それからしばらくの間、ファンゴーにとっては、わくわくするような楽しい日々が続いた。毎朝、店を開けると間もなく、猫姉さんの使いでアネッサがパンを買いにやってくるのだ。
「おはよう、ファンゴーさん、いつものパンできてます?」
「はい、できてます」
ファンゴーが、ほんのりと暖かいパンの包みを渡すと、アネッサは、焼きたてのパンの暖かみを味わうように、少しの間ての中に包みこむようにじっと置いてから、「ありがとう」と言って出ていく。たったそれだけのことで、ファンゴーにとってはもう毎日がばら色なのだった。
アネッサがあらわれてから、仕事にも身が入って、ファンゴーは、毎日のつらい仕事も、そつなくてきぱきとやれるようになってきた。そんなファンゴーを見て、親方は、別にほめことばを言うでもなく、むしろ、前よりもファンゴーにつらくあたるようになった。
「店の床磨きがまだできてねえじゃねえか! さっきやっておけと言っといたろ!」
もちろん、そんなことを聞くのは初めてだった。でも、人のいいファンゴーは、親方にそう言われると、前にそんなことを聞いたような気になって、「すみません」とあわててあやまって、いそいそと雑巾を取りに行くのだった。
「どうしてあやまるんだ? ファンゴー」
床に腰をかがめて雑巾を動かしていると、背後からあの猿の声がした。ファンゴーは振り返らずに、ささやき声で返事をした。
「どうしてって、そりゃ、おれが悪いから……」
「何でおまえばっかりが悪いんだ? 床磨きのことなんて何も言われてないじゃないか! あいつが意地悪で言ってるってこと、わかってるんだろ?!」
耳元できいきいとわめきたてる声に辟易しながら、ファンゴーはつとめて声をひそめて言った。
「親方は、路頭で迷ってたおれを拾ってくれたいい人なんだ」
「親方親方って、おまえは親方がいなきゃ何にもできないのかい?」
「うるさいな! 黙れよ!」
ファンゴーは、腕をふりあげて、その声の主をふりはらおうとした。だが、そこに猿の姿はなく、ファンゴーは後ろのパン台に思い切り手をぶつけてしまっただけだった。
「ファンゴー、馬鹿なやつ……」
背後の窓を、カタカタとゆらす風の音にまじって、かすかに声が聞こえたような気がした。
でも、たとえそんなつらいことがあっても、翌日の朝にアネッサの笑顔を見れば、ファンゴーはまた幸せな気分にひたれるのだ。
アネッサも、このごろではファンゴーと会うのを楽しみにしているみたいで、店に来るたびに、少し話をしていく。もちろん、仕事があるから、そんな長話はできない。ファンゴーが焼きたてのパンを包んでいるほんのひとときの間、天気のこととか、店の屋根に巣を作ったスズメのこととか、猫姉さんが丹精している鉢植えの花のことだとか、そんなたわいないことを、なんとなく話すのだ。
「ファンゴーさんて、えらいのね」
アネッサが、白いほおにえくぼを作って、言う。
「え?」
ファンゴーは思わず聞き返す。
「おばさんに聞いたの。朝は三時ごろから起きて仕事してるんですって?」
「それは、どこのパン屋だってそうなんでしょ?」
「ううん、わたしが前に住んでた町のパン屋さんは、そんなに早起きじゃなかったわ。でも、毎朝そんなに早くて、つらくない?」
「いいやあ、仕事だから……」
アネッサの前にいると、ファンゴーは、いつも、自分が今までと全然ちがう自分になっているような気がした。親方にしょっちゅう怒られてばかりいる、だめなファンゴーでなく、よく働く、評判のいいパン職人のファンゴーになれたような気がした。そして、できることなら、いつまでもこんなふうに彼女といっしょにいたいと思うのだった。
だけど、そんなふうに楽し気に話している二人を、陰からじっとにらんでいる冷たい目があることに、ファンゴーは気がつかなかった。
(つづく)