パン屋の朝は早い。ファンゴーは、毎日毎日、親方が午前四時に起きて来る前に、パン種を用意し、天火を暖め、店先の掃除をしなければならない。粉をこねたり、パン種をこしらえたりするのは、親方が一手にやっている。まだ下働きのファンゴーには、粉に触らせてもくれない。一度、粉のこね方くらいは覚えたいと親方に言ったことはあるのだが、そなことをやるのは十年早いと、一蹴されてしまった。
ファンゴーの仕事は、いつも、掃除だとか、荷物運びだとか、屋根の修理だとか、そんな雑用ばかりだった。でも、人のいいファンゴーは、口答え一つせず、黙って親方に言われた仕事を片付けるのだった。
そんなある夜のことだった。ファンゴーは、一日の仕事を終えて、くたくたに疲れて、どかりとたおれこむように、屋根裏の自分の部屋のベッドに寝転んだ。目をつぶると、さっきの親方のどなり声が、耳の中でくりかえしくりかえし聞こえてきた。
「この馬鹿! なんで言われたことがちゃんとできねえんだ!」
ファンゴーは、親方に、仕入れたばかりの粉を、裏の倉庫にしまっておくように言われた。だが、それを運んで行く途中で、厨房の敷居につまずいて、そこら中に粉をばらまいてしまったのだ。顔中真っ白にしながら、ファンゴーは必死にこぼれた粉をかき集めようとした。だが、一度こぼれた粉は、もう使い物にはならなかった。親方はここぞとばかりにファンゴーをののしり、無能呼ばわりした。ファンゴーは必死に親方に謝った。だが、許してもらえるはずはなく、ファンゴーは、夕飯とあしたの朝飯をぬかれるはめになった。
「ああ、おれはなんて馬鹿なんだ!」
ベッドのシーツにつっぷして、ファンゴーは声を殺して泣いた。そのとき、ふと、近くでだれかの声がした。
「そうとも、あんたは馬鹿さ」
ファンゴーは、はっと顔をあげて、部屋を見回した。だが、部屋にはファンゴーのほかにはだれもいなかった。
「おれがわからないのかい、馬鹿だね、ファンゴー」
ふと、ファンゴーは、部屋の隅の暗い陰で、きらりと何かが光ったのに気がついた。ファンゴーは、目を皿のように広げて、その暗がりをにらんだ。すると、ぼんやりと、そこに何かもぞもぞと動くものが見えた。
「だれだ!」
ファンゴーが叫ぶと、その影は、さっと目にもとまらぬ速さで飛び上がり、次の瞬間、屋根裏部屋の小さな窓からしみこむ月光の中に姿を現した。それは、全身灰色の毛におおわれた、一匹の小さな猿だった。そのひしゃげたボールのような顔の真ん中あたりで、二つの大きな丸い瞳が、磨き込んだ煙水晶のようにつるつると光っている。
猿は、丸い目を、鎌のように細めてにやりと笑うと、ゆらゆらと長いしっぽをふりながら、ファンゴーに言った。
「ファンゴー、あんたは馬鹿だよ。自分でも、わかってるんだろ? あんたは馬鹿だよ。くっくっくっ……」
「うるさい!」
腹を立てたファンゴーは、その猿めがけて、藁のつまった枕をなげつけた。だが、それが猿に当たる前に、猿は、くっくっくっと、こもるような笑い声を残して、煙のように消えてしまった。ファンゴーは、しばらく、何が起こったのか分からずに、ぼんやりと、白い月光の落ちた床をじっと見つめていた。
(つづく)