札幌教会月報 KaIros 第24号(7月26日発行)掲載の
重富克彦牧師による祈りのエッセイ
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」詩編23:1
がんの告知は、ごく普通のこととなった。それに伴って、末期がん患者の余命の告
知も、とまどいなくなされているようだ。
私の妻も、肺がんが見つかった時はすでに末期で、余命一年と告知された。若い
医師が、淡々と告げた。あと一年。来年の6月くらいか。妻と一緒にその告知を聞い
たが、瞬時には実感が伴わなかった。妻も同様だったと思う。「なんだかぼーっとして
いたわ」と述懐していた。
死の告知を受けた者の、心の変遷を、丁寧に分析したエリザベス・キューボラー・
ロスの研究は、つとに有名だ。それによれば、人はまずそれを否認し、それから、
延命に向けて神と取引をする。かなわぬと悟ると抑鬱状態が訪れる。そして悲嘆。
そのようなプロセスをたどって、死を受容するようになる。死を受容する時には、や
はり何かに希望を繋いでいるものだという。
告知を受けて半年は、妻はまだ元気だった。がんの種類が腺がんで、西洋医学
では、抗がん剤か、放射線しか治療方法はないが、もはや根治は望めず、どちら
も、対症療法的な意味しかないと医師は言った。苦しい治療をして少しでも延命を
はかるか、代替治療を探すか、決断が迫られた。
そんなとき、妻の友人から「波動療法」という新しい療法があることを知らされた。
彼女はそれですっかりアトピーが治ったという。藁にも縋る思いで、インターネットと
にらめっこし、品川によさそうな治療院を見つけた。理論的にもよさそうな気がす
る。そのときは、これで、治るのではないかとわたしも妻も一縷の希望を持った。同
時に枇杷の葉療法や、漢方薬の服用も始めた。まだ妻もわたしも死を受け入れる
つもりはなかった。それがロス女史のいう「否認」にあたるのだろうか。
告知を受けてから、死に至るまでの一年、やはり妻も、キューボラー・ロスの言う
一連のプロセスをたどったのだろうか、それとも信仰のゆえに、抑鬱や悲嘆は軽減
される事が出来たのだろうか。ときどき、今でも自問自答する。ずっと傍にいたの
だが、妻の心の内奥まで十分に理解していたとは思えない。もしかしたら、自分
は、無意識のうちに、彼女に対して、信仰者として、取り乱すことなく、希望を持って
死んで欲しいと、自分の願いを、押しつけていたのかもしれない。わたしは夫であ
ると同時に、ホスピスのチャプレンのような役をしなければならないと思っていたよ
うな気がする。だから、いつも励ました。美しい天国のイメージも説いた。けれど、
励ましの心の奥には、悲しみにくれる妻の姿を見たくないという思いが隠れていた
のではないか。そうなったら、自分もどうしていか分からなくなるからだ。
年が明けると、病状が急に悪化した。激しい腰痛に襲われ出し、ついにその治療
院のエレベーターの中で転倒した。大腿骨骨折だった。もう骨まで蝕まれてしまっ
ていたのだ。
品川から、最初にかかった藤枝市民病院まで搬送され、そのまま入院。そこであら
ためて事態の深刻さを知らされた。余命は後3ヶ月。妻はその告知を聞いていなか
ったが、骨折が転移がんによることは、医師と看護師の会話から察知していた。
ベットに寝かせられ、ひとまず落ち着いたとき、いつものように祈った。
わたしの後に続いて、妻も祈るのが慣例だった。けれどその日から、妻は自分の
言葉では祈れなくなった。抑鬱のせいか、悲嘆のせいか。それはわからない。た
だ、「主の祈り」だけは、一緒にとなえてくれた。妻は自分の思いのすべてをそこに
託したのだ。
闘病中、妻は一度も、天国への憧れをくちにすることはなかった。55歳なのだ。
まだ生きたかったのだと思う。けれど取り乱すこともなかった。ただ時折目尻から
幾筋かの涙が流れていた。わたしに気づかれると、「勝手に出ちゃうから仕方がな
いのよ」と弁解さえする。弁解などしてくれなくてもよかったのに。
けれどやはり、あるときからはっきりと自分の死を受容したことをわたしも察知し
た。死の1週間ほど前、病室の窓からぼんやりと外を見ていたわたしの後ろから
「あなた、有り難う。頭に転移しているから、意識がごっちゃになる前に、有り難うっ
て言っておくわ」と言った。すでに自分の死を受容していたのだと思う。
余命の告知は残酷なものだ。けれども、あった方がよいだろう。残された日々を
惜しんで一緒に生きた一瞬一瞬は、どんな時間よりも凝縮され、永遠の光が差し
込んでいた時間であったと、わたしは思っている。