明日香村の豊浦の集落は、甘樫丘北麓にあり、飛鳥地方最初の宮都となる「推古天皇」の「豊浦宮」・「小墾田宮」が営まれた地です。
今回は、「推古天皇」や「聖徳太子」が活躍した「飛鳥時代の地」を散策し、撮ってきました。
〇「豊浦寺」・「豊浦宮」跡
集落内にある「向原(こうげん)寺」は、その名などから「ムクハラの寺」の地に建つと伝承されています。6世紀中ごろ、仏教が百済の国から日本に伝わった時に、百済から贈られた仏像を安置した場所が、蘇我稲目の邸宅である「向原(ムクハラ)」の家で、その家を寺としたとされています。その「向原(こうげん)寺」境内から、厚さ90センチほどに版築された基壇跡が見つかりました。飛鳥時代の「豊浦寺」の遺構と推定されています。さらに、その下層から石敷き遺構と建物跡が発見され、「豊浦宮」の遺構とほぼ断定されました。
境内には、火炎のような「文様石」や「講堂」の礎石を見ることができます。また、すぐ近くには、「豊浦寺」の塔礎とみられる礎石もみることができます。
〇「なんば池」・「甘樫坐神社」
「向原(こうげん)寺」のすぐ南に「なんば池」があります。仏教をめぐって、蘇我氏と対立していた物部氏が百済伝来の仏像を捨てたという伝承があり、その場所が「なんば池」だそうです。その仏像を本田善光が拾って、信濃(長野県)に持ち帰って安置したのが「善光寺」のはじまりだと言い伝えも残っています。
「向原(こうげん)寺」のすぐ南西には、「甘樫坐神社」があります。この地で、允恭天皇のときに、「盟神探湯(くがたち)」が行われたといわれてます。煮えたぎる湯に手を入れて真偽を判断する神判のことです。現在、毎年4月に湯立て神事で再現された様子を見ることができます。また、境内には、飛鳥の謎の「立石」を見ることができます。
〇「小墾田宮」跡・「石神遺跡」・「水落遺跡」
雷丘の東に「雷丘東方遺跡」があり、ここが「小墾田宮」ではないかといわれています。かっては、「小墾田宮」の有力な推定地として、豊浦寺跡の北にある「古宮土壇」があげられていました。発掘調査の結果、庭園遺構がみつかりましたが、「宮」と関係するような建物跡は確認できなかったようです。一方、「雷丘東方遺跡」の発掘調査では、井戸跡等がみつかり、「小墾田宮」と書かれた土器が出土しました。さらに、倉庫群とみられる建物跡が発見されました。このことから、雷・豊浦・奥山・小山にかけての一帯が、「小墾田宮」跡だといわれています。
ここで発掘された物が、近くにある旧飛鳥小学校校舎を利用した「明日香村埋蔵文化財展示室」にて見ることができます。
また、近くには飛鳥時代の古道「山田道」があり、外国や辺境の人々をもてなしたとされる迎賓館跡といわれている「石神遺跡」や、日本最初の水時計台跡である「水落遺跡」があります。「石神遺跡」からは、石敷き広場や建物跡がみつかっています。日本書紀にも出てくる「石造須弥山石」(国重文)や「石造男女像」(国重文)が出土しています。近くにある、「飛鳥資料館」で見ることができます。
〇「雷丘(いかずちのおか)」
豊浦の集落近くにある飛鳥川を挟んで、甘樫丘の向かいにある丘が、万葉集にも詠まれた「雷丘(いかずちのおか)」です。「日本書紀」によると、雄略天皇が家来に「三諸山(みもろやま)」の神を捕えよと命じましたが、捕えたのは雷のような声と炎のような目をもつ大蛇であったため、こわくなった天皇は大蛇を放たせたと言われています。この話をもとに、落ちた雷を捕えた場所を「雷丘(いかずちのおか)」だという伝説が生まれたといわれています。とても、ロマンあふれる話ですね!
〇「飛鳥時代」は、592年「推古天皇」が飛鳥の地である「豊浦宮」で即位したことからはじまります。
豊浦寺跡の北にある「古宮土壇」跡の夕焼けの景色を見ていると、古代にタイムスリップしてしまう自分がいました!