真の複式マレー、1906年のL-1クラス(2-6-6-2)は、1904年のセントルイス博覧会で披露され、ボルティモア&オハイオ鉄道で問題なく使用されていた0-6-6-0の改造版である。現代的な基準でも複雑な機械の塊といえるこの機関車は、長大なボイラーの下に連接された二組の走行装置を持ち、更にカスケードの曲がりくねったカーブと勾配を走行するのを補助するための先輪と従輪も備えていた。動輪は小径-55インチ-だったが、牽引力は別物だった。70,000ポンド近い牽引力は、複雑で扱い難いGクラスマストドンに取って代わりつつあった、そのころの標準的貨物用機関車F-7コンソリデーションの牽引力41,000ポンドの2倍近かった。コンソリデーションに牽かれ、L-1に押されれば、単純計算でもスカイコミッシュからタイまでの2.2%勾配で1,300トンの列車を押し上げることができた。1906年ボールドウィン製のパシフィックと同じボイラーを持つ、より軽い45両のL-2は1907年にGNに登場し、もっぱら東行きの1.8%勾配でのコンソリデーションの後補機として、ロッキーに送られた。更に17両のL-1が1908年に配備された。L-1は、カスケードで牽引機と後補機の両方として使われ続けた。牽引でも後補機でも、L-1も若干軽いL-2もどちらの役目もうまく果たしたが、機関区では、二組の走行装置が日常的な保守と注意を必要としたため苦労の種だった。小径の55インチ動輪を主な理由として、スピードには欠けていた。水と石炭をがつがつ食うところも頭痛の種だった。1920年代に、GNは自社工場で、L-2をミカドO-5クラス(2-8-2)に、L-1をミカドO-6クラスに改造した。
更に強力なパワーを求めて、GNはボールドウィンから1910年にハイブリッドタイプの複式マレー、M-2クラス(2-6-8-0)を導入した。このクラスは、モーガル2-6-0と入替機0-8-0を無理やり結婚させたように見えた。このグループの25両は55インチ動輪を履いていたが、牽引力は80,000ポンド近くまで増大していた。この怪物機関車の蒸気を上げ続けるためには機関助手をリレーさせなければならなかったが、スピードは遅いものの確実に牽引した。そこで、鉱石列車牽引でいくつもの特筆すべき記録を達成したIron Rangeにおいてこの機関車はすぐに活路を見出した。
1911年には、GNは、全国で最多の複式マレーを保有していた。マレーは速度が遅く、複雑で保守も頭痛の種だったが、GNが使える牽引機のすべてともいえた。機関車のリストのトップは、マレーで占められていたが、リストは、各種のモーガル、Gクラス(トウェルブホイール)、コンソリデーション、高速貨物機関車として考えられていたプレーリーの大グループ、近代化された機関車であった数両のパシフィックと続いていた。このように、GNの機関車は、本線旅客用には牽引力はあるものの速度に欠ける機関車、本線貨物用には速度が速いが軽量すぎる機関車のどちらかに偏っていた。勾配の少ない区間での重連は一般的となっていたが、これは機器にとっても機関士にとっても消耗が激しくコストもかかるものであった。
更に強力なパワーを求めて、GNはボールドウィンから1910年にハイブリッドタイプの複式マレー、M-2クラス(2-6-8-0)を導入した。このクラスは、モーガル2-6-0と入替機0-8-0を無理やり結婚させたように見えた。このグループの25両は55インチ動輪を履いていたが、牽引力は80,000ポンド近くまで増大していた。この怪物機関車の蒸気を上げ続けるためには機関助手をリレーさせなければならなかったが、スピードは遅いものの確実に牽引した。そこで、鉱石列車牽引でいくつもの特筆すべき記録を達成したIron Rangeにおいてこの機関車はすぐに活路を見出した。
1911年には、GNは、全国で最多の複式マレーを保有していた。マレーは速度が遅く、複雑で保守も頭痛の種だったが、GNが使える牽引機のすべてともいえた。機関車のリストのトップは、マレーで占められていたが、リストは、各種のモーガル、Gクラス(トウェルブホイール)、コンソリデーション、高速貨物機関車として考えられていたプレーリーの大グループ、近代化された機関車であった数両のパシフィックと続いていた。このように、GNの機関車は、本線旅客用には牽引力はあるものの速度に欠ける機関車、本線貨物用には速度が速いが軽量すぎる機関車のどちらかに偏っていた。勾配の少ない区間での重連は一般的となっていたが、これは機器にとっても機関士にとっても消耗が激しくコストもかかるものであった。