次の日の朝は、ファンゴーは、ちゃんとした時間に起きだして、いつもの仕事を親方が起きてくる前にみんな片づけた。親方は、そんなファンゴーに、ぐだぐだともんくをつけもしなかったし、ほめもしなかったが、一応、ファンゴーは朝飯にありつくことができた。
その日、ファンゴーはいつもよりこまめによく働いた。昨夜、猿が自分に言ったことが、なんとなく、ファンゴーの胸に親方に対する罪悪感を植えつけていたからだ。いつも手がのろいと言われてしかられる道具磨きの仕事も、ずっと早く終わった。すると親方は、ファンゴーのほっぺをぺちぺちと軽くたたいて、吐き捨てるように言った。
「へっ、てめえみてえな馬鹿でも、やればできるじゃねえか」
「ちょっと、そんな言い方はないだろう」
突然、横から猫姉さんの声がして、ファンゴーははっとした。いつの間に厨房に入ってきたのか、入り口の柱にもたれて、猫姉さんが立ってこっちをじっと見ていた。
「この子がせっかくりっぱにやったんだ。ちょっとはほめてあげてもいいじゃないか! それをなんだい! 蛙がへをひったみたいな顔して、やればできるじゃねえか、だってえ? あんたには弟子に対する愛情ってもんがないのかい!」
「何だと、このアマ! そ、そっちこそなんだ、他人の店に勝手にはいりこみやがって!」
あっという間に、大げんかが始まった。親方と猫姉さんは、まるでマシンガンでも撃ちあっているように、ぎゃあぎゃあとわめき、叫び、ののしりあった。そんな二人のそばで、ファンゴーはどうしていいかわからず、おろおろとするばかりだった。
ふと、ファンゴーは、二人の罵声にまじって、なんだか獣の声のような、きゃあきゃあという笑い声が聞こえるのに気がついた。見ると、昨夜のあの猿が、いかにもおもしろそうに笑いながら、喧嘩をしている二人の頭の間を、ぴょんぴょんと飛び回っているのだった。ファンゴーは息が止まるほど驚いて、思わず、「やめろ!」と叫んで二人の間に割り込んだ。すると猿は、ファンゴーの腕をするりとよけて、猫姉さんの肩にぴょんととびのった。
その声を聞いて、親方と猫姉さんは、ふと黙り込んで、ファンゴーのほうを見た。ファンゴーは思わず自分の口をおさえた。親方の顔が、怒りで真っ赤になっていたからだ・親方は、ずいとファンゴーのほうに向き直ると、彼の襟首をぐいとつかんだ。
「何だと、この馬鹿、それが親方に対する口の利き方か!」
ファンゴーはあわてて弁明した。
「ち、ちちちがうんです。おれは、さ、猿がいたんで……」
「猿ぅ? 猿だとぉ?」
「は、はい、そこに……」
ファンゴーは、ふるえながら、猫姉さんの肩にいる猿を指さした。すると、猿はファンゴーを見てにやりと笑った。
「どこに猿がいるってんだ! てめえ、いいかげんな言い訳しやがって!」
そう言うと、親方は、腰にさした鞭をぬいて、ファンゴーの顔をいやというほどひっぱたたいた。ぎゃあっと、ファンゴーの悲鳴が起こった。温い血の筋が、彼の額に流れた。
「な、何てことするんだ!」
猫姉さんがとめようとしても無駄だった。親方は、もう完璧に頭ん血が上っていた。もし、そのまま、親方がファンゴーをぶち続けていたら、ファンゴーは親方に殺されていたかもしれない。だけど、親方が二度目の鞭をふりおろそうとしたとき、天の助けがふってきた。店先の方から、お客が呼ぶ声がしたのだ。
「ごめんくださあい。だれもいないんですか?」
「ほ、ほら、お客だよ、ファンゴー、行って聞いといで。ほら、ちゃんと血をふいて!」
鞭をふりあげたまま、どうすることもできずに立ちつくしている親方が口をひらく前に、猫姉さんがあわてて言った。
「は、はい」
ファンゴーは、前掛けで額をふきながら、ふらつく足取りで店のほうに向かった。
「な、何にしましょう」
そう言いながら、店先に出たとたん、ファンゴーははっと息をのんだ。お客は、つやつやとした亜麻色の長い髪を肩にたらした、かわいらし少女だった。
少女は、ファンゴーを見ると、にっこりと笑って言った。
「あの、ブルベリィのジャム、ありますか?」
「あ、はい、あります、あります」
ファンゴーは、思わず、どぎまぎとしながら、後ろの戸棚からブルベリィのジャムを取った。と、ふと、後ろから猫姉さんの声が聞こえた。
「まあまあ、アネッサじゃないか!」
(つづく)