石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市中ノ川町 牛塚の石造物

2013-07-05 01:13:25 | 奈良県

奈良県 奈良市中ノ川町 牛塚の石造物
国道369号と県道33号の信号交差点、奈良市街からだと県道側に折れてすぐ北西に向かう未舗装の脇道がある。01_2古い旧道と思しきこの道を歩いて行くこと約300m程、木立の中の坂道を進むと樹木の少なく開けた明るい場所に着く。02道の北側の斜面に板状の石材を組み合わせて作った龕の中に大きい頭円光背を伴った石仏が祀られているのが眼に入る。地蔵菩薩坐像と推定される丸彫りの像容で、頭部並びに両手首から先が失われて痛ましいお姿になっている。以前は後補の頭部が乗せられていたというがそれも亡失して久しいという。膝下から首部までの現存高さ約73cm、キメの細かい花崗岩製と思われる。03膝下には埋もれかけた蓮華座の蓮弁が少しのぞいている。蓮華座は別石のようである。円光背も別石で、直径はおよそ66cm、像容の背裏側に支柱部分が隠れていて光背全体は柄鏡状になっている。07_2円光背正面は平坦ではなく中央を微妙に膨らませて外縁近くに輪郭を線刻し、その内側に単弁八葉の線刻の蓮弁を刻む。弁間には小花がのぞき、花托部分は二重の同心円の中に主弁の位置にあわせて連続する弧を八つ繋げた花形に線刻で描いている。中心部には小さいくぼみがある。円光背面の同心円を描く際に、何かコンパスのような道具を使った痕跡かもしれない。つまりコンパスならば針に当たる何か鋭利なものを中心点に押し当てた痕跡ではないだろうか。両手先は失われているが肘を曲げて結跏趺坐した膝上で両手を前方に差し出している姿勢で、右手には錫杖を執り、左手に宝珠を捧げ持っていたと思われる。錫杖は石で作られたものはなく金属製の短いものを拳に空けた穴に差し込んでいたと推定する。頭部が失われているので何とも言えないところもあるが、残された頸部は細くどちらかというと華奢な感じで、開いた両膝間の幅は十分に広く、全体的なプロポーションはよく整っているように見える。05_2やや撫肩で襟元から胸部にかけての肉取りはどちらかというと貧弱であるが決して平板ではない。衣文は抑揚を抑えて線刻に近いもので力強さは感じられないが袖先などの曲線は柔らかく、案外に細かい部分まで写実的なところもあってまずまず行き届いた作風である。造立時期には諸説あり、清水俊明氏は昭和49年発行の『大和の石仏』で室町時代末頃の作風とされているが、昭和58年発行『日本の石仏』近畿篇の付録、三木治子氏作成の「近畿府県別主要石仏一覧表」では鎌倉時代となっている。さらに昭和59年発行の『奈良県史』第7巻では鎌倉時代後期の造立と考えられるとあって清水俊明氏も鎌倉時代説に従っておられる。丁寧な作風だがやや華奢な感じがあって全体の造形や衣文の彫成に力強さが不足しているように思う。鎌倉時代も末頃から南北朝前半頃のものと考えておきたい。龕部は高さ約135cm、奥行き約100cm、厚さ約15cm程の板石を左右に立てかけ、その上に幅約145cm、奥行き約65cm、厚さ約15cm程の平板な石材を天井石として載せている。06_2背後にも石材が並べて積まれているのが見える。花崗岩と思われ、外面は粗く整形しただけであるが、側面や内側は平滑に整形され鑿痕も残っている。確証はないが当初からのものと考えてもいいかもしれない。
 石仏龕の背後、尾根が馬の背になった少し上った場所に層塔がある。見晴らしがよい。北方遠くに南山城方向が望まれる。現在10層を残すが、本来は十三重層塔であろう。残存高約3.5m余。基礎は幅約79cm、現状高約45cm、側面四方素面、初重軸部(塔身)は幅約49.5cm、高さ約50cmでわずかに高さが勝る。各側面とも径約42.5cmの陰刻月輪内に金剛界の四仏の種子を雄渾に薬研彫りする。初層笠以上は各層笠軸一体の通有型で笠裏には垂木型がある。初層から4層までは軒口厚く、軒反も力強い。04こうした特長から鎌倉時代後期頃の造立とみて大過ない。5層目以上はよく見ると軒反りや屋根の傾斜が変な層が交じっている。どうやらまともなのは下から4層までで5層目以上は全て後補の疑いがある。層塔の傍らに伊勢参詣供養板碑がある。現状高約106cm、幅約63cm。背面に自然面を残した板状の花崗岩の上部を山形に整形し、平滑な正面に輪郭を設けている。輪郭内中央上寄りに日月を現した小円相を浅く彫り沈め、その下に3行の陰刻銘を刻む。中央にやや大きく「天照皇太神宮奉三十三度供養」とあるのが肉眼でも確認できる。その向かって右下に「元和二年中川村」、左下に「丙辰八月六日」とあるらしいが、干支と中川村は肉眼では確認しづらい。江戸時代初頭の伊勢信仰に関する石造物として注目される。地元に伊勢講でもあったのだろうか、神宮への法楽供養か参拝33回を記念して建立されたものだろう。原位置を保っているという確証はないが、わざわざ遠くから運んできたとも考えにくいので、この道が奈良から伊賀を経て伊勢に通じる古い街道であったことを示していると考えてよいだろう。なお、この場所は地元で「牛塚」と呼ばれている。本によっては「塚」があるように書いてあるが、尾根のピークから少し下がった緩斜面でそのような地形は見当たらない。

 
参考:清水俊明『大和の石仏』
     〃 『奈良県史』第7巻 石造美術
   望月友善編『日本の石仏』4 近畿篇

 
牛塚というのは、昔、寺院の建設工事に使役された牛を葬った場所という伝承から来ているとのことです。あるいは、実範上人が中ノ川成身院を造営された際に使役された牛だとも言われているようですがそれ以上詳しいことは存知ません。そういえば、似たような話として逢坂の関の近く、近江関寺の故地に残る長安寺の宝塔にまつわるエピソードがありましたね。中ノ川の石造シリーズはこれでいったんおしまいです。


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