奈良県 生駒郡平群町鳴川 千光寺宝塔
千光寺は役小角が大峰山に移る前に修業したと伝える山岳霊場で、元山上と呼ばれる。真言宗醍醐派。本堂裏の一段高いところに近世の五輪塔と並んでこの宝塔がある。高さ133cm、花崗岩製。宝塔といっても一見したところでは五輪塔に見える。五輪塔と呼んでも差し支えない。あえて宝塔とするのは、塔身に首部が設けられていること、笠頂部に露盤が見られることによる。非常に低い基礎、塔身は横張りが弱く樽型で上端に高さ2.5cm程の段を付けて低い首部を削りだしている。笠は全体に高く、軒口は薄く全体に緩く反る“真反り”に近く、四注の屋だるみも緩い。軒口は心なしか内斜気味に切ってあるようにも見える。笠裏に垂木形は見られない。上端を広めにとっているせいか屋根の傾斜がきつく見える。笠頂部に低い一段を設けて露盤を表現している。通常の宝塔では相輪とするところを伏鉢と宝珠としている。伏鉢も塔身に似て樽型で押しつぶしたように上下に短い。宝珠との境に頸部を設けるのも古い手法。宝珠は全体になだらかなカーブを描きながら先端を尖らせ下端を水平気味にそろえて最大径を下にもってくる。川勝博士いわく「蓮の蕾の下方を切りとったような」形状を呈し古風な宝珠の意匠表現である。各部素面で刻銘、種子等は見られない。造立年代は鎌倉初期とされている。こうした珍しい形状は他に比較する材料が少ないため、確かなことはいえないが、笠がやや高い点を除けば平安末期とされる当麻北墓の五輪塔(2007年3月3日記事参照)と全体のプロポーションに通じるものがあるように思う。むしろ五輪塔の祖形が宝塔にあるとの考え方に立てば、千光寺塔がより古いとの見方も成り立ちうる。一方、当麻北墓塔の石材は凝灰岩、千光寺塔は花崗岩である。凝灰岩は平安期の石塔に多く採用され、花崗岩の採用が一般化するのは東大寺再建に伴い来日した伊派をはじめとした宋人石工の活躍により石材加工技術が発展するようになる鎌倉時代初期以降とされている。もっとも凝灰岩は鎌倉期にも見られるし、鎌倉以前の花崗岩製品がないわけではないが、大きな流れとして捉えるならば凝灰岩は古く花崗岩は新しいとの考えは概ね正しいと思われる。原始的な形態をとどめているとはいえ、宝珠や塔身の曲線、四注の屋だるみや軒反など千光寺塔の造形は一定レベルに達した花崗岩加工技術がなければ彫成しえない可能性が高いと思われる。このように考えてくると千光寺塔の造立年代は13世紀初めごろとして大過ないと思われる。なお、寺蔵の梵鐘に「大和国平群郡千光寺 元仁2年(1225年)乙酉四月日」の銘があり、これはそのころ千光寺の何らかの施設整備が行なわれた可能性を示すもので、このあたりもヒントになるだろう。すぐそばに鎌倉後期と思われる十三重層塔がある。壇上積の基壇を備え、低い基礎は側面素面、雄渾な金剛界四仏の種子を塔身側面月輪内に薬研彫し、厚めの軒口と適度な軒反と各層の逓減も美しいが惜しくも相輪先端を欠く。花崗岩製で高さ約3.5m。鎌倉時代後期半ば頃のものと思われる。
左下写真:最も古い形態の”五輪塔”と江戸時代前期と思われる新しい五輪塔が仲良く並んでいます。
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 149ページ
元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 428~429ページ
平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 65~66ページ
この他にも鳴川には優れた磨崖仏や弘安4年銘のゆるぎ地蔵など見るべき石造美術が多いので、また別途紹介します。
九州の石造物は、地域によってはあまり関心も持たれず、開発の波にのまれてしまったものもあるようです。出来るだけ早く手持ちの資料を公表していきたいと思っています。
滋賀県の石造物は殆ど知りませんが、沢山の資料を拝見できて勉強になります。これからも勉強をさせていただきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
20年ほど石造物から離れてみえたということは、
斯道の大先輩とお見受けいたします。
駆け出し者の小生の拙いサイトをご覧いただいている由、
甚だもって汗顔の至りであります。
ややもすれば忘れ去られがちな石造の価値が少しでも世に伝わればと
始めた当ブログですが、素晴らしいブログを展開されてみえる大先輩が
いらっしゃったことは、何より心強い限りです。
どうか今後ともご指導並びにご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。
「石造文化財IN九州」さっそくお気に入りに追加いたします。