石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市藺生(いう)町 青竜寺宝篋印塔

2008-03-21 01:33:06 | 奈良県

奈良県 奈良市藺生(いう)町 青竜寺宝篋印塔

旧山辺郡都祁村は最近合併で奈良市になった。古来都介野とも呼ばれた標高400mを越える山深い高原地帯で、三陵墓古墳群や小治田安万侶墓などの古い遺跡も多い。02中世を通じ興福寺領で、東山内衆と呼ばれる土豪達が活躍、染田天神連歌講、あるいは中世城郭群や数多い石造文化財など興味深い活躍の痕跡を今に残している。06藺生は都祁の西南端の一番奥まった集落。青竜寺は集落の南のはずれのなだらかな尾根上に建っている。趣きのある茅葺の本堂、よく手入れされた明るい境内には五輪塔の残欠や石仏が散在する。境内入口の覆屋内にある石仏には建武銘があるとされるほか、境内無縁塔に室町後期の在銘石仏がいくつかあるという。本堂向かって左に一際目立つ宝篋印塔がある。角ばったレンガ状の石材を約2m四方に並べて区画した中に壇上積基壇を設けている。基壇は幅133cm、高さ約60cmで、長短の切石を方形に組んだ地覆の四方に束を立て羽目石をはめ込み、上にほぼ同大の長方形の板状の葛石を2枚載せている。葛石の外周下端には薄い一段を設けている。05羽目石は素面で格狭間は見られない。背面(南側)の羽目石上端中央に逆台形の穴が開けてある。この穴から火葬骨を基壇下の埋納施設に落としこんだものと思われる。したがって基壇は塔とワンセットのものと考えてよく、当初から現位置に建っていた可能性が高い。台座は見られず基壇上に直接基礎を据えている。塔は基礎から相輪まで完存している。基礎は上2段、側面は全て素面で背は低め、塔身は輪郭を巻き、大きい陰刻月輪内に雄渾なタッチで金剛界四仏の種子を薬研彫する。笠は下2段上6段。軒は薄め、かさ全体に比して隅飾はやや小さく、二弧輪郭付で軒と区別して先端に向かって緩く外反する。08 輪郭内は素面。相輪は珍しく露盤を一石彫成している。露盤側面は二区に区切って輪郭を巻き、内に格狭間を配する。この露盤を入れると笠上は7段になる。相輪請花は上下とも素弁、宝珠は下端のくびれにひ弱さはなく、重心を中央に置いて完好な曲線を描く。九輪の突帯彫成もしっかりしている。花崗岩製、塔高約225cm。刻銘は確認できない。笠の段形の立ち上がり、塔身種子の彫りともにエッジが利いてシャープな印象で、二区格狭間入り露盤を含めると笠上7段になる点は文応元年(1260年)銘の額安寺塔、弘長3年(1263年)銘の観音院塔に共通する特徴で注目してよい。清水俊明氏は1310年~1330年頃と推定されているが、基礎の低さと相輪宝珠の形状、隅飾の形状などから鎌倉中期末から後期初め、13世紀末ごろのものと思われる。①微妙に弧を描いて外反する小さめの隅飾、②相輪下請花が素弁、③基礎側面が素面、④塔身の輪郭といった大和系の宝篋印塔の特徴をいかんなく発揮している。基壇まで備え、各部揃った見事な宝篋印塔といえる。来迎寺の宝塔・五輪塔群や水分神社狛犬、観音寺層塔など石造美術の宝庫である都祁を訪れる際には何としても見ておきたい優品である。なお、清水俊明氏によると付近の白石にあった大宝篋印塔が大正初年に売られ、名古屋方面にあるという。『奈良県史』では正応4年(1291年)銘とあるが、『史迹と美術』294号に川勝博士が写真入りで紹介された正応6年銘という、昭和34年当時、白沙村荘にあったものと同一と思われる。川勝博士の記述を引用する「花崗岩製、高さ9尺3寸7分・・・中略・・・複弁反花座が据えられ・・・中略・・・基礎側面は無地で、一面に刻銘がある。正応6年癸巳/五月五日造立也・・・中略・・・塔身は・・・中略・・・周辺に輪郭を巻くものであって月輪内に金剛界四仏の梵子を現す。笠では隅飾は観音院のと同様に、無地の二弧であるが、直立せずやや開いている。」写真を見る限り青竜寺塔によく似るがより基礎が低い。青竜寺塔の造立年代を推定するヒントになるだろう。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術 364ページ

   川勝政太郎 「石造美術講義(18)」『史迹と美術』 294号

   平凡社 『奈良県の地名』 日本歴史地名体系30

写真左下:基壇羽目石上端に穴あるのがおわかりだろうか

ちなみに都祁地域は石造美術の宝庫ですが、旧白石塔のように流出してしまったものも多いようです。来迎寺の嘉暦2年銘十三重層塔は大正8年売却され現在神戸市須磨寺にあるというし、水分神社の永仁3年銘の石灯篭は早く江戸時代に流出、今は大阪の個人所有になっているようです。そういえば最近、運慶作といわれる仏像がオークションにかけられたニュースがありましたが、こういうことを聞くと心が痛みます。石造美術は、たとえ現在個人の所有地にあっても、元々個人の所有物として造立されたものではありません。金に任せた好事家、それにつけこむブローカーは言うまでもなく、たまたまその時の土地の所有者や住職などが売ってしまうなど、例えその時の法律は許しても、人間として日本人として先祖と子孫に顔向けできない恥ずべきことだと思います。公開されている場合はまだましですが、死蔵されているような場合は深刻です。石塔造立の功徳により衆生の幸福を祈願した先祖達の心に思いを致し、2つとない日本の、そして地域の財産として子孫のためにいつまでも守り伝えていくべきです。好事家の趣味の対象として取引されるようことは2度と繰り返されてはいけないことだと思います。今からでも可能な限り元に戻していただきたいと思います。


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1 コメント

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白石にあったとされる正応銘の宝篋印塔について、... (猪野六郎)
2008-04-09 16:53:40
白石にあったとされる正応銘の宝篋印塔について、記事では『史迹と美術』294号の記事を参考に載せましたが、同じ川勝博士の記述による新装版『日本石造美術辞典』にも旧観音寺宝篋印塔として記載されていました。同一個体と思われます。新装版『日本石造美術辞典』では都祁村小山戸字藤ヶ谷の観音寺跡にあったと記載されています。同書の出来た昭和53年当時は、白沙村荘から転出し、名古屋市北区で個人蔵となっていたようです。高さ283㎝、正応六年癸巳/五月十五日造立也と、元の場所名と銘の日付が若干違っています。詳しくは同書の67ページをご参照ください。
※『史迹と美術』の古いバックナンバーは入手が難しいですが、東京堂出版さんから出ている同書は入手しやすく、内容的にもお勧めです。
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