた反花座は、一辺当たり主弁4枚、間弁(小花)付きの見事な彫成の複弁反花座で、四隅に小花を配するのは大和に多いタイプ。その上に建つ五輪塔は、塔高約180.5cm、六尺塔であろう。地輪幅約64.5cm、高さ約48cm、水輪径約63.5cm、高さ約50cm、火輪幅約62.5cm、高さ約41cm。空風輪高さ約48.5cm、風輪径約36.5cm、空輪径約36cm。反花座をあわせた総高は200cmを越える。重厚な火輪の軒口、隅の反り方にも力がこもっている。水輪や空風輪の曲面はスムーズで直線的なところはあまり目立たない。地輪が高過ぎず水輪の裾の窄まり感が顕著でないので安定感がある。各輪とも素面で無銘だが、鎌倉後期の五輪塔の特長を遺憾なく発揮しており、造立時期は14世紀前半を降ることはないだろう。保存状態も良好で、手堅い意匠表現と優れた彫成が特筆される美しい五輪塔であるが、地輪と反花座の間に小石を挟んでいるのが少々目障りである。これは、反花座が東方向に傾いてきたので、塔の倒壊を防ぐために地輪との間に小石を挟み込んで均衡を図っているのであろう。反花座が地面に沈み込むということは、地下に何らかの埋納空間か何かが設けられている可能性があるだろう。
周囲には小型の宝篋印塔の残欠(笠、塔身)、六字名号を陰刻した半裁五輪塔、背光五輪板碑などがある。このほか、墓地の古い石造物でいくつか目に付いたところを簡単に紹介すると、入口の六地蔵の後ろにあった角塔婆。先端部は四方を斜めに切り落とし方錐形に尖らせ、その下に二段の切り込みを入れる。側面観を板碑と同じにする手法である。側面四方に五輪塔を薄くレリーフし、それぞれ五大の梵字の四転を刻む。現状地上高さ約66cm、幅約23cm。あまり見かけない珍しいもの。その近くにあった半裁五輪塔。現状地上高約90cm、幅約23cm。水輪部に、阿弥陀の種子「キリーク」を月輪内に刻む。どちらも花崗岩製、造立時期は室町時代後半頃だろうか。
参考:元興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
清水俊明『奈良県史』第7巻
久しぶりに行ってみたところ、あちこちにゴミ処理施設反対!の看板が立てられ何やらゴタゴタがあるようです。もとよりよそ者の小生がとやかくいうことではありませんが、平安の昔、実範上人が仏に献ずる花を摘みに来て気に入り成身院を建てたというこの地の環境がなるべく保たれるといいなぁと思います。あと石造ファンとしては地域の貴重な宝である石造物が後世に残し伝えられることを祈念するのみです。それと、できればいまひとつ実態の明らかでない中川成身院跡の遺構の確認と保存は期待したいところです。