東北自動車道が、全線で一般車も通行できるようになったようです。
実は、地震発生当時、福島県郡山市付近にいました。
地震のときに、幸か不幸か地下にいたので、その大きいことはわかったのですが、
さほど恐怖を感じませんでした。
郡山駅に行って、新幹線が通行しているどころか駅の中にも入れず、
地元の人でごったがえしていて、ようやく事の深刻さに気づきました。
新幹線は動かなくても、高速バスは動くだろうとたかをくくっていたら、
高速も通行できず、一般道もかなり損傷を受けて、渋滞や通行止めで、
こちらも使えません。
どうにか2日後に、新潟まわりで帰ってきたのですが、
関東からダイレクトに行く手段が失われていました。
古代から、東北以北は政権の範囲外で、そのために征夷大将軍などが
あったわけですが、やはり福島と栃木の間で交通の便が途絶えやすいようです。
今回の地震でも、東北は分断されていました。
そのために、いろいろな救済の手が遅れがちになったのです。
実際には、一つだけ関東に帰る手段を見つけました。
会津鉄道というローカル線から、乗り継いで東武鬼怒川に抜けていく路線です。
ただ、これも利用できたのは1日半ぐらいでした。
その後、計画停電のため運行がストップしてしまいました。
JRは新幹線も在来線も完全に運行できなくなっていましたから、
細い通路とはいえ、停電からはずすなどの配慮が必要だったはずです。
郡山から新潟への高速バスが走るようになったのも1週間後ぐらいでしたから、
まさにその間、東北は切り離されてしまっていたのです。
実は、地震発生当時、福島県郡山市付近にいました。
地震のときに、幸か不幸か地下にいたので、その大きいことはわかったのですが、
さほど恐怖を感じませんでした。
郡山駅に行って、新幹線が通行しているどころか駅の中にも入れず、
地元の人でごったがえしていて、ようやく事の深刻さに気づきました。
新幹線は動かなくても、高速バスは動くだろうとたかをくくっていたら、
高速も通行できず、一般道もかなり損傷を受けて、渋滞や通行止めで、
こちらも使えません。
どうにか2日後に、新潟まわりで帰ってきたのですが、
関東からダイレクトに行く手段が失われていました。
古代から、東北以北は政権の範囲外で、そのために征夷大将軍などが
あったわけですが、やはり福島と栃木の間で交通の便が途絶えやすいようです。
今回の地震でも、東北は分断されていました。
そのために、いろいろな救済の手が遅れがちになったのです。
実際には、一つだけ関東に帰る手段を見つけました。
会津鉄道というローカル線から、乗り継いで東武鬼怒川に抜けていく路線です。
ただ、これも利用できたのは1日半ぐらいでした。
その後、計画停電のため運行がストップしてしまいました。
JRは新幹線も在来線も完全に運行できなくなっていましたから、
細い通路とはいえ、停電からはずすなどの配慮が必要だったはずです。
郡山から新潟への高速バスが走るようになったのも1週間後ぐらいでしたから、
まさにその間、東北は切り離されてしまっていたのです。