ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

十字架 1999.10.1

1999-10-01 16:10:29 | 嫩葉
十字架
目下、聖堂の建築が急ピッチで進んでいる。すでに、十字架を取り付けるための塔が立っている。地上12メートルの塔の上に縦2.5メートルの十字架が立てられる。
十字架はキリスト教そのものを示す象徴である。十字架が立っているところにキリスト教がある。もっとも、最近では男も女もアクセサリーとして十字架を胸にぶら下げているのが見られる。わたし自身は十字架を胸にぶら下げるセンスがない。というより、恐れ多くて、そんなことができない。
十字架とは、当時考えられた最も苦しい処刑方法である。痛さと恥ずかしさとの極み、それが死の直前まで続く。イエスはこの方法で処刑された。だから、キリスト教のシンボルとなった。
キリスト教とは奇妙な宗教である。十字架刑によって処刑された一人の人物を神と崇め、彼を信じることによって永遠の生命が与えられたと、語る。そこにはロマンティシズムが入りこむ余地がない。言葉に出して言えば、パラドックス(逆説、不可解)以外の何ものでもない。
ところが、この十字架を信じた人々が世界の各地で驚くべき仕事をする。日本に幼稚園というものを持ち込んだのも十字架を信じた人々であったし、そもそも幼稚園という事業を世界で最初に考え実践したフレーベルもキリスト者であった。どこに、そんなパワーがあったのだろうか。十字架に従って生きた人々の生き方を探ってみると、十字架のパワーの秘密は、「自己のために生きるのではなく他者のために生きる」ということにつきるようだ。
わたしたちの教会が十字架を町の中に高くかかげるということは、ここにそういう生き方をしたいと願い祈っている人々がいるということの宣言であり、また共にそういう生き方をしましょうという呼びかけでもある。
西大和双葉幼稚園は「キリスト教の幼稚園」である。だからと言って、ここに通うすべての園児をキリスト者にするというのではない。しかし、少なくとも「自己のために生きるのではなく、他者のために生きる」ということが、真に生きることであり、またそこに「生命への力」の秘密があるのだということを教えたい。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1:18)(園長・牧師 文屋善明)

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