石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 高島市今津町浜分 願海寺宝塔ほか

2008-09-02 01:18:20 | 五輪塔

滋賀県 高島市今津町浜分 願海寺宝塔ほか

今津町浜分の南端、東から西に向かって流れる石田川と南北に走る県道海津今津線が交わる地点から北東側すぐに宝船山願海寺(曹洞宗)がある。湖岸に程近く東側には日吉神社が隣接している。本堂向かって左手、境内の南端近く松の木のそばに2基の石塔が立っている。04東側は石造宝塔、西側は五輪塔のように見える。しかし、このうち五輪塔と見えたのは、寄せ集めで、水輪と火輪、空風輪は五輪塔のものであるが、地輪の代わりに石造宝塔か層塔の基礎を流用している。水輪はかなり大きく、下すぼまり気味で重心がやや高い。火輪は水輪に比べるとやや小さく大きさの釣り合いが取れていない。空風輪はさらに小さく、こうして見てみると各部すべて別物の寄せ集めと判断し得る。水輪、火輪ともにきめの粗い花崗岩で風化が激しいが、空風輪は緻密な石材で風化の度合いが違う。06地輪に代わる基礎は、幅約75cm、高さは下端が埋まりはっきりしないが40cmに少し足りない程度と思われ、幅に比してかなり高さが低い。側面は四面とも輪郭を巻いて格狭間を配し、三茎蓮花のレリーフを刻んでいる。輪郭は束がかなり広い。格狭間はやや肩が下がり気味ながらも側線に直線的ところはなく、かつあまり膨らむものではない。脚間が狭い。茶色っぽい斑紋の交じる花崗岩製で、上に載っている五輪塔の水輪のようにきめの粗いざらついたものではない。03幅:高さ比の低さ、束部の広い輪郭は、しっかりとした三茎蓮花の表現とあいまって古調を示す特徴と思われ、特色ある格狭間の形状は、退化と見るよりは意匠表現が完成するまでの試行錯誤の過程、定型化以前の形状と判断できそうである。造立時期は概ね13世紀後半~末頃として大過ないものと思われる。後述する永仁2年(1294年)銘の宝塔基礎よりも少し古いのではないかと思われる。一方、宝塔は、相輪を亡失して代わりに五輪塔の空風輪で補っている以外は基礎、塔身、笠と揃っている。空風輪を除く高さ約160cm余。塔身と基礎は大きさの釣り合いが取れているが、笠は少し小さいことから別物の可能性が高い。12基礎は幅約76cm、高さ約50cm、側面3方を輪郭で巻いて格狭間を配し、格狭間内は三茎蓮花のレリーフで飾っている。南側のみ切り離しの素面とし、6行ほどにわたって大きい文字で刻銘がある。中央少し右寄りに「永仁弐甲午」(1294年)の文字は肉眼でもはっきり確認できる。左上部には剥離部分もあり、拓本でもとらないと判読できないが、最後は敬白で終わっているようである。格狭間は花頭中央部分、それに隣接する左右の内側の弧の幅が極端に小さく、外側の弧が異様に広い奇異な形状で、側線下方が少し角張っている。塔身は高さ約69cm、軸部と2段の首部からなり、軸部は上下がすぼまり気味の円筒形で北側を舟形光背を彫りくぼめ、蓮華座に坐す如来像を半肉彫りしている。お顔から右膝にかけて剥落して、面相や印をうかがうことができない。首部は軸部との間に匂欄部に相当する段形を有する。笠は幅約61cm、高さ約43cmで笠下に斗拱型をぶ厚く2段に削りだし、軒口は厚く、隅に向かって厚みを増しながら力強い反りを見せている。屋根は低く、勾配は緩い。屋だるみをもたせた四注には隅降棟を表現している。隅降棟の突帯は比較的高い露盤の下で連結する。笠裏の段形と軒口の厚さに比べて屋根の高さが低く、軒先の伸びやかさがなくやや寸詰まりな印象を受ける独特の形状である。07大きさのバランスに難があるが、笠の造立時期は基礎とほぼ同じ頃か若干新しいのではないだろうか。基礎と塔身は一具のものと認めてよい。ただし、寄せ集めの五輪塔の基礎もこの塔身と大きさや年代にさほど齟齬がないと思われ、組み合わせの適否については慎重にならざるを得ない。基礎、塔身、笠ともに石材は隣の寄せ集め五輪塔の基礎と同じ茶色っぽい斑紋の交じる白く緻密な花崗岩で、風化の程度や質感もほぼ同様のものである。表面の茶色の斑紋は鉄分が表面に滲み出たか、染み付いたような感じで、苔や地衣類もほとんど見られないことから、これらの石塔部材が最近まで土に埋まっていた可能性が高いと思われる。なお、境内東側の小祠内にいくつかの箱仏類に交じって中央に祀られている阿弥陀如来坐像と思われる石仏は、像容がしっかり彫り出されたかなり優れた作風のもので、中世でも室町時代前半以前に遡る可能性がある。このほかにも境内の片隅に五輪塔の残欠が集積されている。

参考:今津町史編纂委員会 『今津町史』第4巻 477~478ページ

法量数値はコンベクスによる実地略測ですので、多少の誤差はご勘弁ください。

あえて苦言:今津町史によると「総じて摩滅が著しいが「永仁二甲午二月十七日」という紀年銘が判読できる…」とありますが、それ以外の銘文の記述はありません。写真を見ていただければわかるように、「孝子」や「敬白」など肉眼でも何とか読めなくもない文字もあり、剥落部分を除けば判読が困難なほど摩滅が著しいとはいえない表面状態です。拓本などの手段を講じれば銘文はそこそこわかるはずです。先祖の思いを伝えるかけがえのない銘文です。紀年銘だけが判ればよしとするにとどまらず、将来の風化摩滅の進行や万一の盗難などに備える記録保存とその価値を情報発信する意味からも、もう少し詳細な調査と記述によって町史はその責任を果たしてほしかった。小生のような個人的なマニアの忘備メモなどとは違って公的な町史なんですから、拓本もお寺や檀家の理解が得やすいはずですし、公的責任においても得るべきです。自分達の故郷の歴史を後世に残すための町史が貴重な銘文を採録しないでいったい誰がするのですか!とあえて申し上げたい。別途どなたかの史料紹介があったのかもしれませんが、だとしても町史が銘文を採録しない理由にはなりません。ちょっと言い過ぎたかもしれませんがあえて苦言、関係者の方、もしご覧になられていたらご免なさい、お許しください。


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