泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

古代の官道 「下ツ道」を歴史散策

2017年12月06日 19時32分00秒 | 歴史

「大和の古道(やまとのこどう)」とは、日本の古代道路のうち、大和国内に設置されたものをいいます。 奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る道を、「山辺の道(やまの べのみち)」・ 奈良盆地の中央より東を南北に平行する三本の縦貫道を、「上ツ道(かみつみち )・中ツ道(なかつみち)・下ツ道(しもつみち)」と呼び、これを「大和三道」と呼ぶようです。

今回は、奈良県橿原市に残っている「下ツ道」を歴史散策してきましたので紹介したいと思います。

古道のうち、「下ツ道と中ツ道」は平城京とも深いつながりがあります。「下ツ道」は、平城京の朱雀大路(すざくおおじ)へとつながり、平城宮朱雀門(すざくもん)にまで至ります。また、「中ツ道」は平城京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)となっており、平城京の都市設計を考えるうえでも非常に重要な道路となっています。なお、現在でも橿原市には、「横大路・下ツ道・阿倍山田道」が残っています。三道の敷設年代については、『日本書紀』 (653年) 六月条に「処処の大道を脩治(つく)る」とあることなどから、7世紀半ば頃に敷設されたと推定されています。

「下ツ道」は、 約2.1kmの等間隔 で「中ツ道」・「上ツ道」が奈良盆地を南北に貫いています。道幅は、両側にある側溝の中心間で22.7メートルです。橿原市大軽町と五条野町の所にある「丸山古墳」の周濠の西端をかすめて南進しています。

今回は、橿原市の近鉄八木駅近くの「札ノ辻」から「おふさ観音」の所までの「下ツ道」を歴史散策してきました。約1時間位の道程でしたが、古い家並みを見ながらの趣きのある道で、とても楽しく歴史散策することが出来ました!

                                        

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「竹内街道(羽曳野市~太子町)」を歴史散策

2017年12月02日 18時06分34秒 | 歴史

「竹内街道(たけのうちかいどう)」は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠 を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26 kmの街道です。大阪府羽曳野市の 白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166 に指定されています。

今回は、「竹内街道(羽曳野市~太子町)」を歴史散策しましたので紹介したいと思います。

スタートは、羽曳野市の「上の太子駅」から歩き始め、太子町の竹内集落付近(孝徳天皇陵)までの「竹内街道」を歴史散策しました。ルートには、「竹ノ内街道」の旗や道案内板があり分かりやすかったです。最初は、車が多い道でしたが、途中から雰囲気のある道になり、由緒あるお寺に参拝する等とても気持ちよく歴史散策することが出来ました。

せっかくなので、太子町にある陵墓・古墳などの遺跡等を巡りました。(竹内街道ー孝徳天皇陵ー仏陀寺古墳ー推古天皇陵ー用明天皇陵)

「竹内街道」は、『日本書紀』の613年の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されています。「難波大道」などと同様、日本最古の「官道」です。

一説には、「聖徳太子」や「小野妹子」らが中国大陸への使者として派遣された「遣隋使」が、帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、立派な道路が必要だと考えて整備したものだといわれています。現在の「竹内街道」は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっているようです。

「官道」として整備されたのは7世紀初め頃ですが、二上山の西麓の大阪府太子町には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、既にかなりの人々の往来があったと思われます。

晩秋の青空の下、古代を想いながら仲間と共に歩いた「竹内街道(羽曳野市~太子町)」の歴史散策は、とても楽しいひと時でした!

                                          

               

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする