次の朝早く、ファンゴーは、アネッサにパーティーの出席を断らねばならなかった。彼が、親方に迷惑がかかるから仕事は休めないと言うと、アネッサは少し不服な様子で、こう言った。
「どうして? そんなのおかしいわ。だって、神様はいいって言ったんだもの」
「神様のことと、仕事のことはちがうんだよ。頼んではみたけど、親方がだめだった言うんだ」
ファンゴーが言うと、アネッサは、悲しそうな目で、まっすぐにファンゴーを見た。ファンゴーは彼女の目を見ることができず、思わず目をそらしていた。
「ファンゴー、ちがうわ、ちがうわ! どうしてわからないの? どうして、もっと強く、親方さんにお願いしてみないの?」
「だめなものは、しかたないじゃないか!」
アネッサが聞き入れないので、ファンゴーはつい、言葉をあらげた。すると、アネッサは、悲しそうに目を伏せた。やがて彼女は言った。
「ファンゴー、神様が言ってるわ」
「もうその話はやめろよ」
「いいえ、これだけは聞いて。ファンゴー、わたしの神様は、言ってるわ。あなたは、親方に愛されてない。あなたは、親方の、道具だって」
パチン!と、高く音が響いた。はっと気がついたときには、ファンゴーはアネッサのほおをなぐっていた。一瞬、空気が凍りついた。
「だまれ! だまれ!」
投げつけるように、叫ぶと、彼は何が何だか分からぬまま、店を飛び出して走り出した。彼を見るアネッサの悲しげな目から、一時も早く逃れたかった。
(なぜだ! なぜみんな、おれにとやかく言うんだ。どうしてほっといてくれないんだ!)
街の通りを走り抜けながら、ファンゴーは、ただ、むしょうに怖かった。アネッサが怖かったのではない。彼女をなぐってしまったことが、怖かったのだ。彼は怖かった。そしてその恐怖から、逃げ出した。
「引き返せ! ファンゴー」
耳元で、猿がささやく。
「うるさい! ほっといてくれ!」
走りながら、ファンゴーは叫ぶ。
「もどれ! 逃げて何になる、逃げるな、ふりかえれ! ふりかえるんだ! ファンゴー!!」
「さわるな!!」
反射的に、ファンゴーは後ろに手を振り上げた。瞬間、彼は猿の毛皮が指に触れるのを感じた。今度は、逃さなかった。ファンゴーは、手をぐっとのばすと、その柔らかい感触を、しっかりとつかんだ。
かんだかい悲鳴をあげて、逃げようとするそれを、ファンゴーは無理矢理目の前に引き寄せた。猿の細い首を、自分の片手がしっかりと握り締めている。
「放してくれ、ファンゴー、後生だから」
猿は、大きな目をいっそう大きく見開いて、哀れむようにファンゴーを見上げている。すると、一瞬、ファンゴーの口の端に、残酷な笑いが浮かんだ。彼は、猿の首をつかんだ手に、ゆっくりと、力をこめていった。猿の首は、まるでビロードの布のように柔らかで、暖かかった。
「もう、だれも、おれに話しかけるな……、おれは、一人でいたいんだ。もうだれも、おれに触れるな……」
手の中で、次第に青ざめていく猿の丸い大きな目が、じっと、ファンゴーを、見つめていた。悲しげに、涙を浮かべて……。そして、猿は、その細い枯れ枝のような手を、ファンゴーにさしのべて、かすれ声でつぶやくように言った。
「ファンゴー、ファンゴー……、苦しいよぉ、助けておくれよ……、怖いよ……、おれを守っておくれよぉ……、ファンゴ……」
次の瞬間、まるで、煙が空気に溶けるように、ふっと、手の中の猿の姿は消えていた。空しくにぎりしめた拳を見つめながら、ファンゴーは、人形のように、その場に立ち尽くした。
凍てついた鉛を飲まされたように、胸の中が重く、じんじんとしびれていた。
(つづく)