ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

いのち 1999.3.1

1999-03-01 15:55:53 | 嫩葉
いのち
「いのち」ということを意識し始めるのは「死」を意識するのと同じことである。人間は「死ぬ」ということを知って「いのち」の大切さに気づく。これは大人だけではなく子どもでも同様である。むしろ、子どものほうが「死への恐怖」を素直に感じている。そのことに大人は気づかない。あるいは、気づかないことにしておいたほうが安心だと思っているのかもしれない。「いのち」は見たり、感じたり触れたりすることができる。 「死」という問題は厄介である。哲学的に「死とは何か」と論じ、何か理解したとしても、実際に「死」に直面すると、そんな哲学は吹っ飛んでしまう。「死」を納得するということは人間には不可能なのかもしれない。 昨年10月、童話屋という小さな出版社からすごい絵本が出版された。タイトルは「葉っぱのフレディ」、副題として「いのちの旅」が添えられている。著者は「アメリカの著名な哲学者レオ・バスカーリア」(編集者田中和雄氏の推薦の言葉より)。絵本といっても半分の頁は5人の写真家による写真が載せられている。著者はこの本を「死別の悲しみに直面した子どもたちと、死について適確な説明ができない大人たち、死と無縁のように青春を謳歌している若者たち」へのメッセージであると述べている。 正直なところ、この本の後にある著者の「生命観」はわたしのキリスト教信仰の立場からは疑問を感じる。これで「死」というものを納得ができるのか。もっと批判的に言うなら、特攻隊精神につながるような危険性を感じないわけではない。しかし、生きること、死ぬことを正面から取り扱った「絵本」としては秀逸の書である。第1とても美しい。死に直面している人、親しい者との死別を経験した人々は、こういう形でしか「悲しみ」を克服できないのかもしれない。むしろ、小賢しい哲学的な生命観が無力な場面では、この本はすごい説得力を持つように思う。子どもにこの本を読み聞かせることを躊躇しながらも、最近読んだ本の中でも、特に強い感銘を受けた本として紹介する。 <死を前にした親しい友人に贈るつもりで購入したが、いろいろ考え込んでしまって、ついに手渡すことができなかった思いを込めて記す。>(牧師・園長文屋善明)

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