奈良県 奈良市大慈仙町 真如霊苑墓地五輪塔及び板碑三種
奈良市街から東方、柳生、忍辱山方面に向かう国道369号、東方の円成寺までは1.2Km程のところ、国道から南に100m程入ると地元の共同墓地である"真如霊苑"がある。墓地は東南から北西に伸びる尾根の先端に位置し、手入れの行き届いた明るい場所にある。木立に覆われた尾根のピーク部分に平坦地があり、中央に大きい五輪塔がぽつんと建っている。花崗岩製。五輪塔の周囲は古い埋墓(所謂さんまい)のようである。長方形の板状の切石を組み合わせた方形基壇を設え、その上に間弁(小花)付きの複弁反花座を据える。四隅に間弁を配した典型的な大和系の反花座で、一辺あたり主弁は4枚である。反花座の一辺の中央下端に径5cm程の奉籠穴があり、切石基壇の下には納骨のための空間が設けられ大甕か何かが埋けられている可能性がある。反花座の上端の受座と地輪の収まりはまさにピッタリ、ジャストフィットで、当初から一具のものと考えてよい。蓮弁の彫成はまずまずの出来で手馴れた作風。その上に建つ五輪塔は、各輪とも素面、無銘で、塔高約168cm、五尺半塔であろう。地輪高さ約39cm、幅約57cm、水輪径約55.5cm、高さ約45.5cm、火輪幅約55cm、高さ約37cm、風輪幅約㎝、空輪幅約32cm、空風輪高さ約46.5㎝。地輪は高からず低からず、水輪は裾の窄まり感が強くやや重心が高い。火輪の軒口は総じて重厚だが、軒反りがやや隅寄りで中央の直線部分が長い。四注の屋だるみにもやや直線的な部分が勝るように見える。軒隅の一端を大きく欠損するのが惜しまれる。空風輪は全体としてよく整った形状ながら風輪の側面の曲線に少し直線的なところが見られ、空輪はまずまず完好な曲線を見せる。宝珠形先端の尖り部分がわずかに欠損する。五輪塔は全体として手堅くまとめてある印象で、規模も特に大き過ぎず小さ過ぎず、逆にこれといった特長に欠けるが大和の五輪塔の一典型と言えるだろう。造立時期について、水輪や火輪の軒口の形状から鎌倉時代にもっていくのはやや無理があり、南北朝時代に降ると思われ、おそらく14世紀中葉頃とみて大過ないものと思われる。
墓地整理に際して集積されたと思われる多数の石塔、石仏がある。全ては紹介しきれないのでここでは板碑3種を挙げる。
(1)六字名号板碑。花崗岩製、高さ約180cm、上端を山形に整形しその下の二段の切り込みを設けた圭頭稜角式のもので、背面と側面は粗く整形したままだが、側面の正面に近い場所はやや彫成が丁寧になる。碑面中央を長方形に浅く彫り沈め、独特の書体で「南無阿弥陀佛」の六字名号を大書陰刻し、名号下の枠取り内に蓮座を平板陽刻したレリーフを配置する。向かって右の輪郭部分に、室町時代後期、弘治三年(1557年)丁巳、左に十一月十二日の陰刻銘がある。さらに輪郭下の下端近くに結縁者と思しい十数名分の法名が刻まれている。保存状態良好で良質の石材のせいもあって非常にシャープな印象を受ける典型的な大和系の板碑として見落とせない。
(2)弥陀三尊種子板碑。名号板碑の隣に立つ。山形の頂部と二段の切り込みの稜角式の板碑で、山形の先端が急角度で大きく正面に枠取りを設けない。碑面上端近く中央に阿弥陀如来の種子「キリーク」を陰刻し、その下の左右に観音・勢至の両脇侍の種子「サ」・「サク」を配置する。月輪や蓮座は見られない。三尊種子の下の広い碑面にも刻銘が認められるが、彫りが浅く風化摩滅している。清水俊明氏によれば紀年銘と多数の結縁法名があるらしいが紀年銘は判読できないとのことである。こちらもシャープで美しい外観。造立時期は室町時代後期と推定されている。六字名号板碑よりはやや遡るのではないかと思う。花崗岩製、高さ約155cm。
(3)像容板碑。同様のものが多数あって高さ約65cm前後と名号板碑や三尊板碑に比べてずいぶん小さい。上端を山形に整形するが二段の切り込みは省かれた剣頭式で、正面中央の碑面は上・下端より浅く沈め、枠取りは設けずに中央に来迎印の阿弥陀如来立像を半肉彫する。蓮座は省略されているようで衣文も簡略化が進み、やや頭が大きく稚拙な出来だが、作りはこなれており愛嬌のある面相には好感が持てる。一見すると一般的な舟形光背の石仏のように見える。むろん石仏の範疇に入れることに異論はないが、上部の山形に注目すれば、やはり板碑の一種と解することができる。花崗岩製。概ね16世紀末から17世紀初め頃のものと思われる。これら三種の板碑は、それぞれ形状や大きさが異なるものの、いずれも阿弥陀如来を本尊とする点で共通する。同じ墓地で名号、種子、像容と本尊の表現方法の相違が興味深い。
参考:元興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術
稲垣晋也「奈良県」『板碑の総合研究』2地域編
文中五輪塔の法量値は『五輪塔の研究』によります(勝手ながら数値は5mm単位で丸めました)。また、『奈良県史』には何故か五輪塔の記述がありません。奈良県の東山内などでは地区ごとに、共同墓地の惣供養塔として同様の五輪塔があり「郷塔」と呼ばれています。基本的に「さんまい」の中央にでんと構えており、古いものは鎌倉後期からあって、南北朝時代のものが多いようです。特定の個人の墓標ではなく、大勢が資金を出し合って造った墓地全体の供養塔だといわれています。塔下には火葬骨片を収納する施設があって、結縁者(造塔出資者)達の骨だと考えられています。それが大和ではところどころに今も残されているのだから驚きです。墓地の歴史がそれだけ古いことを物語っているとともに、祖先達が大きい五輪塔を造れるだけの経済力と信仰を紐帯とした強い結束力を持ち合わせていたということを今に伝える貴重な遺産だと思います。なお、奈良県は、石仏では地蔵像が圧倒的に多い土地柄ですが、大慈仙墓地では阿弥陀像も少なからずあります。まったく余談ですが大慈仙(だいじせん)とはかっこいい地名です。