ファンゴーは、親方の店を引き継いだ。猫姉さんは、ほかのところに行ったほうがいいといって、二、三の働き先を紹介してくれたが、ファンゴーはこの店を離れたくなかった。ほかの所に行って、知らない人の下で働くよりは、ここで一人でやっていくほうがいい。
何もない、だらだらと平和な日々が過ぎた。その間に、アネッサは、隣町に住んでいる商人の息子と結婚して、ファンゴーの前から姿を消した。結婚式の前日、猫姉さんが、アネッサからの手紙を、ファンゴーに持ってきた。その手紙には、真ん丸な目をした小さな猿の絵が描いてあった。だが、ファンゴーにはもう、その意味がわからなかった。
月日がたつにつれ、ファンゴーのまわりから、人々が去っていった。猫姉さんも、アネッサがいなくなると間もなく、店をたたんで故郷の町に帰っていった。町も変わった。れんが造りの建物が次第に姿を消し、代わりに、みょうにのっぺりとしたあじけのないビル群が、現れ始めた。そして、そのビルに住む多くの新しい人間が、新種のキノコのように、町中にひしめきあった。
町の片すみの、古いパン屋の建物の中に、ファンゴーは、長いこと、たった一人で暮らしていた。だれも、彼の家を尋ねなかった。手紙さえ、来なかった。
「これでいいんだ。おれは、一人のほうがいいんだ……」
時折、彼は、自分に言い聞かせるように、独り言を言う。だけど、年を取るにつれて、人間は、独りぼっちの寂しさに堪えられなくなってくるものだ。
そうして、四十歳の誕生日も近いある日、ファンゴーは、孤児院から独りの身寄りのない少年を引き取った。
昔、親方がよくふんぞりかえって座っていた丸椅子に座って、手には、昔よく自分をぶった親方の形見の鞭を持ち、ファンゴーは、少年に言った。
「今日からおれが、おまえの親方だ。いいか、おれは、おまえに食べさせてやるし、服も買ってやる。必要なら学校にも行かせてやる。だから、おれの言うことは、なんでもきくんだぞ」
「はい、親方」
ひ弱そうな少年が、自分ののぶとい声にびくびくしているのが、ファンゴーは何だかみょうに気持ちがよかった。これで、おれはもう独りではないと、彼は思った。
そうだ。ファンゴーは、もう独りぼっちではない。彼は、自分の失った孤独の月日を埋めるために、この少年の心も、未来も、すべて飲み尽くし、支配しようとするだろう。鞭をふるい、独裁者のようにふるまい、そうして、もっと孤独の深みにおちいって行くだろう。かつて、彼の親方がそうであったように。
少年は、不安におびえた目つきで、おそるおそる親方の顔を見上げた。そのとき、ふと、親方の後ろに、大きな丸い目をした痩せこけた小さな猿の姿が、ぼんやりと見えたような気がした。あわれを乞うような悲しげな目付きをして、じっと少年の方を見ている。
「何だ、何をじろじろ見ている!」
突然、親方が声をあらげたので、少年ははっと身をこわばらせた。
「あ、ええと、その、猿が、そこに……」
「猿?」
ファンゴーは、少年の視線の指し示す方へ、振り返った。だが、そこには、冷たい厨房の灰色の壁が、あるばかりだった。
(おわり)