とたん、マは瞬時のうちに姿を変え、空が裂けてこぼれでた闇のように真に暗くなりました。小さな神さまとお三方の神は、剣を振り上げながら立ち向かわれました。暗闇は弾けるように無数に広がり、それはいくつもの頭をもつ不気味な黒竜となって、襲いかかりました。
一つの頭が、小さな神さまを食おうと、赤い口をぱんと割って落ちてきました。小さな神さまは巧みに避けて横に回りました。その拍子に剣で黒竜の首の一部を傷つけましたが、その傷はぱくりと開くやいなや、ひげの生えるように無数の小さな首を吐き出して、言いようのない不快な臭いをまき散らしました。
悲鳴が響きました。小さな神さまはあっと声をあげられました。青い珠なる早羽嵐志彦が、黒竜に腹を砕かれ、海に落ちていく様が見えました。
「早羽嵐志彦!」
叫んだのは於羽嵐志彦でした。美羽嵐志彦が懸命に黒竜の牙を避けながら、必死に叫ぶのが、次に聞こえました。
「於羽嵐志彦! ゆくな! 我を失うな!」
しかしその声は於羽嵐志彦の耳には届きませんでした。於羽嵐志彦は兄弟を失った悲しみと怒りのままに、剣を振り上げ、のどの裂けるような声をあげながら、黒竜の一際大きな首に向かってゆきました。
小さな神さまは、海に落ちる寸前で、青い珠を拾いあげました。珠の痛々しく欠けているのをごらんになったとたん、今度は朱い珠なる於羽嵐志彦が落ちてきて、小さな神さまはあわててそちらに走りました。二つの珠は小さな神さまのお胸にかえりましたが、しかしもう元の姿にもどることはできませんでした。
黒竜は血から衰える様も見せず、小さな神さまたちを飲みこもうと襲ってきました。美羽嵐志彦にはもうその鞭のゆな無数の首を避けるのが精一杯でした。小さな神さまにも、もはやほどこす手を思いつくことができませんでした。首は、剣で傷つければ傷つけるほど、次から次へと増えるほです。
(どうすればいい、どうすれば……)
小さな神さまは必死に考えました。しかし小さな神さまは未だ、戦うことが非常に不得手なのでした。元より憎悪の塊であり、相手を滅しようとする怨念の化身であるものに、力でもって勝てる方法を、小さな神さまは未だしっかりと得てはいませんでした。これはもはやだめかもしれぬと、小さな神さまは思われました。しかし、その小さな神さまのお手の上で、チコネが震えながら何度も叫んでいました。
「おとうさん、おとうさん! 助けてください!」
そうだ。久香遅の神に、チコネをにんかなに連れていくと約束したのだ。ここでへこたれるわけにはいかぬ。小さな神さまが、そう思った、その時でした。
海が、突然、山のように盛り上がりました。何千もの手で太鼓を打つような音が辺りに響き渡ったかと思うと、暗雲にひびが入り、昼の神のお手が一筋、海に射しこみました。
「吾子よ!」
太く雄々しい声が響きました。何千もの手を持った巨大な男神さまが、海中から現れて、飛び込むようにマにおおいかぶさりました。マは恐ろしい声をあげて、首という首でその男神さまに咬みつきまいた。めりめりと、お体の裂ける音が響きました。
その最中にも、見る見るうちに暗雲は払われ、やがて澄んだ蒼天がからりと現れました。昼の神の下に現れたそのお姿を見て、小さな神さまは声を飲まれました。
無数の首がもつれあい、もはや醜悪な肉塊としか見えぬマにおおいかぶさった方は、久香遅の神でした。久香遅の神は力という力をふりしぼり、手という手を使ってマを抑えつけていました。お口は一際大きなマの首を深く咬み、ぎらぎらとしたお目は小さな神さまに向かって無言のうちに叫んでおりました。
(さあいけ! わたしにはこやつを抑えておくっことしかできぬ!)
しかし小さな神さまは眼前の光景をにわかに信じることができず、ただ茫然と立っておられました。そのお手の上で、チコネが気も狂わんばかりに叫んでいました。
「おとうさん! おとうさん! おとうさん!」
(はやく! そいつを眠らせろ! そのままでは割れてしまう!)
我にかえった美羽嵐志彦が、急いでチコネを口にふくみました。そうすれば核はすぐに眠るのでした。
その様子を見た久香遅の神は、安心なすったように、ゆらりとお顔を歪ませました。笑っているのか泣いているのか、判断しかねるお顔でした。久香遅の神は、暴れるマを最後の力をふりしぼって締めつけました。そして、一瞬、口を開き、身を割らんばかりのお声で叫びました。
「おおいなる深淵の神よ!!」
すると。
水底から、音とも言えぬ音、声とも言えぬ声が、聞こえました。
膨大な海の水が、瞬間、真に透明なまま凍りついてしまったかのように、巨大な沈黙が深淵から発して、天を貫きました。小さな神さまが下をごらんになると、いつしか深淵の女神のお目が見開かれ、海上の小さな神さまたちを正視していました。小さな神さまは、天地ががくがくと揺れるほどの恐ろしさを、全身に浴びるほど感じておられました。そして凍りついたまま動けぬ小さな神さまの目の前で、女神の石のようなお口元が、ゆっくりと開きはじめました。
なんと、大きな、お口なのでしょうか。ひとひらの珊瑚のようでさえあった、小さなくちびるは、見る間に亀裂を深めてゆき、まるで水底すべてをおおわんとするほど、大きく大きく、広がりました。そしてそのお口の中には、いずことも知れぬ闇が、満々と湛えられていました。
闇に染まった黒い海面は、かすかに盛り上がりました。それは果てしない海底から、黒い大きな陸の塊がもぎとられて、音もなくゆっくりとせり上がってくるようにも、思えました。小さな神さまのほおを、理由もわからぬままに、涙が一筋、流れました。
それは、一頭の巨大なくじらが、にしんの群れを一飲みにする光景にも、似ていたでしょうか。津波のように巨大な女神の口に、マとともに飲みこまれんとする時、久香遅の神は刹那、うっすらとほほ笑まれました。その声にならぬ声が、呆然とその様子をごらんになっていた小さな神さまのお胸に、響きました。
(……最初から、こうしてやればよかったのかもしれぬ。そうすれば、おまえたちを死なせることもなかったろう……)
やがて、岩のぶつかるような音がして、女神のお口が、がしんと閉じました。女神は何もおっしゃらぬまま、再び深淵に沈まれ、ゆっくりと身を横たえられました。
昼の神が、ほこらしく中天に輝きました。海面は凪ぎ、板のように照り映えました。
まるで、何事もなかったかのような静けさの中で、小さな神さまは、がくりとひざを折られました。重い額が、手の中に落ちました。
(つづく)