石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都市北区千本通上立売上ル花車町 石像寺(釘抜地蔵)の石仏

2015-03-22 00:14:58 | 石仏

京都市北区千本通上立売上ル花車町 石像寺(釘抜地蔵)の石仏
千本通の東側にささやかな門を構える石像寺は、俗に釘抜地蔵と呼ばれる。家隆山光明遍照院石像寺といい浄土宗の寺院。本尊は地蔵菩薩。弘法大師空海創建、俊乗坊重源上人の中興を経て厳誉上人が慶長年間に再興したという。釘抜とはすなわち苦抜きの転訛と思われる。室町時代末、前世に呪いの人形(ひとがた)に八寸釘を打ち込んだ因縁で腕の痛みに苦しんだ人が、この地蔵尊に祈り、夢で痛みの元になっていた人形に刺さった釘を抜いてもらって平癒のよろしきを得、お礼参りをすると、血の付いた八寸釘が地蔵尊の前に置かれていたという説話が伝わる。現在も霊験あらたかな地蔵尊として参詣者が絶えない。病気平癒の願をかけ、お礼に釘抜を納めるのだそうである。奉納された釘抜を貼りつけた無数の絵馬が本堂の壁一面に懸けられている。この釘抜はバール状のものではなく、ペンチ状のヤットコ挟みのようなもので、地蔵の種子「カ」に釘抜をあしらったデザインがこの寺の印になっている。
本尊の地蔵菩薩も石仏だそうであるが、厨子奥のお姿は拝せない。
ここで取り上げるのは、本堂背後の小堂にある石仏である。昭和の初め頃、川勝政太郎博士が世に紹介して以来、著名な阿弥陀三尊石仏(及び弥勒仏)で、重要文化財に指定されている。花崗岩製。香煙に燻されて表面が褐色になっている。中尊は高さ約1.68m、像高約1.2m。複弁反花座上に敷茄子を挟み二重の単弁請花という豪華な蓮華座があるというが手前に集積された小石仏群に隠れて見えない。先端を尖らせた二重円光背の周縁に突帯で輪郭を巻く。頭光背面に5つ、身光背面に6つの平板陽刻の円相を配し、円相内に阿弥陀の種子「キリーク」を陰刻する。丸彫りに近い坐像で、螺髪一つひとつを刻み出し、面相、衣文、肉取り、すべて製作優秀で非常に丁寧に作られている。表面の風化磨滅も少なく、総じて保存状態良好であるが、胸の辺りで水平方向に折損したらしく補修痕が痛ましい。両手先も欠損するものの、定印を結んでいた痕が看取される。光背面の裏側に、約63.5cm×約24cmの縦長の方形枠内に三行の陰刻銘があるという。「元仁元年甲申十二月二日甲午奉始之/同二年四月十日庚子奉開眼之/願主伊勢権守佐伯朝臣為家」。元仁2年は、鎌倉時代前期の1225年。着工から開眼まで4か月余り、制作期間が記されている点も貴重。古い紀年銘にはこのように年だけでなく月日の干支も入れることがある。
脇侍の観音、勢至の両菩薩はともに立像で、像高約1.2m。観音は冠に化仏が見られ、左手に持った蓮華の蓮弁に右手を添えている。膝の辺りで折損した痕がある。勢至は折損の痕は見られず完存し、胸前で合掌する。ともに種子(観音=「サ」、勢至=「サク」)を刻んだ平板陽刻円相15個を光背面に配する。手法・作風は中尊と同一で、はじめから一具の三尊像として作られたと考えて間違いない。また、向かって右隅にも同じ手法作風の施無畏与願印の如来像がある。脇侍像より一回り小さく、光背上部が欠損し、膝付近に折損痕がある。表面に白い胡粉が塗られた痕跡があるが、当初からのものではないようである。光背面の種子が「ユ」であることから、弥勒如来と考えられる。これも阿弥陀三尊と一具のものと考えられる。なお、川勝博士によれば、願主の佐伯為家は、藤原定家の息子の藤原為家とは、ほぼ同時代ながら別人で、『山槐記』治承2年正月に従五位下織部司長官に補任されており、彼の晩年の作善による造立と推定されている。
 
参考:川勝政太郎「元仁二年在銘の石像寺石仏に就いて」『史迹と美術』第37号
     〃  『京都の石造美術』
     〃  『日本石造物辞典』

 
今更小生がご紹介するまでもない、言わずと知れた京都石仏界のエースの登場です、線刻を除く立体造形の石仏では洛中在銘最古、最優秀作のひとつと言えるでしょう。素晴らしいの一言に尽きます。阿弥陀三尊と弥勒仏、ともに衆生の後生安穏を祈る信仰対象となる尊格で、中世の葬送地であった船岡山の入口に近い場所にある点も留意すべきかもしれません。



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