グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第6章 蒸機:大平原から大海原へ (その4)

2005年06月26日 | Wood's Book翻訳
 マストドンとコンソリデーションの最初の機関車が導入されたのとほぼ時を同じくして、有名な4-6-0、Eクラス、テンホイーラーが姿を現した。1892年にボールドウィン社で製造されたE-9クラスの機関車は2両しかない。これらの2両はクラウンバーボイラーであったが、20両のE-7クラス(1893年Brooks製)とこれに続くEクラスのほとんどはベルペア火室であった。機関車の発達やクラスの番号は、製造された順番とほとんど関係なかった。E-7の後、順番は、E-13、E-12、E-10、E-3、E-8とE-6、E-14とE-15と続いた。最後のEクラス、1915年アルコ社製、ラジアル支持ボイラーの2両の機関車が、E-2であった。欠番となっているクラスは一時的には存在したが、数も少なくEクラスを代表するものでもない。E-1は、1890年Rogers製で2両。同じ年、Rhode Islandは4両のE-2を製造、そのうち1両はたった1両のE-5となった。1889年に2両のE-4がSchenectadyにより製造された。E-7 No.959は改造されて1両のみのE-11となった。もっとも多いクラスは、ボールドウィンが1910・11年に製造したE-14の45両。本質的にパシフィックH-4クラスのテンホイールバージョンであるE-14は、1920年代にパシフィックであるH-5クラスとH-7クラスに改造された。Eクラスの動輪径は、55インチ、63インチ、73インチと色々だが、小径の動輪の機関車は、支線・貨物用、大きい径の動輪の機関車は旅客用として設計された。列車の長編成化、重量化につれて、テンホイーラーは旅客用には不十分となってきた。その結果、1942年には19両しか残っていなかった。1950年5月には、E-6クラスNo.927の1両だけとなっていた。
 1905年、H-1クラスとして、パシフィック(4-6-2)がGNにやってきた。この機関車の成功により、ボールドウィンとリマに多数の発注がなされ、1930年でも130両ものパシフィックが運用されていた。1914年リマ製の、印象的なH-4クラスは、最初からパシフィックとして製造された最後の機関車となった。GNは、本線では旧式となった多数のプレーリーとテンホイーラーをどうすればいいか分かっていた。1920年代にこれらの機関車はGN自社工場でパシフィックに改造された。Jクラスの15両のプレーリーは、引き伸ばされてパシフィックH-6クラスとなり、更に早く改造されたE-14テンホイーラーはパシフィックH-5クラスとなり、旧式化したE-14、4-6-0の10両は少し後にGN工場でデルタの従輪、大型の火室、延長されたボイラー、過熱管を装備してH-7クラスとなった。牽引力(49,580ポンド)では、これらの機関車は、初期のニューヨークセントラルのハドソンに匹敵する。しかし、ハドソンと同じように長距離を高速で走り続ける能力があったかどうかは疑わしいところがある。初期に改善された機関車の何両かは、近代的機関車の需要が非常に強かったSP&Sに行っている。しかし、1940年代後半でも、H-2からH-7までのHクラスは計96両、GNの機関車の12%を占めていた。