次の朝、目を覚ましたファンゴーは、最初に、窓から白々と明けた空が見えるのに気がついた。
「しまった! 寝過ごした!」
ファンゴーは肝をつぶして、あわてて着替えて階下に降りた。だが、もう親方はとっくに起きていて、いつもファンゴーが朝にやる仕事はもうみんなとっくにすませてあった。
「よう、親方よ、やっと起きたのかい」
親方は、ファンゴーをぎろりとにらむと、手に持った鞭で手の平をぽんぽんとたたいて、にやりと笑った。
その日は、もう大変な一日だった。食事をぬかされたり、朝から鞭をもらったりしたファンゴーは、腕に力が入らず、手に持ったパン籠やら粉袋やらを、何度となく落とした。
「このうすのろ馬鹿め! いつまでおれに世話をやかすんだ!」
親方はそのたびに、またファンゴーの背中を鞭で打った。
ようやく、一日の仕事を終えると、ファンゴーは、ふらふらつぃながら階段を上り、自分の部屋に戻った。そして、ベッドの上にうずくまると、ふところから小さな包みに入った肉のくん製を取り出して、むしゃぶるように食いついた。何十回と鞭で打たれて、ようやくそれだけもらったのだ。固いくん製を歯で噛みちぎりながら、どうしようもなく、とめどなく涙があふれ出てきた。ファンゴーは、嗚咽をあげながら、くん製をあごが痛くなるほどくちゃくちゃと噛んだ。
(どうしておれは、どうしておれは、かしこくなれないんだろう? 親方の言うような、ちゃんとした仕事ができないんだろう?)
泣きながら、ファンゴーは思った。
そのとき、ふと、また、部屋の隅の暗がりから、あのこもるような笑い声が聞こえた。ファンゴーははっとして、思わず口の中のくん製をごくりとのみこんだ。
「そいつぁあ、おまえが馬鹿だからさ、ファンゴー、くっくっ、おまえが馬鹿だからさ」
「だれだ! おまえは!」
「忘れたのかい? ファンゴー、おれだよ」
すると、声の主は、つぶてのようにさっと飛び上がって、ファンゴーのベッドの端にとまった。
「だ、だれだ、おまえは……」
「ちっちっ、こんな近くに寄ってもわからないとはね。馬鹿だね、救いようのない馬鹿だね」
猿は、目をまた鎌のように細めると、首をかしげて、なめるようにファンゴーの顔を見上げた。それを見たファンゴーは、猿に馬鹿にされたような気がして、無性に腹が立った。
「うるさい、おまえみたいな猿に、何がわかるんだ」
すると猿は、細めた目をさらに細めて、意味ありげに笑った。
「わかるともさ。おれは、おまえのことなら、何だって知ってる。おまえが、ほんとは自分は馬鹿じゃないと思ってることも、親方のことを心の底では憎んでることも……」
「なんだと!」
ファンゴーは、思わず腕を振り上げた。すると、猿はいったんふっと姿を消して、今度は窓の所に現れた。
「この化け物め! いますぐおれの前から消えろ! いいか、おれは、親方のことをとても尊敬してるんだ! 親方の言うことは何だって正しい! もし、親方がおれのことを馬鹿だっていうんだったら、おれは、もしかしたら……」
「ほんとうに馬鹿かもしれない」
言いかけた言葉を猿に先に言われて、ファンゴーはぐっとつまった。すると猿は、甲高い声をきしらせて狂ったようにけたけたと笑い出した。ファンゴーは、込み上げてくる怒りに、かみ閉めたくちびるをぶるぶるとふるわせた。そして、うぎゃあっという、自分でも信じられないような叫び声をあげて、猿につかみ掛かろうとベッドから飛び上がった。だが、その手が猿ののどくびを捕まえる前に、猿は窓からもれる月光の中に、溶けるように消えていった。
(つづく)