その日から、ファンゴーは、あまりアネッサと話をしなくなった。毎朝彼女がパンを買いに来ても、彼は口も利かずにパンを渡すだけになった。アネッサの方は、ファンゴーと話をしようと何度か店の前で待っていたりするのだけど、ファンゴーは極力無視するようにしていた。
時々、猫姉さんが店に来て、ファンゴーに言う。
「ファンゴー、何てあんた、あの娘を避けるんだい? あの娘は、そりゃ、気に病んでるんだよ、ちょっとは話を聞いてやってもいいじゃないか……」
ファンゴーは答えない。考えたくもない。
(おれは、おれだ。何もかも、おれの勝手じゃないか。親方がどうだろうと、おれがどうだろうと……、もう、ほっといてくれ。おれにさわらないでくれ。何も言わないでくれ……)
以前と変わらぬ日々が続いた。親方は、相変わらず、厳しかった。でも、ファンゴーはそれでいい、と思った。親方の下でいれば、何も考えずにすむ。毎日のご飯にもありつける。寝床にも困らない。それでいいじゃないか。多少つらくったって、ただ命令を聞くだけで、それだけで、ちゃんと生きていけるんだから……
猿は、あれから、二度と彼の前に姿を現さなかった。そして、彼も、だんだんと、そんな猿がいたことを忘れていった。ただ、胸の奥の、不思議な重い痛みだけが、ときおり、彼を苦しめた。
それから、何年かが過ぎたある日、突然、親方が死んだ。町の酒場で酔っ払って、家に帰る途中、馬車にはねられたのだ。
不思議に、ファンゴーは悲しくなかった。ほっとするようなこともなかった。ただ、親方の死を自分がそんなにつらく思っていないということが、少しつらかった。
町外れの教会で、親方の葬式が寂しく行われた。参列者は少なかった。そのときになって初めて、ファンゴーは、親方にもほとんど身寄りがなかったことを知った。
「最後まで、はた迷惑なやつだよ、まったく!」
葬式の後片付けを手伝ってくれた猫姉さんが、言った。
「あたしはね、言ったんだよ。そんなに世間に後ろ向くもんじゃないって! それを、自分だけ被害者みたいな顔してさ、要するにすねてたんだよ。だからほら、ろくな死に方しなかったじゃないか!」
最後の方は少し泣き声になっていた。ファンゴーは黙って聞いていた。
「あのときね、あたしゃ、店の窓から見てたのさ。よっぱらって、ふらふらして、今にも倒れそうだった。あぶないよって、声をかけようと思ったら、そしたら、突然、気違いみたいな叫び声をあげて、走りだしたんだ。そのまま、馬車の前に飛び込んで、それでおしまいさ」
「気違いみたいなって?」
「よく聞きとれなかったけどね、こんなふうさ、『近寄るな、近寄るな! この猿め!』って」
「猿?」
「うん、そう聞こえたよ」
(つづく)