3月2日の聖書日課は
旧約聖書 「イザヤ書」 第42章14~21節
新約聖書 「エフェソの信徒への手紙」第5章 8~14節
「ヨハネによる福音書」 第9章13~25節
どうぞ、教会においで下さい。
神さまのいやしは、あなたの根本的なところでのいやしとなるでしょう。
この日の讃美歌はバッハ作曲の教会讃美歌76番です。
「恵みの主イエスよ 心のうちに
とうときみ姿 しるさせたまえ
十字架のイエスを 心に刻み
われらの隠れ家 救いとしたまえ」
3月2日の聖書日課は
旧約聖書 「イザヤ書」 第42章14~21節
新約聖書 「エフェソの信徒への手紙」第5章 8~14節
「ヨハネによる福音書」 第9章13~25節
どうぞ、教会においで下さい。
神さまのいやしは、あなたの根本的なところでのいやしとなるでしょう。
この日の讃美歌はバッハ作曲の教会讃美歌76番です。
「恵みの主イエスよ 心のうちに
とうときみ姿 しるさせたまえ
十字架のイエスを 心に刻み
われらの隠れ家 救いとしたまえ」
<*聖書の学び 始めませんか*> 毎週木曜日10時半
札幌礼拝堂での聖書の学びは、創世記、出エジプト記と読み進み、今、「ヨシュア記」を読んでいます。最近学んだ中から、重富牧師が月報KaIrosに書いた文で、その一端をご紹介しましょう。 さあ、あなたも、聖書の学びにご参加下さい! どなたでもどうぞ。
「ヨシュア記」はイスラエルがヨシュアに率いられてカナンに侵攻する様子を伝える戦記もの。私たちが戦記物を読むときには、おおかた主人公側に身を置いて読む。風林火山では武田信玄の側に、太閤記では豊臣側に身を置いて一喜一憂する。
けれど、ヨシュア記は、かならずしも、私たちにそのような共感を呼び起こさない。読みながらとまどい、心にいくつもの躓き(つまずき)を感じるのだ。その最たるものが「聖戦」についてのヨシュアの記述である。聖戦は、人間の戦いではなく神の戦いであり、従って、その戦いに於いて、人間的な情や、欲は、否定されなければならない。つまり、敵を攻め滅ぼすのは、神への捧げものなのだ。
そのような論理から、敵を攻めるときには、女子供にいたるまで全部殺さねばならないことになる。エリコは、そうして壊滅させられた。アイも全住民皆殺し、王は生け捕りにされて木につるされた。どうも後味が悪いのだ。
無論このような信仰が間違っていることに、だんだん聖書の民も気づかされていくが、それにはかなりの時間がかかる。その到達点がホセア書の「私が求めるのは、憐れみであって、いけにえではない」ということばである。イエスもこの線に立たれた。
イスラエルのカナン侵攻は、摂理のうちにあった。それを否定する必要はない。しかし彼らの過剰な聖戦意識は、現代の私たちに、「正義の人」にこそ潜むゆがみとは何かを、あらためて考えさせてくれる。
2008年2月26日
<荒野での試み(悪魔と神の子イエス)> マタイによる福音書4章1~10
イエスは荒野で悪魔の誘惑を受けられた。そのとき悪魔は、鬼のように、悪面相で悪さを仕掛けてきたわけではない。反対に悪魔は理想主義者の顔をしてイエスの心にささやくのだ。第1の誘惑は、断食をして空腹になったイエスに「お前が神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」というささやきだ。悪魔の秘かにねらうところは、人間の生存にとって必須の条件、飢餓の問題を、お前は一挙に解決できるはずだという誘惑を潜めている。イエスがそれに乗ったらどうなるだろうか。全人類から額に汗して働く意味を奪うことになる。生きる意味も見失わせる。それが悪魔のねらいだ。「人はパンだけで生きるのではない」というのがイエスの答えである。
第2の誘惑は、イエスが、神の子として超能力をもっていることを万人に示すことである。高い神殿の屋根から飛び降りてそれを示せという。この誘惑のねらいは、誰もが目で見て信じられる宗教の力を示せということだ。それによって神の子と認められ宗教を統一できる。人は目に見えるものしか信じないのだと。
最後の誘惑は人類の悲願、「平和と繁栄をお前が与えよ」という誘惑。神の子ならそれが出来る。その権力をお前に与えようと。ただし、わたしにひれ伏し拝むなら。
飢餓の問題、宗教統一の問題、世界の平和と繁栄の問題、お前が神の子なら、それを一手に解決すればいいというのが悪魔の誘惑だった。理想の実現だ。考えてみれば、独裁者たちは皆、この理想を自分で実現しようとした。そして虐殺を行なった。そのとき悪魔は高笑いをしていた。
しかしイエスを選ばれたのは、人間ひとりひとりを救う道。ひとりひとりが、「生かされて生きる道」を与えることだった。最も迂遠な道。そのためにご自身の命を与えられた。
札幌教会月報「KaIros」第11号(2月号)より・・・by 重富克彦牧師「悪魔と神の子」
2008年2月26日
、
<四旬節/レントに入っています>
今年は2月6日が「灰の水曜日」。この日から復活祭までの46日間は「四旬節/レント」と呼ばれます。レントは春の意味でもありますが、イエスさまの受難・十字架の死を偲び、その意味を考え心に刻む期間でもあります。
毎日を深く静かに過ごして、悔い改めや懺悔に身を置きます。
”粗衣をまとい灰をかぶる”ことは古い時代から悔い改めや懺悔・深い嘆きのしるしとされてきました。「灰の水曜日」の礼拝は、この灰を額につけることによって主イエスの御受難を偲び、神さまの愛を感じるものです。
このレントの期間はまた、イエスがヨハネから洗礼を受けたあと荒野で断食し悪魔の試みに会われた40日間にちなむともいわれています。
2008年2月26日