ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

新世紀 2001.1.1

2001-01-01 16:17:57 | 嫩葉
新世紀
新しい世紀を迎えるにあたって何か記念になるような文章を残したいという欲求のようなものがわたしの内部からふつふつと湧きあがってくる。しかし、残念なことに21世紀に何も「新しさ」を感じない。それはある意味では当然のことであろう。21世紀を20世紀から区別する標識はもっと後になってだんだんと見えてくるものなのだろう。
それにしても、わたしの中にある「新しい時代への欲求」は執拗である。単なる「現代」への不満を超えて、「時代の新しさ」への愚考は続く。2000年12月31日と2001年1月1日とは、特別な関係はなく、平凡な日めくりに過ぎない、とも思う。そう思う自分にがっかりする。なぜだろう。このような思いはどこから来たのだろうか。他の人はそんなことを考えないのだろうか。
一つだけ思い当たることがある。それは聖書である。旧約聖書から新約聖書まで一貫して繰り返し語られる強烈なメッセージがある。そのメッセージがそんなに深くわたしの内面に突き刺さっているのか、ということに驚かされる。そのメッセージとは「新しい天と新しい地」への思いである。
「見よ、わたしは新しい天と新しい地とを創造する」(イザヤ65:17)。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリントⅡ5:17、18)。「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを神の約束に従って待ち望んでいるのです」(ペテロⅡ3:13)。「わたしはまた、新しい天と新しい地とをみた」(ヨハネ黙示録21:1)。聖書の引用はこれ位でいいだろう。要するに、初代のキリスト者たちは、主イエス・キリストとの出会いにおいて、新しい時代を予感し、新しい時代を先取りして生きたのである。それからおよそ2000年、教会はこの息吹を受け継ぎ今日に至っている。
「あの新しさ」は2000年という「時」によって「古びて」しまった、ように見える。現代のわたしたちは2000年前のキリスト者たちが感じていた程に強烈には「時代の新しさ」を感じていない。しかし、わたしの内部からふつふつと湧きあがる「新世紀」への思いは、確かに「あの人たち」が抱いていた「新時代意識」と共通するものがある。「新しい天と新しい地」への思いだけがわたし自身を新しくする。使徒パウロと同じように「たとえわたしの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コンリトⅡ4:16)(園長・牧師 文屋善明)

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