奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川の辻の地蔵石仏ほか
笠置街道(県道33号)沿い、中の川のバス停のある辻に吹さらしの覆屋に保護された地蔵石仏がある。花崗岩製。舟形光背を背負った厚肉彫りの立像で、自然石の台石(本来の一具ものか否かは不詳)上に立つ。総高約120cm、像高約91cm。全体のプロポーションはまずまず整い、やや撫肩ながら体躯の横幅があって計測値より大きく見える。転倒して何か固いものにでも激突したのであろうか、お顔の中央付近で光背ごと折損し、折損面に沿って顔面部分が深く欠落して目鼻は完全に失われている様子が何とも痛ましい。ただ、頬から顎にかけてのふくよかな感じが少し残っているのはせめてもの救いである。光背面上端には諸尊通有の種子「ア」が陰刻され、下端の蓮華座は縦長の覆輪付の単弁が並ぶ。持物は右手に錫杖、左手に宝珠の通有形で、あまり大きくない錫杖頭は彫り出しが薄くあっさりした表現で、錫杖下端は蓮華座に達せず足元辺りの裳のところで終わっている。衣文は簡素で平板な表現であるが袖裾は蓮華座に届かず、裳の間からは両足先がのぞく。光背面向かって右に「奉造立地蔵菩薩逆修慶圓」左に「永正十四年丁丑六月廿四日」の陰刻銘が肉眼でも確認できる。永正14年(1517年)は室町時代後半、願主は慶円という法名の人物で、逆修とあるから自身の生前供養の目的で造られたものと知られる。このほか覆屋内には、箱仏(石仏龕)、舟形背光五輪板碑、舟形背光宝篋印塔板碑、像容板碑などが置かれている。この種の石造物は大和ではありふれたもので特に珍しいものではないが、逆に大和ならではの石造物ということもできる。簡単に触れておくと、石仏の真後ろにある舟形背光五輪塔板碑は、全体を舟形に整形し正面に輪郭を設けて内に五輪塔形を平板陽刻し、「キャ・カ・ラ・バ・ア」の五大の梵字を各輪に陰刻する。地輪部には紀年銘らしい痕跡があるがすっかり摩滅して判読できない。その向かって左隣にある像容板碑は、碑面中央を舟形に掘り沈めて来迎印の阿弥陀と思しい如来立像を半肉彫りする。頭が大きく稚拙な造形ながら可憐な表情に好感が持てる。先端の山形がかなり鈍角で二段の切り込みも鉢巻き状になって板碑ならではの鋭利感はすっかりなりを潜めてしまっている。五輪塔板碑の右隣の宝篋印塔板碑は、上端部分を少し欠損するが全体が舟形で正面に輪郭を設ける手法は背光五輪塔と同様で、五輪塔のかわりに宝篋印塔がレリーフされる。同じレリーフでも宝篋印塔は五輪塔に比べ意匠が複雑な分だけ制作に手間がかかるであろうことは容易に推察できる。レリーフされた宝篋印塔は上六段下二段の笠の段形、緩い弧を描いて外反する二弧の隅飾、塔身には大きい月輪内に梵字「ア」を薬研彫りする。基礎は上二段の素面で、大和系の宝篋印塔の特長をよくとらえている。塔身の左右にも小さい梵字があるように見える。この種のものとしてはまずまず出来ばえのものであろう。下方は地面に埋まっているが、基礎部分の向かって右側に天正…、中央に慶順…、左側に十月…の陰刻銘が見られる。16世紀も末頃のものでレリーフ塔の特長だけを考慮するともっと古くてもよいように思うが案外新しい。この種の舟形背光の石塔レリーフ板碑が大和を中心にたくさん造られたのは16世紀後半頃から17世紀前半頃で、むろん多少のデフォルメもあろうがレリーフ塔と本物の石塔の様式観や年代観を短絡的に結び付けて考えるべきではないのかもしれない。そもそも舟形背光石塔レリーフ板碑は、身近にあった古い立派な本物の宝篋印塔や五輪塔を手本にして、本物の石塔造立の盛時(概ね13世紀後半から14世紀中葉頃)からはずいぶん後になって造られはじめたと考えるべきなのだろう。大和では五輪塔や宝篋印塔に加えて宝塔をモチーフにした例もしばしば見られる。地蔵石仏の向かって左側にある石仏龕は、箱型の石材正面を隅を切って彫り沈め、内に錫杖宝珠の地蔵菩薩と来迎印の阿弥陀如来の立像を並べて配した双仏の箱仏で、上端には笠石を載せていた痕跡の枘が残る。像容の造形はごく稚拙でさほどとりたてて述べるほどのものではないが、同様の石仏龕が非常に多く残されているのが大和の地域的な特長でもある。室町時代中葉から後半頃のものだろうか。
辻の地蔵から南東方向に直線距離にして約200m余のところ、国道369号から北西側の脇道に入り25m程坂道を歩いて下っていくとブロック塀を背にして墓標や石仏が並んだ一画があって中央の地蔵石仏が一際目を引く。こちらは中ノ川墓地の地蔵石仏と呼ばれるが、立派な五輪塔のある共同墓地とはぜんぜん別の少々わかりにくい場所で、墓地としての機能や祭祀はもはや廃絶していると言ってよいような状態になっている。中央の地蔵石仏は、舟形光背に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りし、総高約137cm、像高約101cm。右手に錫杖、左手に宝珠の通有形で、頭上の光背面に地蔵菩薩の種子「カ」を陰刻する。像容向かって右に「大永四稔観實観圓識春圓観」、左に「甲申三月廿四日慶圓識賢圓禅三郎四郎」の陰刻銘があり、肉眼でも確認できる。大永4年(1524年)は、辻の地蔵石仏から7年後の造立。観実、観円…は願主・結縁者達の法名で最後の三郎四郎のみ俗名である。あるいは石工名かもしれない。願主の一人、慶円は辻の地蔵の願主と同一人物であろう。持物を執る左右の手の小指を立てているのが面白い。下端は厚みを残して覆輪のない縦長の単弁の蓮弁を並べた蓮座がある。全体のプロポーションや衣文表現は辻の地蔵によく似ているが足元の裳裾と足先の表現が異なる。鼻先の欠損や若干の風化摩滅もあるが目鼻立ちが整い、目元の涼しい表情が見て取れる。この顔つきは大和のこの頃の地蔵石仏にしばしば通有する表現のように思う。地蔵石仏の手前の台石に見える苔むした方形の部材には上端に枘穴のようなものがあり、側面に「ア」、「アー」、「アン」、「アク」の種子が大きく薬研彫りされている。欠損も目立つがかなり古い層塔の塔身か五輪塔の地輪と思われる。このほか周囲には石仏龕、名号碑、像容板碑、近世の宝篋印塔などが見られる。
参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術
望月友善編 『日本の石仏』第4巻 近畿編
せっかくなのでこの際中ノ川の石造の主だったところはご紹介しておこうと思います。次は牛塚の石造物の予定。